第32話:家に縛られて(篠原美琴サイド)
仮面の男が去った後も、彼女の胸には、消えぬ熱が残っていた。
それは勝利の興奮でも、安堵でもない。
――あの声。
名乗らなくても、耳が、心が覚えている。
(……静馬、なの?)
篠原美琴は瓦礫の向こうを見つめたまま、震える指先をそっと胸に添えた。
あり得ない。そう否定したかった。けれど、その声には確かに聞き覚えがあった。
長く共に過ごし、何度も背中を預け合い、言い争い、そして――別れた、あの人の声。
「……でも、まさか……」
眉を寄せながら、美琴は記憶の中の静馬を思い出す。
不器用で、それでも誰よりも真っ直ぐで、誰かのために己を削ることを恐れない男。その彼が、今――
(どうして、仮面なんかをして私たちのために戦ったの?)
姿も名も偽って、それでも私たちを守るように戦った。
あの身のこなし、氣の扱い、そして最後に交わした視線。
(……あれは、紛れもなく、静馬の瞳だった)
確信にも似た直感が、美琴の胸を締めつける。
思わず口から漏れた。
「静馬……本当に、あなただったの?」
だが、答える者はいない。
焦げた空気の残り香だけが、美琴の周囲を漂っていた。
背後から仲間の足音が聞こえる。
美琴は一度だけ目を閉じ、深く息を吸うと、小さく呟いた。
「……いいえ、今は、まだ」
その名を呼ぶには、時が止まりすぎていた。
けれど、心のどこかで信じていた。
(また、会える。必ず)
そのときこそ、すべてを問いただす。
あの背中に、もう一度、まっすぐ向き合うために――
その決意を胸に、篠原美琴は静かに踵を返し、歩き出す。
風が、そっと彼女の髪をなびかせた。
***
そして彼女は、そのまま久々に実家――篠原家へと足を運んでいた。
静馬に会うため、自分の意思で動く初めての一歩だった。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
かつて懐かしさを覚えた庭石も、今では冷たく、よそよそしく感じる。
数歩進んだところで、待ち構えていたかのように声が飛んできた。
「……何をしに戻ったの?」
母の厳しい声が空気を裂く。
その隣には、黙して立つ父の姿。
冷ややかな眼差しが、美琴の全身を突き刺す。
「……少しだけ時間をください」
美琴は一礼し、頭を下げる。
だが、父は顔を背け、母は感情を抑えたまま静かに告げる。
「当主候補のあなたが、私情で動くなど、許されるはずがない」
「私情じゃありません。私は――」
「名も名乗らぬ謎の男を追って家を空けるとでも言うつもり?」
喉に言葉が詰まる。まさにその通りで、美琴はただ唇を噛むしかなかった。
「あなたには役目があるのよ。先代から続く封霊機構の一族として、当主となる者の覚悟を」
語気を強める母に続いて、父が一歩前に出る。
「感情で動く者は組織を壊す。これは篠原家の家訓だ。
お前の今の行動は、当主にふさわしくない。甘えも、迷いも、すべて捨てろ」
それは、あの日――静馬との別れを選ばされた言葉と同じだった。
正しいはずの言葉が、なぜこんなにも胸を痛めるのか。
「……わかっています」
美琴は、静かに答える。
「でも、それでも……私は、自分の目で確かめたいんです。
あの男が誰なのか。そして……自分が何を選ぶべきかを」
一瞬だけ、父母の目が揺れた。だが、すぐにそろって背を向ける。
「もう一度だけ言うわ、美琴。今は当主になることだけに集中しなさい。今は学園に行くことも許しません」
「……はい」
頭を下げる彼女の目に、もはや迷いはなかった。
――そう、自分では思い込んでいた。
だが。
篠原家の門を出た後も、美琴の足は動かなかった。
朝の陽光はすっかり街を照らし、鳥のさえずりが遠く響いている。
けれど、美琴の胸には、冷たい重みだけが残っていた。
(だめ……動けない)
今すぐにでも静馬を探しに行きたかった。会って、話したかった。
でも、父の言葉が、母の声が、何度も心を引き戻す。
『すべてを捨てろ』『役目を忘れるな』――その重圧が、美琴の足を縛る。
(私は、篠原家の人間……)
それは誇りでもあり、呪縛でもあった。
――そして、その枷は、今もなお外せなかった。
「……私は、逃げた」
小さく呟いたその言葉に、胸が締め付けられる。
握りしめた拳が震えていた。
風が吹く。
あの夜、静馬が去っていった風と、よく似ていた。
「ごめん……静馬」
その声は、誰にも届かない。
ただ、朝の光の中へ溶けていく。
彼女の背中には、家と名の重圧が、今も重くのしかかっていた。
その重さを背負う限り――たぶん、あの背中を追うことはできない。
それでも、心の奥に焼きついたあの視線だけは、決して消えなかった。
いつか、自分の意思で歩ける日が来たなら。
そのときこそ、仮面を外したあの人に、真っ直ぐ向き合いたい。
美琴はそっと目を閉じ、一粒だけ涙をこぼした。




