第33話:2400rpmの洗礼
第33話:2400rpmの洗礼
「打者のタイプを見極めろ。配球はそこから始まる」
野村克也は、野球を「記憶と連想のスポーツ」だと定義した。
一条湊の観察眼が、バッターボックスに立つカルロス・サントスを「赤」で塗りつぶす。
直感型(感覚型)。
豊田の150キロを「速い」と感じる間もなく打ち返したその野性は、今、湊の投じた122キロという「バグ」に直面し、一時的なフリーズを起こしていた。
「……何だ、今の。消えたぞ?」
サントスが、自身の動体視力を疑うように目をしばたかせる。
150キロの腕の振りから放たれた、122キロの弾丸。
脳が予測した到達点と、実際のボールの軌道が28キロの乖離を起こす。そのわずかコンマ数秒のズレが、打者のタイミングをズタズタに引き裂く。
二球目。
湊は、深く帽子を被り直す。
指先には、試合前の「狂気」の残滓が宿っていた。
登板直前。湊はアイシング用の氷嚢を握り込み、指先の感覚を極限まで麻痺させていた。
冷たさで痛覚が消え、代わりに神経が研ぎ澄まされる。
皮膚の感覚が消えたとき、初めて「骨」でボールの縫い目を感じることができる。
1ミリ以下の単位で、指を掛ける位置を調整する。
それはデッサンで、0.1ミリの線の太さに魂を削る作業と酷似していた。
(サントスは『赤』。理屈じゃない、反応で打つタイプだ。なら、反応を逆手に取る)
湊の左足が、スタジアムの土を高く蹴り上げる。
リンスカムばりのダイナミックな歩幅。
180センチの長身が、重力に従ってマウンドを滑り落ちる。
リリース。
しなやかで、かつ鋭い手首の返し。
シャッ!
ボールが指先を離れる瞬間、湊の脳裏にエックス線のような透過図が浮かぶ。
前腕の筋肉が強制停止しようとする「リミッター」の軋み。
それを、10年間の壁当てで培った「執念」という油で強引に回す。
一閃。
今度は、外角低めに沈むサークルチェンジ。
腕の振りは、やはり150キロのそれだ。
「……ッ!」
サントスのバットが、獲物に食らいつく狼のように飛び出した。
だが、白球は打者の手元でブレーキがかかったように減速し、沈む。
空を切る、乾いた音。
「ストライク、ツー!」
球速、わずか87キロ。
スタンドが騒然となる。
150キロの剛腕・豊田を打ち崩した鎌倉打線が、中学生のような球速の1年生に手も足も出ない。
「嘘だろ……あのフォームで、なんであんなに遅いんだ?」
三塁側ベンチで、鎌倉の監督が顎を外さんばかりに驚愕している。
「これが一条湊なんです」
陽葵が鼻息を荒げながら、ベンチでノートに球速を記入する。
画面には、湊の投球の回転軸が鮮やかに表示されていた。
「彼の直球は、122キロしかない。でも、回転数は2400rpmを超えている。これはメジャーリーガーの平均を凌駕する数値です。打者の脳は、球筋が『落ちる』と予測する。でもボールは落ちない。重力を拒絶して、浮き上がるんです」
追い込んだ。
三球目。
湊は、捕手・佐伯のサインに頷く。
佐伯のリードは、黒田のような「力押し」ではない。
湊の「異能」を、数学的な確率論で配置する新時代のタクティクス。
(湊、これで終わりだ。お前の『122キロの炎』を見せつけてやれ)
マウンド上の湊が、獣のような眼光を放つ。
父親・健造の「センスがない」という呪縛。
豊田の「マウンドを汚すな」という蔑み。
それらすべてを、この一球で焼き尽くす。
全力。
脳が悲鳴を上げる。
筋肉が、腱が、骨が、限界を超えた出力を拒絶して震える。
だが、湊は笑った。
(進歩するしか、ねえだろうが……!)
ドォォォォォン!
空気を切り裂く、高周波の唸り。
渾身のストレート。
サントスは、今度こそタイミングを合わせた。
完璧なスイング。
バットの芯が、白球を捉える――はずだった。
「……あ?」
サントスの視界の中で、ボールが爆発した。
ホップしたのではない。
あまりの回転数に、打者の手元で「伸び」が加速したように見えたのだ。
バチュンッ!
黒田の構えるミットが、衝撃で跳ね上がる。
サントスのバットは、ボールのわずか数センチ下を、虚しく通り過ぎていた。
「ストライッ! 三振!」
審判の絶叫。
横浜スタジアムに、これまでにない異様な歓声が沸き起こる。
122キロ。
電光掲示板に表示されたその数値は、野球の常識という名の「壁」を、無残に打ち砕いていた。
外野で、豊田零司が呆然と立ち尽くしていた。
自分の150キロが通用しなかった相手を、自分より30キロも遅い球を投げる少年が、たった三球で黙らせた。
「……一条」
豊田の声は、震えていた。
湊は、帽子を深く被り直したまま、次の打者を待つ。
「豊田さん…。野球は球速コンテストじゃないですよ…」
一回戦、終盤。
聖隷高校に、これまでにない不気味な「熱」が宿り始めていた。
それは、旧秩序が崩壊し、新たな怪物が産声を上げた証だった。




