49 魔力譲渡
よろりと後ろへ傾いた体を支えるように、何歩か後ろへ下がった魔王様が、その真っ赤な顔を両手で覆っている。
その距離は1メートル30センチ。
戻った。
あれ、これ、私何かミスったのでは?
「あの…」
「いっ…いや!よいのだ!その!忘れて…いや、忘れては…」
きっと何か申し訳ない事をしたであろう私が、とりあえず謝った方がいいかも知れないと思っていると、魔王様がそんな私を片手で制す。
「忘れないで、いてくれればいい…」
「はい…」
魔王様は真っ赤な顔を片手で隠しながら、それでも真剣な眼差しで「忘れないで」と、そう言った。
何に立候補したいのかは分からないけれど、私は忘れないでおこうと思った。
エントランスは広い、広いからか、お城が静かだからか、忘れないでと一言言い終わった後に続く静寂が耳に痛い。
魔王様は顔の封印は解いたけれど、まだ頬を赤くしたまま、何も言わずにこちらも見ない。けれどその場から動こうとはしない。
どうしていいか分からない。魔王様からそんな雰囲気がとてもはっきり伝わってくるので、私はそう言えばと手に持った籠を見る。
「魔王様、アップルパイ食べませんか?」
「あ…あっぷるぱい?」
「はい、リンゴを使ったお菓子みたいなやつです」
アップルパイを盛った籠を少し前に出すと、魔王様の視線がそれを捉えた。
「ユリエが、作ったのか?」
「はい、ヨウグさんと作りましたけど、これは私が作ったやつですね。できたら食べて欲しいです」
そう、食べて欲しい。そしてこの破廉恥アップルパイをこの世からなくして欲しい。
唯一これを食べても大丈夫であろう魔王様に、頑張って消費して頂きたいと切に願う。
一人で消費するには量が多い。
何だかせっかく喜んで欲しいと思って作ったのに、利用するような感じになって少しガッカリしてしまう所はあるけれど、でも、これは魔王様に喜んで欲しくて作ったのだから、魔王様が喜んでくれればそれでいいのではないだろうかとも思う。
私がそんな複雑そうな顔をしていたからだろうか、魔王様が少し焦ったように、私を見ながら一歩前に踏み出した。
「できたらもなにも、私はユリエが作ったのなら食べてみたい!」
「…ありがとう、ございます」
「あ、いや…はしたなくて、すまない」
魔王様の勢いに少し驚いて思わずお礼を言ってしまった私に、魔王様はまた一歩下がる。
何だろう、距離が、凄く気になる。
さっき凄く近かったのが何だか幻だったように思えて、あれが現実だったと確かめたいような変な気持ち。
いつも一定の距離があるからか、あの近さは正直ドキドキしたし、何と言うか、貴重な光景と言うか、奇跡のような現象を目の当たりにして上手く意味を捉えられなかったように思う。
だからか、今凄く近付いてみたいような、確認したいような、そんな気分だ。
「とりあえず、座りませんか?」
私はそう言って後ろにある3人掛けの大きなソファーの端に座り、隣をポンポンと叩き、そんな様子に魔王様は、え、と目を見開いて私が叩いた所を凝視している。
ソファーの座席は端と端に座っても1メートルと距離はない。いつもの魔王様なら近すぎる距離になる。
どう動く?と魔王様を観察していると、少し震えるように赤い顔でソファーを睨んでいた魔王様が、目を閉じて、胸に手を当て、大きく深呼吸をしてから再びソファーをキリッと見て、そして足を進め、何とソファーのもう片方の端へトスリと座った。
魔王様が座って、そのマントがふわっと浮いて座席に落ちる。こちらを見ずに、とても姿勢よく正面を見ている魔王様の横顔は、堪えるように真っ赤で口元は強く横へと結ばれている。
そんな魔王様を思わずじっと見ていると、視線だけがチラリと合ってすぐに離れた。
「ゆっユリエ、そっ…そのように見られると…その…」
「あ、すいません。何か感動しちゃって」
魔王様を凝視していた自分に気付いて、私は視線をアップルパイの入った籠を持つ自分の手元に移す。
だって、本当に座ってくれるとは思ってなかった。最悪魔法かなんかで椅子伸ばすんじゃないかな、とさえ思っていたのだ。
「でも、近いの、嬉しいです。魔王様から近付いてくれるの珍しくて、思わず見入ってしまいました。すいません」
「い、いや、いい。その…私も、色々努力せねばならないので…」
魔王様は赤い顔を少し伏せて、最後の方はもごもご口籠っていたけれど、距離を取る事に向いていた意識が、自分から距離を詰めようと、努力しようと思えるようになったのは凄い事なのではないだろうか。
そんなふうに思わせるような事が、立候補案件にはあったんだろうか…。
どんな心変りがあったんだろう…。
気になるけれど、下手に聞いてその前向きな意識が距離をとる方へ戻っても嫌だな、と私はその件について、そうなんですね、で終わらせる事にする。
魔王様にはこのまま前向きに頑張って貰いたい。
「お口に合えばいいんですが」
私がアップルパイの入った籠を私と魔王様の間に置くと、そっと小さなアップルパイを掴もうと伸ばした指はとても白くて細い。けれど関節のしっかりとした男性の手だ。
でも魔王様、いつもの手袋してないな。
「今日は手袋してないんですね」
「あ……ああ、そうだな…」
私がそう何気なく呟いた言葉に、魔王様の手が止まってしまった。
そして、何かを拒むようにその指が握られる。
ああ…これ、私またミスったかも。
「魔物を、消すのに…邪魔だったので…」
やらかした。まさか手袋が地雷だったとは…。
魔王様は苦し気に笑っている。そんな顔になるような事はして欲しくない。けど、やりたくなかっただろうに、する必要があったのだと思うと何も言えない。
消す。消すとは、きっと魔王様が制御できないと言っていた、【魔力譲渡】の事だろう。
きっと手袋は魔力を制御するから、魔物を消す時に取ったんだろうな…。
取って、そして【魔力譲渡】を使った…。
あれ?何か引っかかる…
魔王様は【魔力譲渡】を制御できない。【魔力譲渡】を無意識に使ってしまって、触れた対象物を壊してしまう。
なら何で、今当たり前のように、素手でアップルパイを掴もうとしたの?
素手で掴めばアップルパイは消えるだろう。だって魔王様は【魔力譲渡】を制御できずに魔力を流してしまうんだから、直触れた対象物は全部例外なく壊れる筈だ。
そう、じゃあ既に魔王様が素手で開けただろう扉は壊れていないとおかしいって話になる…。
でも扉は消えてない……。
湧いた疑問を頭の中で整理しながら、私は居住まいを正して魔王様に向かい、下を向いたままの魔王様に真面目な面持ちを向ける。
「あの…魔王様。それって【魔力譲渡】の事ですよね?」
「……ああ」
「辛い事を聞くかもしれません。でも、教えてくれますか?」
「…何を?」
「無意識に使ってしまうとは言え、【魔力譲渡】を使っている感覚は、あるんでしょうか」
「感覚?」
私がそう訊くと、魔王様は辛そうな顔から少し真面目に悩むような、そんな難しい顔になる。
「感覚は…ある。魔物を消す時は、薄っすら魔力が減った感じがする。けれど、それだけしか分からない…」
「その感覚って、一定ですか?物に触れる時、どうなってますか?」
「……!?」
私がそう訊くと、魔王様は弾かれたように顔を上げて私を見る。私はそんな魔王様に頷いて言葉を続ける。
「私、物に触れる時、魔力が広がるのが分かるんです。まだ完璧には制御できませんが…。でも、先日椅子を消してしまったんです。椅子に魔法を、魔力を流し過ぎて、魔力過多を起こしてしまいました」
「……」
「だから今は、これ以上流すと壊れるって分かります。魔王様、物に魔力を流す感覚は、分かりますよね?」
魔王様は大きく目を見開いて、驚愕と唖然を織り交ぜたような、そんな複雑な、でも思考をする事を止めずに自分の手に視線を向ける。
「魔王様が制御できないのは、本当に【魔力譲渡】ですか?」




