第100話:荒野のプロローグ
第100話:荒野のプロローグ
頂点を極めた時、本当の戦いはどこから始まるか。
ドラフト会議から数日後。
世間のスポーツメディアは、「どん底から這い上がった独立リーグの星」「苦労人のドラフト1位指名」というスポーツロマンの見出しで、連日一条湊の名前を消費し続けていた。
群馬の地方球場の外には、彼の一挙手一投足を追うカメラマンたちが張り付いている。
だが、湊本人の精神は、その狂騒から完全に隔離された絶対零度の空間にあった。
早朝。カメラマンたちがまだ到着していない無人のグラウンド。
秋の冷たい朝霧が、黒土のマウンドを薄く覆っている。
ザッ。
湊のレッドスターのスパイクが、湿った土を静かに削った。
右手には、日本の公式球。
湊は、アメリカの乾燥した荒野で変形させた人差し指と中指のタコを、ボールの縫い目に強く押し当てていた。
ザリッ、という微かな摩擦音。
ドラフト1位という肩書きや、契約金といった数字は、彼の肉体になんの物理的影響も及ぼさない。
彼にとって重要なのは、この変形した指先とボールの縫い目が噛み合う摩擦係数が、今日もしっかりと重力を拒絶できるかという、ただ一点のみだった。
ベンチの暗がりで、カチャ、と硬質な音が鳴った。
結城陽葵が、パイプ椅子に座ってノートPCを開いた音だ。
冷えた空気の中で、PCの排熱ファンがジリジリと唸り声を上げ始める。
彼女は、液晶画面の青白い光に無表情な横顔を照らされながら、キーボードを叩いた。
「……NPBの1軍選手、主要打者120名分のスイング軌道のトラッキングデータ。ダウンロード完了よ」
陽葵のフラットな声が、朝の静寂に落ちた。
画面には、独立リーグの打者たちとは比較にならないほど最適化された、プロの強打者たちのスイングが3Dモデルで展開されている。
湊は、マウンドから動かずに陽葵の言葉を待った。
「プロのバッターは、ボールの中心より数ミリ下を叩き、強烈なバックスピンをかけてスタンドへ運ぶ『アッパースイング(フライボールレボリューション)』が主流よ」
陽葵が、3Dモデルのアタックアングル(入射角)の数値を拡大する。
「彼らのスイング軌道は、あなたの2600rpmのホップ成分と、最高に相性が悪い。ボールの下を振らせるという点では圧倒的よ。……でも」
陽葵の指が、エンターキーを強く叩く。
画面上に、真っ赤な警告のグラフが表示された。
「もし、彼らがあなたのホップ成分の数値を脳内で完璧に修正し、コンマ数ミリでもアタックアングルを同期させてきた場合。彼らの圧倒的なスイングスピードとあなたのバックスピンが正面衝突して、物理的にとんでもない飛距離を叩き出されるリスクがあるわ」
プロのパワー。
それは、独立リーグで相手にしてきた打者たちとは次元が違う、暴力的なまでの運動エネルギーだ。
湊の122キロの直球が完全に捉えられれば、スタンドの最上段まで軽々と弾き返されるだろう。
だが、湊の顔に恐怖や焦りは一切浮かばなかった。
彼はボールを握り直し、変形した指の関節をコキリと鳴らした。
青く冷え切った眼が、マウンドからホームベースまでの18.44メートルの空間を見透かしている。
「……つまり、同期させなければいい」
湊は、極めて事務的に呟いた。
「打者の脳に『ホップする直球』の残像を完全に焼き付ける。その上で、アメリカで磨きをかけた全ての変化球の変数を混ぜる」
湊の脳内の透明なキャンバスに、これから対峙するであろう怪物たちの姿がデッサンされていく。
かつてのライバルであり、今やプロで157キロを投げる神崎。
NPBの頂点に君臨するパワーヒッターたち。
さらにその先、海の向こうで160キロの速球を軽々と粉砕するメジャーリーガーたちの分厚い骨格と、巨大な筋肉の収縮。
彼らがどれほどの力を持っていようと、バットが空を切れば物理的な出力はゼロになる。
「打者の脳を、物理的にバグらせる」
湊の言葉に、陽葵が口角を微かに上げた。
PCの液晶画面に、新たな計算式が凄まじい速度で羅列されていく。
「そうね。あなたの金型から出力される軌道が、彼らの脳内コンピューターの処理速度を超えれば、どんなパワーもただの空回りのエネルギーに変換されるわ」
天才の身体感覚と、秀才の絶対的理論。
二人の共犯関係が、独立リーグという実験場を抜け出し、次なる巨大なシステムへのハッキングに向けて完全にリンクした。
湊は、ロージンバッグを手に取った。
プツン、と舞い散る白い粉の匂い。
朝霧が晴れ始めたマウンドで、彼はキャッチャーのいないホームベースに向かってセットポジションに入った。
意識を丹田へと沈める。
心拍数が極限まで低下し、脳内の感情がすべて排除される。
左足を上げる。
極限の高重量ウエイトトレーニングで鋳造された大腿四頭筋が、地面から強烈なエネルギーを吸い上げる。
分厚い胸郭が捻転し、その出力をロスなく癒着した前腕へと流し込む。
ミシミシと、筋繊維が本来なら耐えられない負荷に軋む。
スローモーション。
右腕が、力感の一切ない無音の軌道で振り下ろされる。
変形し、硬く角質化した人差し指と中指のタコが、日本の公式球の縫い目を極限の摩擦係数で削り取った。
皮膚が引き攣れる激痛。
シュッ!
空気が鋭く裂ける音。
無音のリリースから放たれた白球は、重力を完全に拒絶し、誰もいないホームベースの空間を、恐るべきホップ成分を伴って突き抜けた。
パァァァン!!!
仮想のミットを貫く、鼓膜を劈くような爆音。
陽葵のPCに接続されたトラッカーが、『122km/h 2620rpm』という、限界をさらに更新する無機質な数値を弾き出した。
湊は、右腕をゆっくりと下ろし、冷徹な青い眼でホームベースの空間を見据えた。
「……ズレは、ありません」
氷のように冷たい呟きが、朝のグラウンドに落ちた。
異国の泥の中で肉体を鋳造し直した異端のプログラムは、ついに完成した。
122キロの『青い炎』が、プロ野球という巨大な常識を底辺から蹂躙するための、果てしない戦いの扉が、今、無音で開かれた。




