56 立候補
結界を張っている大きなクリスタルは、氷柱カットされた七色の断面に、薄っすら万華鏡のような模様を浮かせては消し、静かに祭壇の上に浮かんでいる。
そんな大きなクリスタルに右手の手袋を外した魔王様がその手を添わせると、クリスタルの中心から万華鏡が動き出したように、七色の模様が沢山の星を生んで光だし、細かく金属を弾く音を響かせながらその光を増やしていく。
クリスタルの中を駆け巡る星の光に慌ただしく照らされる魔王様の横顔はとても凛々しくて、『守る』と言う言葉を体現しているようだった。
やがてクリスタルは光に満ちて、その輝きを一気に放出するように音を反響させながら星たちを空へと弾く。
弾き出された星たちは、七色の尾を引いて白んだ空へと向かい、空中で花火のように分かれると、どこかを目指して大きく弧を描く。
綺麗。ただ素直にそう思った。
そんな空から視線を下ろすと、そこにはさっきよりもはっきりと七色に輝くクリスタルが、小さく響き続ける音を内包しながら浮かんでいる。
そしてそんな結界石を背に、こちらを振り向いた魔王様は私と目が合うと優しく笑う。
「ユリエ、もう大丈夫」
何度その笑顔に喜びを貰っただろう。
その存在に、どれだけ安心を貰ったか分からない。
今も、これからも、ずっと、ずっと側で見ていたい。
ああ、うん。私は魔王様が…
「好きです」
口から出た気持ちを、私は止めなかった。
白から薄い青に染まっていこうとする空は広く、風は少し強い。足元の石畳はまだ夜の冷たさを残していて、澄んだ空気は水の匂いを連れている。
風の音に負けないように、少し張った声は届いただろうか。
目の前にいる魔王様との距離は、最初と同じ10メートル。そこには少し、唖然としている魔王様が居る。
何を? そう言いたげに少し傾いた顔に銀の髪が揺れて、私は少し笑ってしまった。
魔王様が私に勇気を出して想いを告げてくれた時も、私は「何に?」と訊いたのだ。
よろめいた魔王様の気持ちがよく分かる。そう笑ってしまったその笑顔で、温かくなった気持ちを乗せて、私は言葉の続きを口にした。
「私も、立候補していいでしょうか」
そう言葉にすると、返答を待っている私を見ていた魔王様の瞳が大きく開き、朝日に煌めく。
一歩、躊躇うように踏み出された魔王様のその脚が、止められないように私に向かって走って来る。
距離が埋まる。凄いスピードで。
そして
止まった。止められた。
目の前で、魔王様は透明の壁に拒まれてがっつり止まった。
結構な音を立てて魔王様を止めたその壁に、私を目指した手を突いている魔王様は憎々し気に額をコツリと当て、銀の髪がサラリと流れる。
少し見上げる目の前で、不服を隠さないまま私を見ている魔王様との距離は、3センチ。
「まさか…自分の結界に阻まれる日がこようとは……」
「これ、結界なんですね」
「……こんなにも触れたいと思っているのに、自分が恨めしい」
「あ、自分で張ってるって言ってたやつですか」
全自動、と私が笑うと、魔王様は拗ねた顔で口を結ぶ。
私と魔王様を隔てる壁。その透明な壁に添えられた大きな手に私もそっと手を添えると、薄い壁の向こうにある魔王様の手は、私の手よりも一回りも大きい。
温もりすら感じられそうなその先は、触れたらどんな感触がするんだろう…。
この壁がなければいいのに。私もそう思う。
「壁、なくしたいですね」
「今すぐなくしたい」
「なくせるんですか?」
「…まだなくせない」
添えた私の手を握るように、壁の向こうで指を掴む魔王様は、その自分の手を見て複雑そうに息を吐く。
そして私と額を合わせるように透明な壁に頭を預けると、真面目な、そしてとても真っ直ぐな視線で私を捉えた。
「ユリエ、必ず触れる。待っていてくれるか?」
「待つのは魔王様ですよ?私が触れるので」
「……ふふ、そうだったな」
私が笑顔で約束を宣言すると、魔王様は優しく笑う。
いつか、必ず触れる。
この優しく、愛おしい魔王様に。
どれだけ時間が経ったのか、私と魔王様は3センチの結界に互いに凭れ、座りながらぽつぽつとお話をしている。
まだ実感が湧かない、と言う魔王様に、互いに立候補したので恋人って事でいいのかと尋ねたら、しっかり真っ赤になって頷いたので自覚はしてくれたと思う。
「結界石から飛んで行った星はどこに行ったんでしょうか」
「あれは魔物の領域や、魔国の街に施した小さな結界石を目指すのだ」
「ずっと守ってるんですね」
「それでも十分ではない。結界が緩めば街中とて魔素泉が湧いてしまう事がある。もっと精進せねば」
でもそうやって頑張り続ける魔王様はカッコイイです、と感想を言うと、3センチのすぐ側で、魔王様は頬を染めて耐えるように照れる。
その隠さない純情さがとても好き。
互いにこんなにも触れたいと思うなら、触れてもいいんじゃないか、大丈夫なんじゃないか。そう思うのはきっと願いで現実ではない。
この世界には魔法がある。それはとても便利で、とても優しく、そしてとても恐ろしい。
自分の心をそのまま現実にしてしまう。それが魔法。
ただ願いを叶えてくれるほど甘くはない。
魔王様のトラウマが生んだ、『生き物に触れると壊れる』その魔法。そんな自分を【死の泉】と同じだと思っている魔王様の心。
魔王様が魔法で心を体現されてしまったのなら、魔王様を治すなら、そんな心にも触れないといけない。
今はまだ恋人になった事で頭が一杯だろう魔王様だけど、それが自分の作った魔法だと言う答えに行き着くのはきっと時間の問題だろう。
もしその時に、気付いた時に、魔王様が1人だったら……そう想像するだけで、悪い予想しか立たない。
なら、踏み込もう。
傷付けるかもしれない、嫌がられるかも知れない、疎ましく思われるかも知れない、嫌われてしまうかも知れない……。
でも、ちゃんと、その時は、側に居たい。
そう覚悟を決めて一つ息を吐く。隣を見ると、3センチ隣でこちらを見ている魔王様と目が合った。
目が合うと、やはり魔王様は嬉しそうに笑う。
そんな魔王様に笑顔を返し、もう少しだけ近付かせてね、と覚悟を決めて口を開いた。
「魔王様、私【死の泉】に触れてもいいですか?」
魔王様は私の言葉に、壁に預けていた体を起こして正面から私を見る。その目には、不安と葛藤が揺れている。
その心から逃げていては進めない。けれど、深く染みついた不安や思いはそう簡単には払えないだろう。
最初の一歩はとても怖い。
でもどうか、側に居るこの距離が力になって欲しい…。
「………何故?」
「私が【死の泉】に触れられる事を、魔王様にちゃんと知って欲しいです。それが何を意味するか、魔王様に分かって欲しい」
「ユリエの言いたい事は…分かる。でも、少し…」
「怖いですよね」
「…怖い」
私も体を起こし、魔王様と向かい合う。
目の前には、怖い、と言った魔王様が葛藤に俯いていて、私は努めて笑い、魔王様に「でもね」と言葉を続けた。
「魔王様、私【死の泉】の事、今は怖いと思わないんです」
「何故…?」
「最初はとても怖かったんです。魔王様怖い事沢山言うし」
「ぅ……あの時は、すまない」
少し顔を逸らした魔王様に私は首を振る。
「でも、あの泉がなかったら、【死の泉】がなかったら、私は魔王様の側に居る事はできなかった。魔王様と出会う事はできなかった……」
「ユリエ…」
「今、私にとってあの泉は、【死の泉】ではなく、幸せをくれる素敵な泉に思えるんです。あの水に触れたから、魔王様は私に希望を感じてくれた。そして、側に置いてくれた。そして好きになってくれた。私にとっては“幸せの泉“です」
そんな言葉に魔王様は目を開く。そして揺れる気持ちに瞳を揺らし、けれど私をしっかりと見ている。
「確かに魔王様と同じですね。幸せを沢山くれる」
「……本当に?」
「はい」
「触れる事も、できないのに?」
不安に揺れる魔王様が3センチに触れる。
私はその縋るような手に手を添えて、頷いてから少し笑った。
「もう触れました。そして飲みました」
そう笑った私に、大きく瞳を揺らした魔王様が少し困ったように、けれど、ふっと声を漏らして笑う。
「そうだった…………そうだったな…」
目を伏せた魔王様は笑みを浮かべたまま、思い出すように、そして、もっと奥の、自分と重ねるように静かに頷く。
「ユリエ……もう一度、触れてくれるか?」
そう言って私を見た魔王様の目には、不安ではなく覚悟が見えた。




