第104話:同一座標の出力
第104話:同一座標の出力
人間の腕は、精密な射出機になり得るか。
東京、巨大なドーム球場。
試合は5回裏を迎えていた。スコアボードには、両チームともに無機質な「0」が並び続けている。
マウンド上の一条湊は、依然として表情一つ変えることなく、白土の上に立っていた。
ザッ、ザッ。
一塁ベース上。先ほどの回、四球で出塁した走者が、スパイクの歯でリードの土を均す音。
その硬質な摩擦音が、マウンドの湊の耳元で、自らの規則的な心臓の鼓動と完全に同期し、不気味なノイズとなって脳を揺さぶっている。
湊の青く冷え切った眼が、ホームベースを向いたまま、周辺視野で一塁走者の筋肉の収縮をデッサンする。
(……リード幅、3.2メートル。右足のハムストリングスへの過重。重心は前足に65パーセント。スタートの予備動作あり)
透明なキャンバスに引かれた線が、走者の意図を完全にハッキングしている。
走者がいつ盗塁のスタートを切るか、その物理的な兆候を、湊は脳内のデータとして処理していた。
だが、湊の顔に焦りはない。
ただ、入力された変数に応じて、自らのモーションのタイミングをコンマ数秒だけ調整するのみだ。
一方、三塁側ベンチ裏の暗がり。
結城陽葵は、折りたたみ式のテーブルの上にノートPCを開き、排熱ファンをジリジリと唸らせていた。
液晶画面が放つ青白い光が、彼女の無表情な横顔と、その後ろに立つ球団のピッチングコーチの顔を照らし出している。
「……信じられん。あの遅い直球と変化球だけで、昨年の日本一打線を5回までノーヒットに抑え込んでいるだと?」
コーチは、手元のクリップボードを震わせながら、モニターの数字とマウンドの湊を交互に見比べた。
「あの強打者たちが、まるで金縛りにでもあったようにバットを振れない。彼の投球には、打者を圧倒する気迫や魂がこもっている。どんなピンチでも動じない、強靭なメンタルの賜物だな」
気迫。魂。メンタル。
システムに組み込まれた人間が、自らのモノサシで測れない事象に遭遇した時、決まって口にする非科学的な言語。
陽葵は、キーボードを叩く手を止めずに、氷のような声でそのスポーツロマンを切り捨てた。
「……精神論という不確定要素を、勝手に計算式に入れないでください。あれは魂でも魔法でもありません。純粋な『座標の完全一致』が引き起こしている、視覚のバグです」
カチャ、と陽葵がエンターキーを強く叩く。
PCの画面に、今日湊が投じた全7球種の3Dトラッキングデータが展開された。
122キロの直球。120キロのツーシーム。110キロのフォーク。90キロのパワーカーブ。80キロのバルカンチェンジ。70キロのパラシュートチェンジ。そして、60キロの超スローカーブ。
色分けされた7本の軌道線が、マウンドからホームベースに向かって伸びている。
「これを見てください。リリースの瞬間から、ホームベースの手前約9メートルの中間地点まで」
陽葵がマウスポインタで示した空間。
そこでは、7色の線が完全に重なり合い、たった1本の太い線を形成していた。
「打者の脳内コンピューターが、球種の初速と軌道の変化を識別できる限界点は、ホームベースの手前およそ5メートルです。それまでの空間を、彼は『すべての球種で全く同じ座標』に出力している。それが、ピッチトンネルです」
コーチの息を呑む音が、暗がりに響いた。
野球において、球種が違えば握りが変わる。握りが変われば、腕の振りや手首の角度、リリースポイントの座標に、必ず数ミリから数センチの「ブレ」が生じる。
プロの打者は、その僅かな腕の振りの緩みや、リリースの瞬間の筋肉の微細な変化を無意識に読み取り、球種を判別している。
「ですが、湊くんの投球フォームには、そのノイズが一切存在しない。122キロの直球も、60キロのカーブも、コンマ1ミリの狂いもなく同じ空間座標から射出されている。だから打者は、ボールが手元で急激に変化するか、あるいは空中で停止するまで、自分が何を投げられたのか物理的に認識できないんです」
画面の中で、1本の太い線が、ホームベースの手前5メートルで突然7つの方向へと放射状に分裂する。
直球は重力を無視してホップし、フォークは落下し、ツーシームはスライドする。
打者の脳がその軌道の分裂を認識した時には、すでに筋肉へスイングの指令を出した後だ。
マウンド上の湊が、無音のモーションを始動させた。
意識を丹田に沈める。
大腿四頭筋が収縮し、胸郭が捻転する。
一塁走者がスタートを切った。
だが、湊の動作に一切の焦り(ノイズ)は混じらない。
癒着した前腕の筋繊維が悲鳴を上げ、手首が特定の座標で強制的にロックされる。
スローモーション。
アメリカの泥の中で変形させ、削り落とした人差し指と中指のタコが、ボールの縫い目に触れる。
直球と全く同じリリース。
しかし、指先にかける摩擦係数だけを、内部の力学的な操作で意図的に低下させる。
シュッ。
空気が裂ける音。
放たれたのは、110キロのフォーク。
打席の4番打者は、湊の腕の振りとボールの初速から、それを『122キロのホップする直球』だと脳内コンピューターで断定した。
アッパースイングの軌道で、バットが凄まじい遠心力とともに振り出される。
だが、1本のトンネルから抜け出した白球は、打者の手元で鋭く直角に落下した。
ブンッ!!!
バットが、ボールのあった虚無の空間を薙ぎ払う。
空振りの反動で、打者の強靭な肉体がねじれ、無様に体勢を崩す。
パンッ。
ショートバウンドした球を、キャッチャーがミットで押さえ込む。
一塁走者は二塁ベースを陥れていたが、誰も気にしていない。
三振。
またしても、プロの豪快なスイングが、物理法則のバグの前に完全な空回りを演じさせられた。
ベンチ裏で、ピッチングコーチがタブレット端末を持つ手を震わせていた。
彼の額からは、冷や汗が滲み出ている。
「そんな馬鹿な……。変化球と直球で、手首の角度も力の入れ具合も違うはずだ。すべての球を、完全に同じ位置から、同じ腕の振りで投げるなど……。これはもう、人間じゃない」
コーチの言葉に、陽葵はノートPCの画面から目を離さず、冷たく言い放った。
「ええ。人間ではありません」
彼女は、ずり落ちた眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
液晶の青白い光が、彼女の瞳に無機質なデータとして反射していた。
「極限のウエイトと前腕の癒着によって、自らの肉体を射出機に改造した。完璧に調整された、金型です」
ドーム球場の歓声が遠く聞こえる中。
マウンド上の湊は、三振を奪った打者を見ることもなく、自らの右手の関節をコキリと鳴らした。
「……座標、完全一致」
氷のように冷たい確認の呟き。
ピッチトンネルという名の不可視の監獄が、巨大なプロ野球のシステムを、完全に檻の中に閉じ込めていた。




