第103話:相対性理論の暴力
第103話:相対性理論の暴力
速度とは絶対値か、それとも相対的な錯覚か。
ドーム球場を支配する、異様な静寂。
先ほどまで轟のフルスイングを期待して沸き立っていた3万人の観客は、自らの眼球が捉えた物理的矛盾の前に、完全に沈黙していた。
スピードガンの表示は『122km/h』。
高校生でも打てるはずの、ありふれた遅球。
だが、日本一の強打者である轟は、その遅球に対してピクリともバットを動かせず、ただ亡霊を見るような目でマウンドを見つめている。
バッターボックスの白土の上で、轟の額から流れる冷や汗が、スパイクの甲にポタリと落ちた。
彼の脳内では、未だにエラーコードが点滅し続けていた。
(……速い。さっきの60キロの残像が邪魔して、この122キロが、手元で急加速したように見えやがる)
速度とは、常に比較によって認識される。
60キロを基準に設定された脳にとって、62キロの『速度差』は、もはや人間の反射神経の限界を超えるレーザービームとして知覚される。
さらに、湊の指先が生み出す2600rpmのホップ成分が、重力による落下の計算式を完全に破綻させていた。
轟は、奥歯をギリリと噛み締めた。
プロのプライド。意地。
そんなエモーショナルなノイズで、この物理的ハッキングを乗り越えられるはずがない。
彼は完全に「未知のシステム」と対峙している事実を認め、バットのグリップをもう一度、深く握り直した。
(……球威はない。当たれば飛ぶ。あのホップの入射角の下に、バットの芯を潜り込ませるんだ)
轟は、自らのスイング軌道を「極端なアッパースイング」へと再調整する。
膝を深く割り、重心をさらに低く設定。
湊の青く冷え切った眼が、そのマイナーチェンジを透明なキャンバスにデッサンする。
(……大腿四頭筋の緊張状態。バットヘッドを下げ、下から掬い上げる軌道の形成)
湊のデッサンは、轟の思考の行き先を完全に先回りしていた。
ベンチ裏。
結城陽葵のノートPCの排熱ファンが、ジリジリと回転速度を上げる。
画面上の3Dモデルが、轟の新しいスイング軌道を赤色で表示し、湊の直球の軌道(青色)と交差しないことを証明している。
『対象のアタックアングル、上方へ修正。直球(青い炎)に対する空振り確率、98.4パーセント。……実行を推奨』
陽葵がエンターキーを軽く叩く。
その硬質な音が、ドームの静寂を縫って湊の脳内に届くような錯覚。
湊は、ロージンバッグを無造作に放り投げた。
プツン、と白い粉が空気に溶ける。
セットポジション。
感情の一切を排除した、冷徹な機械の動作。
左足を上げる。
大腿四頭筋から骨盤へ、そして分厚い胸郭の捻転へ。
エネルギーのロスを極限まで削ぎ落とした、無音のモーション。
癒着した前腕の繊維が悲鳴を上げ、手首が特定の座標で強制的にロックされる。
スローモーション。
変形した指先のタコが、再び公式球の低い縫い目を完全に捉える。
摩擦係数の最大化。
だが、湊は直球(青い炎)を投げなかった。
シュッ!
空気が鋭く裂ける音。
湊の指先から放たれたのは、直球と全く同じリリース、全く同じ腕の振りから繰り出される『81キロのバルカンチェンジ』だった。
轟の網膜が、ボールの初速を捉える。
(……遅い! さっきの60キロか!? いや、違う! それより速い!)
脳内コンピューターが、狂ったように計算をやり直す。
122キロの直球に合わせたスイング軌道を、急遽ブレーキをかけて遅らせる。
だが、バルカンチェンジの真の暴力は「遅さ」ではない。
マグヌス効果(回転による揚力)が不規則に消失し、空気抵抗によって軌道がブレるという「空間のバグ」だ。
轟がギリギリまで引きつけ、極端なアッパースイングでバットを掬い上げようとした瞬間。
ボールは、轟の手元でフワリと右へ揺れ、直後に重力に従って急激に落下した。
轟のバットは、ボールが元々あったはずの「虚無の空間」を、凄まじい遠心力で薙ぎ払った。
ブンッ!!!
空気を叩き割る爆音が、バッターボックスで空振りの旋風を巻き起こす。
轟は、自らのフルスイングの反動を殺しきれず、完全にバランスを崩してホームベースの上に両手をついた。
パンッ。
ワンバウンドすれすれで、キャッチャーのミットが白球を飲み込む。
球審の「ストライク! バッターアウト!」のコールが、虚しくドームに響いた。
三球三振。
60キロの超スローカーブ。122キロの直球。81キロのバルカンチェンジ。
最高球速122キロという、プロの世界では「規格外の欠陥品」が。
相対性理論を利用した速度差と、物理法則をハッキングした回転数の操作だけで、日本一の強打者の肉体と脳髄を完全に破壊した。
マウンド上の湊は、両手をついて這いつくばる轟を見下ろすこともなく、ただ自らの右手の関節をコキリと鳴らした。
スピードガンの数字しか信じない巨大なシステムに対する、冷徹な証明。
エラーコードによる制圧が、静かに完了した。




