57 【死の泉】
そんなに経っていないのに、もう懐かしく感じる光景。
私がこの世界に来て、生きる希望をくれた場所。今も変わらず透明な丸い光を昇らせて、朝日に輝いてとても綺麗。
今目の前には【死の泉】がある。
こんなすぐに来られたのは転移をしたからなのだけど、しっかり握って離してはいけない、と言われて私が握ったのは魔王様のマント。
距離が近くなったからこそ取れる方法ではあるけれど、正直少しだけ怖かった。
だって以前レイ君は、直接触れないと転移は出来ないって言ってたし、マントの先を握ってるだけで触れている事にはなりそうにもない。
なので、触れなくてもいいんですね、と私が問うと、そこは制御の問題だと教えて貰った。
さすが、魔法の王様は伊達ではない。
そんな伊達じゃない魔王様の、魔法に関する価値観を変える為にここに来たんだ。
気合入れていこう。
「じゃあ触りますね」
「まっ、待つのだユリエ! その…もう少し慎重に……」
気合を入れた私が、泉の畔で膝立ちになってその水に触れようとすると、何故かまた3メートル先になった魔王様がハラハラしながら慌てている。
「魔王様」
「…ぅ……はい」
落ち着いて、と意味を込めて呼びかけると、魔王様は肩を落として大人しく返事を返して俯く。
確かに私から「触れた」「飲んだ」と聞いてはいるけれど、魔王様がその現場を見るのは初めてになる。確かに少し、性急だったかも知れない。
そう私は泉を汲もうとした手を膝に戻し、困り顔の魔王様に努めて笑う。
「魔王様、私の事信じてくれますか?」
「…ユリエの事は信じている」
「大丈夫ですよ。前に触れた時よりも、ちゃんと魔法も使えるようになってますから」
「…うむ」
そんな言葉に少し落ち着いたのか、そろそろと魔王様が私に近付いて、私の後ろから覗き込むようにこちらを見ている。
怖いとか不安とかまだあるだろうに、ちゃんと見ようと思えるのは凄いと思う。そして信じてくれたのが分かって嬉しい。
「じゃあ今度こそ触りますね」
「う、うむ…」
そう泉に向き直り、最初に触れた時の事を思い出す。
あの時、生きたいと願った。
この水が救ってくれると信じた。
飲み水であれ、有害ではない、体に良い、全てが良いものであれ。
『希望の水であれ』
そっと手に汲んだ水はゆるりと光る。
私の手を伝い、雫が落ち、その水は私の両手の中で、やっぱり微かに蜜のような甘い匂いがした。
美味しい、だろうな…。
私は今少し空腹を覚えている。何故なら恋煩いを楽しんで朝食を食べなかったからだ。
あの時飲んだ味を思い出し、私はその汲んだ水をじっと見る。
……腹が減っては戦は出来ぬ。
なのでやっぱりまた飲んだ。
「ゆっユリエ!ま…待っ」
魔王様の焦った声がするけれど、この泉の水はとても言葉に言い尽くせない程の美味しさを誇る。
その至極の味に飲み切る事を止められず、手の中の全てを飲んで私は幸せに息を吐いた。
「はぁ…やっぱり美味しい……」
「……………」
沈黙が降って来るのが分かって、私は後ろに立っている魔王様を見上げると、そこには耳まで真っ赤になった魔王様が困ったような、驚いたような、そんな複雑な顔の口元を片手で隠し、物凄く恥ずかしそうに私を見ている。
「どうしました?」
「いや…その…驚いたのは…確かなんだが……その…」
「あ、飲むのが駄目でした?」
「の、飲むのが、駄目と言うか……何と言うか…その水を…その、己と重ねてしまっていて…」
あ、そうだった。
この泉は魔王様が自分と同じものとして捉えてるんだった。
なら、私は今魔王様の前で魔王様を飲んだのか。
……。あ、確かに。それは破廉恥案件だ。
でも、ここで引いたら駄目な気もする。だって魔王様のこの泉に対するイメージを払拭しに来たんだ。
ここは押して参る。
「とても美味しかったですよ」
「なっ!?…っ!……!!」
真っ赤な顔で辺りに風を吹かせた魔王様が、よろめくように後ろへ下がり、そのまま2メートル程下がって俯くように両手で顔を覆った。
既視感。
でも大丈夫。あれは耐えてる時の魔王様だ。
今魔王様は破廉恥と羞恥に耐えているだけで、きっと嫌だった訳ではない。 筈。
「……嫌…でした?」
「嫌ではない!」
「ではない、けど?」
「………上手く、言葉にできない」
そう言って、顔を覆っていた手を下ろした魔王様はやっぱりまだ頬を赤らめているけれど、ちょっと困ったように笑っていて、そんな顔が苦笑交じりのものへ変わると、泉を見て息を吐いた。
「本当に、触れても壊れないのだな……」
昇った朝日を取り込むように光を揺らす泉の、煌めく光に照らされる魔王様の横顔は、とても静かで、静かに、泉の、その奥にある自分の心を見るように、魔王様はじっと死の泉を眺めている。
「………そうか……」
ただ一言そう呟いて、苦笑を浮かべた魔王様の肩から力が抜ける。
その落ち着いた魔王様の姿に、『生き物に触れると壊れる』なんて悲しいイメージが、魔王様の中から離れようとしているかも知れない。自分とは違う、そう感じているのかも知れない。そう思うと、私は今その心に触れていいのか分からなくて、上手く言葉を紡ぐ事が出来ずにいる。
そんな私に、泉に照らされる魔王様の静かな声が届いた。
「ユリエ、私は……私は沢山のものから逃げた…自分から、周りから、己の心から…。隠れるように籠り、何も知らずにいられるように、逃げた……」
私を見ずに、静かに、泉を見ながら魔王様は自分の心を覗いている。
その声はとても透き通った純粋なもので、私はその心を掬い上げたような声に耳を澄ます。
「私は逃げて、目を閉じ、耳を塞ぎ、でも逃げきれなかった……。結界を失う訳にはいかない。それを放棄すればこの国は亡ぶ。私はこの国を捨てられなかった…」
「…はい」
「だから私はこの泉に、私と同じく、誰も触れられないこの泉に居場所を求めた……。【死の泉】は私と同じ。そうあって欲しかったのだと思う。そうでなければ、私は永い孤独に耐えられるような強さを持っていなかったから……」
その苦しみが過ったのか、魔王様は苦く笑い、小さく息をした魔王様の伏せた睫毛が震えるように揺れる。
「しかし、この泉は【死の泉】ではなかった。触れても壊れない者が居る。この水に触れて壊れたのは、ただ魔素が多すぎると言う現象でしかなかった…なら私は…私も、そうなんだろうか……この魔法を制御さえできれば………」
そう言って魔王様は自分の手を見た。
その手が、震える。
「………違う、制御できないのは【魔力譲渡】ではない…なら、私が…制御できないのは………」
表情を失い、己の手をただ見ている魔王様の顔が苦しそうに歪んで、己を罰するように俯いた髪にその表情が隠された。
そしてそこから聞こえる苦しむ声に、名前を呼んだ私の声は届かない。
「私は!…私は……何と、恐ろしい魔法を……!触れれば生き物を壊すだけの魔法を…創ったのか…この手で…っ!」
そう言って顔を上げた魔王様は今にも泣きそうで、苦しそうによろめいた魔王様に焦った私が立ち上がると、そんな私を恐れるように魔王様が一歩下がった。
待って、トラウマが何なのかは分からない。でも違う。それは魔法でしかない。そんな己を否定するような思考に行ってはだめ。
そう踏み出した私の一歩に、魔王様がまた一歩遠くなる。
「魔王様、そうじゃない……」
「ユリエ…私は…触れられない…触れてはいけない…このような恐ろしい力を、それを易々と生んでしまう心を持った者は、やはり誰にも触れてはいけない…」
「そんな事ないんです、力は力でしかないんです」
「……駄目だ…すまない…私は………」
泣きそうな顔でまた一歩遠ざかる魔王様に、私は近付けない…。
違う、違うの、それはただの魔法なの。だから…
近付きたい、違うと伝えたい。でも一歩踏み出せば魔王様が遠ざかる。
私は動けない、動けば、魔王様は消えてしまいそうな気がした。
「魔王様違う!それはただの魔法です!!」
「創ったのは私の心だ!!!」
そう叫んだ魔王様が、揺れた。
その存在が空気に滲んだように揺れて、消えそうに歪む…。
何、それ…とても怖い…。
駄目、それ以上は駄目、それ以上離れては駄目。




