第99話:扉の先へ
第99話:扉の先へ
新しい扉を開く鍵は、誰が持っているのか。
秋の冷たい風が、プレハブ小屋のトタン屋根をガタガタと鳴らしていた。
独立リーグ、群馬の球団事務所。
パイプ椅子とスチールデスクだけが並ぶ殺風景な室内に、古い液晶テレビが青白い光を放っている。
20歳。
あの日、アメリカのシステムから弾き出され、日本の常識からも黙殺された孤独な夜から2年。
一条湊は、パイプ椅子に深く腰掛け、無表情のまま画面の点滅を見つめていた。
隣の長机では、結城陽葵がノートパソコンを開いている。
排熱ファンがジリジリと唸る音。
壁際では、織部翠が硬いボールの縫い目を指先でなぞりながら、テレビへと視線を向けていた。
画面の中では、プロ野球のOBを名乗る解説者が、もっともらしい顔で語っている。
『一条くんの122キロが打たれない理由は、気持ちの強さですね。絶対に打たせないという闘志が、ボールに乗り移っている。それに加え、腕の振りが速いから打者が錯覚を起こすんです。努力の結晶が生んだ、魔法のストレートですよ』
闘志。魔法。努力の結晶。
システムに組み込まれた者たちが、自分たちの計算式で処理できない異端をパッケージングするために用意した、ひどく陳腐なノイズ。
陽葵はキーボードを叩く手を止めず、氷のような声で吐き捨てた。
「……解説者たちは、何も分かっていないわね。あれは精神論なんかじゃない。変形した指先と癒着した前腕の筋肉が生み出す、純粋な摩擦係数と回転軸の物理バグよ」
「彼らにとって、理解できない現象はすべて『魔法』なのよ」
翠が、ストップウォッチのボタンをカチカチと押しならしながらフラットな声で応じる。
湊は、二人の会話にも、テレビの熱狂にも一切の関心を示さなかった。
ただ、自らの異常に発達した前腕をゆっくりとさする。
独立リーグの過酷なシーズンを投げ抜いた筋繊維は、限界まで酷縮し、ミシミシと微かな軋みを上げている。
だが、その疲労度すらも、彼と陽葵が算出したデータ上の「許容範囲内」に完全に収まっていた。
肉体は壊れていない。
極限のウエイトトレーニングで鋳造し直した精密な金型としての強度は、見事に実証された。
『第1巡選択希望選手』
テレビから、無機質なアナウンスが流れた。
静寂。
パイプ椅子の軋む音が、やけに大きく響く。
『東京——一条湊。投手。群馬』
『横浜——一条湊。投手。群馬』
『福岡——一条湊。投手。群馬』
『大阪——一条湊。投手。群馬』
次々と、複数の球団が同じ名前を読み上げていく。
アナウンサーの絶叫が、スピーカーの限界を超えて割れた。
事務所の外で待機していた独立リーグのチームメイトたちが、窓ガラスをバンバンと乱暴に叩き、奇声を上げている。
かつて、「90マイル(約145キロ)を超えない投手は通用しない」という絶対的な評価基準から「エラー」として弾き出された男。
その122キロの遅球が、日本の最高峰のシステムの中枢に、完全にハッキングを成功させた瞬間だった。
4球団の競合。
各球団の編成トップたちが、かつて見捨てた物理法則のバグを自らのシステムに組み込もうと、血眼になって手を挙げている。
窓ガラスの向こうの狂騒とは裏腹に、室内の空気は氷のように冷え切っていた。
湊は、テレビ画面に映る各球団のエンブレムを見つめていた。
歓喜はない。
安堵もない。
彼の底知れない青い眼の奥にあるのは、次の実験段階へと移行するための、極めて事務的な確認作業だけだった。
「……心拍数、54。平常時と変わらないわね」
スマートウォッチのデータを受信した陽葵が、画面の隅の数値を確認して言った。
ドラフト1位指名の競合という極限の状況下でも、湊の筋肉は一切の感情を発していなかった。
陽葵は、エンターキーをターン、と強く叩く。
PCの画面に展開されていた独立リーグのデータが閉じられ、代わりにNPBのトップ選手たちのスイング軌道の3Dモデルが展開される。
「これで、入場パスは手に入れた。ここからは、プロのアッパースイングの極致と、あなたのホップ成分の物理的な衝突実験になるわ」
湊は、ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった。
窓ガラスを叩くチームメイトたちを無視し、錆びたアルミサッシの窓を少しだけ開ける。
冷たい秋風が、室内に流れ込んだ。
見上げる空は、吸い込まれるような深い青色。
湊は、硬く角質化し、異びつに変形した右手の人差し指と中指のタコを、親指で静かに擦り合わせた。
ザリッ。
皮膚の擦れる乾いた音が、微かな痛覚を脳に伝達する。
プロのバッターは、ボールの下を叩く。
そのアタックアングル(入射角)を、コンマ数ミリの摩擦係数でどのように破壊するか。
「……陽葵」
湊は、秋空の青を見つめたまま、氷のように冷たく、平坦な声で呟いた。
「次のレイヤーの、金型の準備を」
122キロの青い炎は、独立リーグという砂箱での実証を終えた。
次なる標的は、巨大な資本とパワーで構築された、プロ野球という究極のシステム。
異端のプログラムは、さらなる絶望を撒き散らすため、新たな戦場への重い扉を無音で押し開けた。




