第101話:巨大な実験場
第101話:巨大な実験場
資本と権威に守られた空間で、物理法則は変質するか。
春。プロ野球開幕戦。東京、巨大なドーム球場。
3万人の観客が発する熱気と、空調で管理された人工的な空間に充満している。
一条湊は、完璧に整備されたマウンドの上に立っていた。
土は、高校時代の甲子園の黒土とも、アメリカのパサパサな赤土とも違う。硬く踏み固められた白土だ。
相手は、昨年の日本一チーム。
ザッ。
レッドスターのスパイクが、白土を静かに削る。
ドームのスピーカーから、実況アナウンサーの声が響き渡った。
『さあ、ドラフト1位ルーキー・一条湊のプロ初登板です! 昨年の日本一チームを相手に、若き才能がどのような挑戦を見せるのか! 緊張を乗り越える強い精神力が試されます!』
若き才能。強い精神力。挑戦。
資本と巨大なシステムに属する者たちが垂れ流す、無機質で陳腐なスポーツロマンの言語。
だが、マウンド上の湊の脳内は、深い氷のような青に沈み込んでいた。
心拍数は一定。緊張も高揚もない。
彼の眼は、ただの冷徹なレンズとして、バッターボックスに立つ男を捉えていた。
打席には、昨年のホームラン王である轟。
身長188センチ、体重105キロ。筋肉の鎧を纏った左の強打者。パワーでボールの下を叩き割る豪快型(黄)。
ザッ、ザッ。
轟が、スパイクの歯をバッターボックスの白土に深く食い込ませる。
その硬質な摩擦音が、湊の耳元で不気味なノイズとなって響く。
湊の青く冷え切った視覚が、轟の骨格と筋肉の収縮を、透明なキャンバスにデッサンしていく。
(……グリップを握る指の関節が白く鬱血している。右肩がわずかに下がり、重心は踵に72パーセント。完全なアッパースイングの構え)
ミリ単位の構えのズレから、打者の脳内にあるスイング軌道を完全に割り出す。
轟の筋肉は、ルーキーの投じる122キロの直球を待っていない。プロとして150キロ以上の剛速球を弾き返す前提の、最速の出力準備を整えている。
ベンチ裏の暗がり。
結城陽葵が、排熱ファンを唸らせるノートPCの液晶画面を見つめている。
『対象の筋力出力、最大値に設定。初球、エラーコードの入力を推奨』
彼女の叩くキーボードの硬質な音が、湊の脳内のグリッド線と完全にリンクする。
湊は、ロージンバッグを無造作に叩いた。
舞い散る白い粉の匂い。
セットポジション。
意識を丹田に沈める。
極限の高重量ウエイトで鋳造された大腿四頭筋から、エネルギーを吸い上げる。
だが、そこに「力感」は一切ない。
癒着した前腕の筋肉を一切緊張させない、完全なる「脱力」。
ここから、わずか1秒足らずの永遠が始まる。
スローモーション。
ティム・リンスカムの跳躍から、右腕がしなるように振り下ろされる。
変形した人差し指と中指のタコが、ボールの縫い目に触れる。
直球と同じ腕の振り、同じロックされた手首の角度。
だが、リリースのコンマ数ミリ手前で、指先の摩擦係数を意図的に「ほぼゼロ」へと変換する。
シュッ。
空気が微かに抜けるような、鈍い音。
湊の指先から放たれたのは、122キロの『青い炎』ではない。
直球の軌道を完璧になぞりながら、一切の推進力を持たない『60キロの超スローカーブ』だった。
60キロの球が、ホームベースに到達するまでの時間は、約1秒強。
150キロの速球なら、コンマ4秒の世界だ。
轟の脳内コンピューターは、湊の鋭い腕の振りから瞬時に「150キロの到達時間」を算出し、強大な筋肉群に『スイング信号』を発信した。
だが、眼球が捉えた白球は、マウンドとホームベースの中間地点で、まるで空中に静止したかのように動かない。
ドーム球場の歓声が、水中に入ったようにくぐもって消える。
絶対的な時間感覚を奪われた空間。
轟の脳が、慌てて『停止信号』を書き出し、筋肉へ送信する。
だが、すでに150キロを叩き割るために稼働し始めた大広背筋と腹斜筋の巨大なエネルギーは、急には止まれない。
相反する二つの信号が、轟の体内で正面衝突を起こす。
グンッ!
物理的なエラーを起こした轟の上半身が、不自然な角度でねじれる。
筋肉の繊維が限界を超えて軋む、生々しい音が打席から漏れた。
バットはピクリとも出ない。出せない。
山なりの軌道を描いた60キロの白球が、ただ重力に従って、キャッチャーのミットに力なく収まる。
パンッ。
気の抜けたような捕球音が、静まり返ったドーム球場に響いた。
ストライク。
轟は、自らの筋肉の痙攣に耐えきれず、脇腹を押さえてバッターボックスの白土の上に崩れ落ちた。
日本屈指の強打者が、初球を投げられただけで無様に膝をつく。
理解不能な光景に、3万人の観客が言葉を失う。
マウンドの中心。
湊は無表情のまま、自らの右腕を見下ろした。
「……バグ(処理落ち)を確認」
氷のように冷たい呟き。
資本と権威に守られたプロ野球という巨大な実験場が、たった一球の遅球によって、足元から崩壊し始めた瞬間だった。




