↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リミッター・ハイ  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
102/111

第100話:荒野のプロローグ

第100話:荒野のプロローグ


 頂点を極めた時、本当の戦いはどこから始まるか。


 ドラフト会議から数日後。

 世間のスポーツメディアは、「どん底から這い上がった独立リーグの星」「苦労人のドラフト1位指名」というスポーツロマンの見出しで、連日一条湊の名前を消費し続けていた。

 群馬の地方球場の外には、彼の一挙手一投足を追うカメラマンたちが張り付いている。

 だが、湊本人の精神は、その狂騒から完全に隔離された絶対零度の空間にあった。


 早朝。カメラマンたちがまだ到着していない無人のグラウンド。

 秋の冷たい朝霧が、黒土のマウンドを薄く覆っている。

 ザッ。

 湊のレッドスターのスパイクが、湿った土を静かに削った。

 右手には、日本の公式球。

 湊は、アメリカの乾燥した荒野で変形させた人差し指と中指のタコを、ボールの縫い目に強く押し当てていた。

 ザリッ、という微かな摩擦音。

 ドラフト1位という肩書きや、契約金といった数字は、彼の肉体になんの物理的影響も及ぼさない。

 彼にとって重要なのは、この変形した指先とボールの縫い目が噛み合う摩擦係数が、今日もしっかりと重力を拒絶できるかという、ただ一点のみだった。


 ベンチの暗がりで、カチャ、と硬質な音が鳴った。

 結城陽葵が、パイプ椅子に座ってノートPCを開いた音だ。

 冷えた空気の中で、PCの排熱ファンがジリジリと唸り声を上げ始める。

 彼女は、液晶画面の青白い光に無表情な横顔を照らされながら、キーボードを叩いた。


「……NPBの1軍選手、主要打者120名分のスイング軌道のトラッキングデータ。ダウンロード完了よ」


 陽葵のフラットな声が、朝の静寂に落ちた。

 画面には、独立リーグの打者たちとは比較にならないほど最適化された、プロの強打者たちのスイングが3Dモデルで展開されている。

 湊は、マウンドから動かずに陽葵の言葉を待った。


「プロのバッターは、ボールの中心より数ミリ下を叩き、強烈なバックスピンをかけてスタンドへ運ぶ『アッパースイング(フライボールレボリューション)』が主流よ」


 陽葵が、3Dモデルのアタックアングル(入射角)の数値を拡大する。


「彼らのスイング軌道は、あなたの2600rpmのホップ成分と、最高に相性が悪い。ボールの下を振らせるという点では圧倒的よ。……でも」


 陽葵の指が、エンターキーを強く叩く。

 画面上に、真っ赤な警告のグラフが表示された。


「もし、彼らがあなたのホップ成分の数値を脳内で完璧に修正し、コンマ数ミリでもアタックアングルを同期させてきた場合。彼らの圧倒的なスイングスピードとあなたのバックスピンが正面衝突して、物理的にとんでもない飛距離を叩き出されるリスクがあるわ」


 プロのパワー。

 それは、独立リーグで相手にしてきた打者たちとは次元が違う、暴力的なまでの運動エネルギーだ。

 湊の122キロの直球が完全に捉えられれば、スタンドの最上段まで軽々と弾き返されるだろう。


 だが、湊の顔に恐怖や焦りは一切浮かばなかった。

 彼はボールを握り直し、変形した指の関節をコキリと鳴らした。

 青く冷え切った眼が、マウンドからホームベースまでの18.44メートルの空間を見透かしている。


「……つまり、同期させなければいい」


 湊は、極めて事務的に呟いた。


「打者の脳に『ホップする直球』の残像を完全に焼き付ける。その上で、アメリカで磨きをかけた全ての変化球の変数を混ぜる」


 湊の脳内の透明なキャンバスに、これから対峙するであろう怪物たちの姿がデッサンされていく。

 かつてのライバルであり、今やプロで157キロを投げる神崎。

 NPBの頂点に君臨するパワーヒッターたち。

 さらにその先、海の向こうで160キロの速球を軽々と粉砕するメジャーリーガーたちの分厚い骨格と、巨大な筋肉の収縮。

 彼らがどれほどの力を持っていようと、バットが空を切れば物理的な出力はゼロになる。


「打者の脳を、物理的にバグらせる」


 湊の言葉に、陽葵が口角を微かに上げた。

 PCの液晶画面に、新たな計算式が凄まじい速度で羅列されていく。


「そうね。あなたの金型から出力される軌道が、彼らの脳内コンピューターの処理速度を超えれば、どんなパワーもただの空回りのエネルギーに変換されるわ」


 天才の身体感覚と、秀才の絶対的理論。

 二人の共犯関係が、独立リーグという実験場サンドボックスを抜け出し、次なる巨大なシステムへのハッキングに向けて完全にリンクした。

 湊は、ロージンバッグを手に取った。

 プツン、と舞い散る白い粉の匂い。

 朝霧が晴れ始めたマウンドで、彼はキャッチャーのいないホームベースに向かってセットポジションに入った。


 意識を丹田へと沈める。

 心拍数が極限まで低下し、脳内の感情ノイズがすべて排除される。

 左足を上げる。

 極限の高重量ウエイトトレーニングで鋳造された大腿四頭筋が、地面から強烈なエネルギーを吸い上げる。

 分厚い胸郭が捻転し、その出力をロスなく癒着した前腕へと流し込む。

 ミシミシと、筋繊維が本来なら耐えられない負荷に軋む。


 スローモーション。

 右腕が、力感の一切ない無音の軌道で振り下ろされる。

 変形し、硬く角質化した人差し指と中指のタコが、日本の公式球の縫い目を極限の摩擦係数で削り取った。

 皮膚が引き攣れる激痛。


 シュッ!


 空気が鋭く裂ける音。

 無音のリリースから放たれた白球は、重力を完全に拒絶し、誰もいないホームベースの空間を、恐るべきホップ成分を伴って突き抜けた。


 パァァァン!!!


 仮想のミットを貫く、鼓膜を劈くような爆音。

 陽葵のPCに接続されたトラッカーが、『122km/h 2620rpm』という、限界をさらに更新する無機質な数値を弾き出した。

 湊は、右腕をゆっくりと下ろし、冷徹な青い眼でホームベースの空間を見据えた。


「……ズレは、ありません」


 氷のように冷たい呟きが、朝のグラウンドに落ちた。

 異国の泥の中で肉体を鋳造し直した異端のプログラムは、ついに完成した。

 122キロの『青い炎』が、プロ野球という巨大な常識を底辺から蹂躙するための、果てしない戦いの扉が、今、無音で開かれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。