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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第102話:脳の強制終了

第102話:脳の強制終了バグ


 絶対的な時間感覚を奪われた時、肉体はどう軋むか。


 静まり返るドーム球場。

 キャッチャーミットに収まった60キロの超スローカーブの残像が、3万人の観客の網膜に奇妙なバグとしてこびりついている。

 バッターボックスの白土の上には、日本一の強打者である轟が、左の脇腹を押さえたまま膝をついていた。

 彼の強靭な大広背筋は、脳から同時に発信された『150キロを弾き返せ』というスイング信号と、『球が来ない、止まれ』という停止信号の正面衝突により、完全にパニックを起こしていた。


「……タイム」


 球審の乾いた声が響き、トレーナーがベンチから駆け出してくる。

 スポーツ紙のフラッシュが、不気味なほどの静寂の中で明滅する。

 マウンド上の湊は、ロージンバッグを拾い上げることもなく、ただ無表情で轟の痙攣する筋肉の収縮をデッサンしていた。


 (……腹斜筋の硬直。遠心力の不自然な相殺による、一時的な神経伝達の断絶)


 同情や敵対心は、微塵もない。

 ただ、自らの『金型』から出力された60キロというノイズが、プロの肉体ハードウェアに対してどれほどの物理的エラーを引き起こしたか。その実験データを、網膜を通して脳内カンバスに記録しているだけだった。


 三塁側ベンチ裏の暗がり。

 結城陽葵が、排熱ファンをジリジリと唸らせるノートPCのキーボードを叩いている。

 画面には、湊の投球フォームの3Dモデルと、轟のスイング軌道が重なり合って表示されていた。


『対象のエラー(処理落ち)を確認。筋繊維への過剰負荷、想定値の140パーセント』


 陽葵は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹な目で液晶を見つめた。

 150キロを待つ脳に60キロを投げ込む。

 それは、単なるタイミング外しではない。時速90キロという『速度差デルタ』の暴力だ。

 極限まで研ぎ澄まされたプロの反射神経だからこそ、その異常な遅延に対して、強大な筋肉が自壊するほどのブレーキを強制的にかけてしまう。

 凡打者なら、ただタイミングが合わずに空振りするだけだ。だが、最高峰のハードウェアを持つ打者ほど、この物理的ハッキングのダメージは深く刻み込まれる。


 数分後。

 トレーナーに背中を叩かれ、轟がゆっくりと立ち上がった。

 その額からは、ドームの空調設定を無視するかのような、脂汗が滝のように流れ落ちていた。

 彼は深く息を吐き出し、バットを強く握り直してバッターボックスへ戻る。

 ザッ、ザッ。

 スパイクで土を均す音が、先ほどよりも明らかに重く、鈍い。


 轟の眼の奥には、猛烈な混乱と、得体の知れない恐怖が渦巻いていた。


 (なんだ、今の球は……。ストレートと同じ腕の振りで、ボールが空中で止まりやがった)


 彼は、自らの脳内コンピューターのキャッシュを強制的にクリアし、反射神経の数値を「遅球」へと再キャリブレーション(調整)しようとする。

 重心を踵からやや前へ。グリップの位置を数ミリ下げる。


 湊の青く澄み切った眼が、その微妙な修正アップデートを完全に捉えた。


 (……スイング始動の遅延設定。120キロへの対応プログラムに切り替えた)


 湊は、セットポジションに入る。

 アメリカの乾燥で削れ、硬く角質化した右手の人差し指と中指のタコを、ボールの縫い目に強く押し当てた。

 ザリッ、という微かな摩擦音。

 先ほどの『脱力』から一転、癒着した前腕の筋肉をミシミシと軋ませ、手首の角度を特定の座標で完全にロックする。


 左足を、静かに上げる。

 ウエイトトレーニングで強靭に鋳造された大腿四頭筋が、白土のマウンドから強烈な運動エネルギーを吸い上げる。

 分厚い胸郭の捻転。

 スローモーション。

 右腕が、力感の一切ない無音の軌道で振り下ろされる。

 先ほどの60キロの超スローカーブと、リリースポイントの座標まで、コンマ1ミリの狂いもない完全なる同期ピッチトンネル


 シュッ。

 空気が鋭く裂ける音。

 だが、今度は変形した指先が、ボールの縫い目を極限の摩擦係数で削り取った。

 放たれたのは、122キロ。2600rpmのバックスピンを宿した『青い炎』。


 60キロの遅球によって、脳内時計の針を強制的に遅らせられていた轟の眼に、その122キロの直球はどのように映るのか。

 速度差デルタの暴力。

 轟の網膜には、物理法則を無視した『体感180キロ』のレーザービームが、重力を拒絶してホップしながら迫ってくるように映った。

 彼の脳が「スイング信号」を筋肉へ送信するより早く。

 白球は、圧倒的な静寂の中、轟の胸元高めのストライクゾーンを突き抜けた。


 パァァァン!!!


 キャッチャーミットが、鼓膜を劈くような爆音を鳴らした。

 轟のバットは、ピクリとも動かなかった。いや、動かすことすら許されなかった。

 ただ呆然と、白球がミットに収まる残像を見つめたまま、完全に硬直している。


「……ストライクツー!」


 球審のコールが響く。

 湊は、ロージンバッグの白い粉が微かに漂うマウンドで、表情一つ変えずに轟の硬直した筋肉を見下ろした。

 相対性理論を利用した、視覚と時間感覚の完全なハッキング。

 プロのシステムが、たった2球の計算式によって、完全に支配された瞬間だった。


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