85 ダイレクトアタック
開かない扉は諦めて、回り道しようと1階のエントランスにある扉の前で溜息を吐いていると、後ろから私を呼ぶ魔王様の声が聞こえた。
「ユリエ!」
振り向くと魔王様が立っている。
10メートル先に。
「……また初期位置かぁ………」
思わず小さく声に出たが、きっと遠すぎて魔王様には聞こえてないだろう。
そんな遠くに居る魔王様は私を見ているけれど、既に恥ずかしさに真っ赤な顔を逸らしているので目は合わない。
そんな顔も久々に見た気がする。
会えたのは嬉しいけれど、今はもう遠いのが寂しい。
「魔王様!ちょっと遠すぎないですか?!」
遠さを埋めるように声を張ってそう問うと、魔王様は拳を握って私を見たけれど、視線を泳がせ、しばらくすると髪をフワフワさせて俯いてしまう。
既に魔力が出てる…。かなり恥ずかしいんだな……。
ロイ君に色々聞いちゃったみたいだし、恥ずかしくなるのは分かるけど、ずっとこの距離は流石に嫌だ。
そう隠すように吐いた溜息で、どう声を掛けようかと悩んでいると、魔王様の裏返るような声が聞こえて来た。
「にっ…肉ッ…ゆ、ユリエはっ何の、魔物の肉が、好きだろうか!!」
ん? 肉? 何故今肉?
何で今肉の話が出るのか全然分からないけれど、それが魔王様が恥ずかしさを乗り越える為に必要な事なら、とりあえず答えなければならないだろう。
とは思うけれど、困った事に、魔物の種類がわ分からない……。
お肉の種類はヨウグさんと料理する時に見ているから知ってはいるけれど、赤身とか豚肉っぽいとか、そんな見方しかしていないので、魔物の種類までは学んでない…。
「ええっと…すいません…魔物の種類が、分かりません……」
「え、あ……そ、そうか……」
その一往復で話題は終わってしまい、エントランスには静寂が戻る。
再び俯いてしまった魔王様はしょんぼりしてるのが良く分かる肩の落ち具合。答えられなくて申し訳ないけれど、魔物はまだ見た事もないから分からない…。
そして肉については一体なんだったのか…。
魔王様は手詰まりみたいだけれど、これで話を終わらせる訳にはいかない。
この距離を何とかしなければ、ずっとこんな距離は嫌だ。
「……魔王様。久々に特訓しましょう」
「と…特訓?」
「近付く特訓。以前廃止になったやつ、復活させましょう」
そう提案すると、魔王様は少し緊張したけれど、小さく「分かった」と頷いて赤い顔を上げた。
今の距離は初期位置10メートル。
そんな10メートルを埋める為に、一歩を踏み出すと何故か泣きそうになった。
あれ、これ私、今回の事それなりに堪えてたのかも知れない……。
忙しくて会えないならまだ耐えられただろうけど、恥ずかしくて会えないって聞いた時、しょうがないって思ったのに、そのちょっとの事でこうも会えなくなるのかと思うと、妙な不安が寂しさを倍増させてしまっている……。
そして目の前にすると側に居たくなるのに近付けないし、触れたいのに触れられないし、色々考えてたら何だか泣きそうになってしまう。
無理だと分かってても甘えが出て来る……。
駄目だなぁ……我慢が足りない。そして涙腺も我慢して欲しい…。そう頭の中で涙腺に文句を連ねているけれど、思考の9割は触れたいと思う気持ちから離れられない。
近付けるのに、触れてはいけない。
それを我慢するのって、こんなに苦しいんだな……。
魔王様が引き籠った気持ちが少しだけ分かった気がする…これは、ずっと永遠に耐えるのはとても苦しい…。
そんな事を考えながら進める足。きっと今6メートルは切っただろうか。
でも魔王様を見られない。見たら泣きそうなのがバレてしまいそうで、私はずっと俯いたままだ。
どうにかこの泣きそうな気持ちだけは止まって欲しいのに、全く言う事を聞いてくれない。
恋心の舵って壊れてるんじゃなかろうか。
魔王様に近付いているのだと分かると、更に目の奥は締まるように熱くなる。泣きたい訳じゃない。きっと困らせてしまう。今私が触れたいと言っても、困らせてしまうだけなのに。でも触れたい。
そう思う気持ちと、会えないのを我慢してたのが悪かったのかも知れない。
近いのに、恋しい。
そう思った瞬間、足が止まってしまった。
これ以上近付いたら泣いてしまう。
俯いたまま、泣いてしまいそうなそれを必死に耐えていると、床を見ていた視界の中に、魔王様の足が現れた。
まだ距離はあったと思う。そんな距離を魔王様が埋めてくれた事はとても嬉しい。
でも泣きそうなのはバレるかも知れない。
自分の気持ちすら上手く扱えない。恋心って大変。大変過ぎて涙腺がやばい。
頑張って、困らせるから、泣いてはいけない。
「ユリエ、すまなかった……」
なのに、そのとても近い距離から聞こえた魔王様の優しい声で、耐えていた涙が耐えられなくなってしまった。
今更だろうけど、泣いてるのを見られたくなくて両手で顔を隠していると、魔王様が広げたマントが私を覆う。
そんなマントの向こう側、ゆっくり背中に回った魔王様の腕が進む度に距離をなくし、そんな腕は少し躊躇いがちに私をしっかりと抱きしめた。
マントは薄い、とても薄い。魔王様の体温が分かってゆっくりだけど涙が引くのが分かる。
やっぱり魔王様は安心する。
その胸に頭を預けると、背中に回る腕が少しだけ強くなる。
お布団もいいけど、マントも悪くない。
でも少し暑い。魔王様が照れてるからか、私が泣いてしまったからか、まぁ何でもいいや、と考えるのを放棄して、魔王様のしっかりとした腕の中に体を預けていると、私の頬に擦り寄るように動いた魔王様の形が、薄いマントの向こうから、その輪郭を明確に伝えて来る。
近い…。
「ユリエ、すまない。寂しい思いをさせてしまった…」
そう呟いた魔王様の声は近過ぎた。
そして息を含んだ落ち着いた声は耳にダイレクトアタックで、思わず体が固くなる。
これは、いけない。
やばい。物凄いドキドキするし何か痺れる感じもするんだが…。
今現在、魔王様がマント越しに抱きしめてくれているのはよく分かる。そしてマントがあるから、きっと声をしっかりと伝えようとしてくれてるのもよく分かる。
だが近過ぎる。耳に、近過ぎる!!
色んな物語の中で、耳元で囁く系のシチュエーションはよく見たけれど、まさか自分が体験するとは思ってなかったし、何か耳こそばゆいんだろうな、くらいにしか思ってなかったのに全然違う!!
もっとヤバイじゃないか!何で作中の主人公達はもっとヤバイって教えておいてくれなかったのか!!
み、耳が!何か、耳が……!!
これまだマント越しだぞ!?と違う意味で私は泣きそうになっているのだけれど、私が何も返せないせいか、魔王様はダイレクトアタックを止めてはくれない。
「ユリエ、泣かせるつもりはなかったのだ…その、怒っているか?」
怒ってはいないの! 茹で上がりそうなだけ!
とは思っていても、声には出ない。今、声は出せない!
そして物凄く暑い。
「ユリエ?」
聞こえてないの?と言わんばかりに更に距離を詰めた声に、何かもう駄目だ。と全力で魔王様に体を預けると、魔王様が焦っているのが薄いマントでよく分かる。
ごめん。 不甲斐ないが、腰が砕けた。
そんな私に慌てた魔王様が、マントごと私を抱えてエントランスのソファーに寝かせてくれて、しかし私を覆うマントを剥ごうとしたのでそれは最後の力を振り絞って全力阻止。
今、見られる訳にはいかない!
「お……怒って…ないです」
「しかし…」
フワフワした感覚のまま、必死に普通を装う声を絞り出し、魔王様にそう言えたはいいけれど、マントを離してくれない魔王様が困ったように隣に膝を突き、私の様子を窺っている。
窺わないで。今度は私が恥ずかしい…。
「ちょ…ちょっと…暑かっただけ、なので」
「そ、そうか…すまない、気が回らなくて」
だが、見られたくはないけれど、離れたくもない。
マントを掴む魔王様の手をマントの内側から握ると、驚いたその手は少し震えたけれど、ゆっくりと握り返してくれたのがとても嬉しい。
「ユリエの手は細いな…」
「…魔王様の手は大きいですね」
「あまり好きではないが…」
「私は好きですよ」
やっと落ち着いてきた自分の呼吸を確認して、残った手でマントを捲るとやはり涼しい。
隣に居る魔王様を見ると目が合って、頬を少しだけ赤くした魔王様が困ったように笑った。
「大事ないか?」
「大丈夫です、心配させてすいません」
「いや、私の配慮が足りなかった」
「あの、魔王様、少し我儘を言ってもいいですか?」
「ん?うむ、何でも聞こう」
私の手をしっかりと握って、優しく頷く魔王様を見詰めたまま、その手をしっかりと握り返す。
「寂しいのは困ります」
「すまない」
「会えないと、恋しくなります」
「そ、それは…私も、その…常に、ユリエを恋しく、思っている」
「だから、ちゃんと側に居て下さい」
「う、うむ…側に居よう」
じわじわと恥ずかしさを耐えるように、顔を赤く染めて行く魔王様に少し笑って、触れられなくても、触れるように側に居られるなら、しばらくはこの近さでいいかな、と思えた。
でもとりあえず、初期位置かダイレクトアタックかの極端な二択は止めて欲しい。




