第98話:最後の証明
第98話:最後の証明
過去の否定は、未来への肯定となるか。
秋風が吹き抜ける、独立リーグのレギュラーシーズン最終戦。
地方球場のスタンドは、入りきらないほどの観客で膨れ上がっていた。
バックネット裏には、先日を遥かに凌ぐ数のNPB全12球団の編成トップやスカウトたちが、重武装のカメラやトラッキングデバイスを構えて陣取っている。
「挫折からの奇跡の復活劇だ。今日のマウンドは、彼にとって集大成の舞台になる」
「不屈の精神だよ。プロのスカウト全員に、己の才能を証明する日だ」
奇跡。不屈の精神。才能。
観客やメディア、そしてシステムに属する者たちが無責任に消費する、スポーツロマンという名の陳腐な言語。
だが、マウンドに立つ一条湊の顔に、集大成の高揚感や、自らを証明しようとする欲求は一切存在しなかった。
彼の脳内にあるのは、この黒土のマウンドにおける摩擦係数と、自らの肉体の疲労度から算出される「アタックアングル(入射角)」の微調整だけだった。
打席には、元NPBの中軸を担っていたベテランの強打者。
相手チームは、元プロ選手を多く擁する独立リーグ屈指の強豪だった。
彼らの眼には、「122キロの遅球など、独立レベルの錯覚に過ぎない。プロのパワーで粉砕してやる」という明確な力みが浮かんでいる。
ザッ、ザッ。
打者がバッターボックスでスパイクの歯を深く土に噛ませる。
その硬質な摩擦音が、湊の耳元で自らの規則的な心拍と完全に同期し、空間の座標を確定させる不気味なノイズとして響き渡った。
湊の青く冷え切った眼が、打者の構えを透明なキャンバスにデッサンしていく。
(……グリップの位置が高い。重心は踵に70パーセント。大胸筋の収縮具合から見て、完全なアッパースイングの軌道)
力でねじ伏せようとする豪快型(黄)の物理的特徴。
湊は、ロージンバッグを無造作に叩いた。
舞い散る白い粉の中で、セットポジションに入る。
意識を丹田へと沈め、感情という不純物を絶対零度にまで冷却する。
左足を高く上げる。
極限の高重量ウエイトトレーニングによって鋳造された大腿四頭筋が、地面から爆発的なエネルギーを吸い上げた。
分厚い胸郭が捻転し、その出力をロスなく右腕へと伝達する。
スローモーション。
右腕が、力感の一切ない無音の軌道で振り下ろされる。
アメリカの乾燥した荒野で、滑るボールに適応するために自ら削り落とし、異常に角質化した人差し指と中指のタコ。
18歳の秋、システムから弾き出された夜に、コンクリート壁にボールを叩きつけ続けたことで形成された手首の角度。
そして、サプリメントと狂気的な負荷によってミシミシと癒着した前腕の筋繊維。
過去の絶望や孤独は、物語ではない。
それらはすべて、湊の右腕を特定の座標で強制的にロックし、物理法則をハッキングするための「機能(仕様)」として、このマウンド上で稼働していた。
シュッ!
空気が鋭く裂ける音。
変形した指先が、日本の公式球の縫い目を極限の摩擦で削り取る。皮膚が引き攣れる激痛。
放たれた122キロの白球。
打者は、全身のパワーを込めて金属バットを振り上げた。
空気を叩き割る凄まじいスイングスピード。
だが、湊の指先が生み出した2600rpmの『青い炎』は、打者の脳内コンピューターが弾き出した「重力による落下」の予測値を完全に裏切り、手元で不気味にホップした。
スカッ。
パァァァン!!!
バットの遥か上を通過した白球が、キャッチャーミットに突き刺さり、鼓膜を劈くような爆音を鳴らした。
強烈な遠心力で、元プロの強打者が無様に膝をつく。
ベンチの奥で、結城陽葵のノートPCの排熱ファンがジリジリと唸り声を上げていた。
『122km/h 2610rpm ジャイロ成分 0.0%』
無機質な青白い液晶の光が、完璧に同期した計算結果を弾き出す。
イニングが進むにつれ、相手打線は完全に沈黙していった。
プロのパワーを持っていようが、アッパースイングの軌道である限り、ホップする直球の入射角とは物理的に交わらない。
そして湊が直球と同じ腕の振り、同じロックされた手首の角度から70キロの『パラシュートチェンジ』を投じると、打者の神経回路は完全にショートした。
速球の残像と、重力のみに従って急激に落下する軌道。
相反する二つの物理法則を同時に突きつけられた打者たちは、バットを振ることすらできず、次々と見逃し三振に倒れていった。
9回裏。ツーアウト。
スコアボードには、無機質な「0」が一直線に並んでいる。
最後の打者を前にしても、湊の心拍数は一定のままだった。
筋肉は悲鳴を上げ、癒着した前腕は限界に近い熱を持っている。
だが、脳内は深い氷のような静寂に包まれていた。
(……重心は前。スイングの始動が早い)
最後のデッサン。
湊は、無音のモーションから右腕を振り下ろした。
放たれたのは、70キロのパラシュートチェンジ。
打者は、ホップする直球の残像に完全に脳を支配され、極端なアッパースイングでバットを振り出した。
だが、ボールは打者の手元で、空気の層が抜けたように垂直に落下する。
ブンッ。
バットが虚しく空を斬る音。
パァン。
ワンバウンドすれすれで、キャッチャーミットが白球を飲み込んだ。
試合終了。完全試合達成。
スタジアムが、地鳴りのような歓声と熱狂に包み込まれる。
バックネット裏のNPBの編成トップたちが、信じられないものを見たというように立ち上がり、スピードガンを見つめて呆然としていた。
だが。
マウンドの中心。
歓喜の渦のど真ん中で、一条湊は表情一つ変えなかった。
彼はロージンバッグの白い粉が舞う中、熱を持った自らの右手を見下ろし、氷のように冷たい声で呟いた。
「……ズレは、ありません」
それは、自らが作り上げた金型が、プロのデータに対しても完璧に機能したことの確認作業に過ぎなかった。
独立リーグという実験場でのデータ収集は、今、完全に終了した。
122キロの異端のプログラムは、プロ野球という巨大なシステムそのものに致命的なハッキングを仕掛けるため、次なる舞台へと静かに移行しようとしていた。




