第37話:芽を摘む者
禍々しい氣の奔流が渦巻く空間。
九本の尾がゆるやかに揺れ、玉座のように組まれた岩座に九尾が腰を下ろしていた。
その眼差しは、世界そのものを弄ぶように妖しく光っている。
その前に、水の使徒リュミエールが跪いた。
水面を思わせる冷ややかな声が静かに響く。
「……報告します。炎の使徒を討った者、名を静馬と呼ぶ男。
彼は契約者として、まだ成長の途上にあります。ですが――必ず強くなる」
九尾は口角を吊り上げ、面白げに尾を揺らした。
「ほう……芽吹き始めた力が、どれほどの花を咲かせるか。見ものではないか」
その横で、闇をまとった影が一歩踏み出す。
セト――虚ろな眼の奥に燃えるのは冷徹な殺意。
「遊び心は不要だ。芽のうちに摘み取るべきだ。
放置すれば必ず脅威となる」
その言葉に、リュミエールの瞳がわずかに揺れる。
彼女もまた冷徹な観察者だが、静馬の成長を見たいという思惑を隠さなかった。
九尾は唇を舐め、愉悦を滲ませて笑う。
「……否。生かす。
力を求め、もがく様を眺めるのは退屈しのぎにちょうど良い。
その果てに奴が我ら届くなら、それはこの九尾の望みをも満たすかもしれぬ」
セトは不服そうに黙り込むが、その瞳には殺意が消えない。
一方でリュミエールは静かに瞼を伏せ、言葉を重ねた。
「……承知しました。ならば私は観察を続けましょう。
彼が本物となるか、虚構で終わるか――すべて水面に映して、ご覧に入れます」
九尾の笑い声が空間を満たす。
尾の一本が揺らぎ、世界に黒き波紋を走らせた。
「面白くなってきたな……さぁ、盤上をさらにかき乱そう」
その言葉が空気に溶けていくのを背に、セトは九尾の間を後にした。
長い回廊に瘴気が漂い、静寂を裂くように声が響く。
「……やはり契約者は危険だ。今のうちに潰す」
空気がざわめき、影の中からひとりの男が現れる。
黒衣をまとい、風に溶けるように姿を隠す寡黙な存在――ゼフィール。
その瞳には、長年の狩人だけが持つ執念が宿っていた。
「……荒事は俺に向いている。呼んだな、セト」
セトは口元に薄笑を浮かべる。
「そうだ。お前に任せる。静馬――炎を討った契約者を消せ」
ゼフィールは僅かに頷き、乾いた声を洩らす。
「承知した。一度狙った獲物は必ず仕留める……」
「ふん……それでいい。リュミエールは観察を楽しむ気のようだが、俺は戯れに付き合うつもりはない。主には不義理だが、芽は早めに摘ませてもらう。二度と封印など、ごめんだからな」
ゼフィールは言葉少なに一礼すると、すぐさま風の気配に溶けて消えた。
その場に残ったのは、ひんやりとした残響と、確実な死を予感させる沈黙だけ。
セトは闇を見上げ、小さく呟く。
「……終わりだ静馬とやら。お前が強くなる未来など、俺が許さぬ」
場面は静馬へと戻る。
ラウラは唇を噛みしめるように言った。
「水の使徒に遅れをとったのは……疲れもあったけど、それだけじゃない。やっぱり戦い慣れていないのが大きかったわ。あの速さに、どうしても対応できなかった」
静馬は黙って頷いた。
あの時の無力感は、まだ胸に残っている。
ラウラの力を借りてヴァルスを倒せたことで、自分が戦えると錯覚していた。
だが、リュミエールとの戦いは違った。
彼女は静馬を圧倒し、そしてあえて見逃した。
「……俺が、弱いからだ」
静馬は拳を握りしめる。
ラウラは静馬の横顔を見つめ、少し困ったように眉を下げた。
「静馬……自分を責めても仕方ないわよ。戦いなんて、経験がものを言うんだから」
「わかってる。でも……このままじゃダメだ」
ラウラは静馬の表情を読み取ると、ふっと肩を竦めた。
「……ま、落ち込んでばかりじゃ始まらないわね。じゃあ、どうする? 修行でもする?」
「ああ。封霊機構に頼るのは……難しい。俺は部外者だし、美琴にも会いづらい」
静馬の声には、僅かな痛みが滲んでいた。
ラウラはそれを察したのか、わざと軽い口調で言う。
「なら、また私が鍛えてあげるわよ。記憶はないけど、戦い方の感覚は体が覚えてる。それに――」
ラウラは静馬の目をまっすぐ見つめた。
「私も、あんたに死なれたら困るもの。契約者が消えたら、私も消えるんだから」
その言葉は軽いようで、どこか真剣だった。
静馬は少しだけ表情を緩め、小さく笑った。
「……ありがとう、ラウラ」
「礼なんていいわよ。ほら、早速始めるわよ。まずは基礎体力から――」
その時だった。
風が、不自然に止まった。
静馬の背筋に冷たいものが走る。
ラウラも即座に表情を変え、周囲を警戒した。
「……来たわ」
「敵か!?」
「ええ。それも、かなり厄介な気配よ」
静寂を裂いて、風が唸りを上げた。
それは台風のような荒々しさではなく、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを持っていた。空間が歪み、そこに一人の男が姿を現す。
黒衣に身を包み、感情の読めない瞳で静馬を見据える男――ゼフィール。
「……標的、確認。三神静馬――お前を殺す」




