34 望み 魔王side
ユリエが泣いていた。
外を眺めているユリエを見掛け、今日もまた上手く声が掛けられずに隠れていた柱から、思わず出て声を掛けてしまった。
けれど、その先の事は何も考えていなかった。
会い方を、話し掛け方をずっと考えていたが答えは出ないまま、更に難関を目の前にするとは予想外だ。
こう言った時は、どうしたらよいのだろう…。
昔読んだ絵本では、ナイトが姫の涙を拭うシーンを見た事はある。だがそんな高度な事は出来そうにないし、まず触れられない。
ユリエが頼りなく泣いていると言うのに、ただ見ている事しかできない。そんな自分に何度も味わった嫌気がさす。
しかし、そんな事よりユリエが泣いている理由が気になって仕方ない。
何か嫌な事や悲しい事でもあったのだろうか、あるならばすぐにでも取り除きたい。
ここ最近声は掛けられなかったけれど、見かけた時は楽しそうにしていたのに…何故泣いているのか。
ユリエが泣くと魔力が暴れる感じがして落ち着かない。
苦しい。
胸の疼きを抱えながら、ただ安直に訊く事しか出来なかった私に、ユリエは泣いていた理由は以前の世界を思い出していたのだと教えてくれたが、それを知って更に苦しくなる。
未知の世界に放り出されたのだ、それはどれ程の憂いがあるのか……きっととても辛いだろう。
だと言うのに、私はユリエの心の強さを過信してしまった……強くとも、不安がない訳ではなかった筈なのに…。
今すぐ、どうにかその不安を取り除きたい。
けれど、出来る事が何一つ分からない。
けれどここに居て欲しい。
戻りたいと、思って欲しくない。
そんなユリエへの想いと自分本位な感情に、何かできる事はないのかと足が前に出る。
だが、その足はすぐに止まる。
体がその距離を覚えている。
これ以上、近付いてはならない。
何度も恐れられた距離。
そして私が恐れる距離だ。
忘れられない。上手く出来ない。近付くのは怖い。ユリエにまで、そのように見られたくはない…。
ユリエならば大丈夫だとは信じている。だが、もしもと思うと足が出ない。
何と臆病で不甲斐ない……。
そんな自分を嘆いている私に、ユリエは感謝と笑顔をくれる。
胸が、また更に苦しくなる。
ユリエの事を思うと胸が苦しいと思う事はあった。きっとそれは、触れられない事を強く意識するからだと思っていた。
直接会えばその苦しみは薄れ、暖かな物を貰うような感覚があったのに、こうやって会う度に、そんな苦しさは増す気がする…。
これは何だろうか。
苦しいが嫌ではない。嫌ではないが…。苦しいから会いたい。側に居たい。だが苦しい……。
その不安定さが魔力の制御を甘くしているのか?だからこんなに苦しいのか??
確かに魔力が浮ついているので、これは本格的に制御が甘くなっているのやも知れん…。
いかん…気を付けねば…。
そう自分を律している私をユリエが見詰めている。
真っ直ぐに私を見詰める黒い瞳がとても深く澄んでいて、思わず見入っているとその小さな口から落ち着く声が聞こえてくる。
「心配して下さって有難うございます。魔王様が居ると、何だか安心します」
「わっ…私がか?」
「しますけど」
「そ…そうか、う、うむ、なら、その、うむ…」
ユリエは、さも当たり前のように首を傾げる。
怖いと、恐ろしいと言われるのならば分かる。しかしユリエは私を全く恐れない。
それどころか、安心、安心するなどと……。嬉しいような、どうしていいのか分からない、だがしかし、嬉しいような……どう答えてよいものか、よく、分からないが、顔が熱くなるのは分かる。
そんな思いを悟られたくないばかりに視線を逸らすと、ユリエが優しそうに笑ったそれが視界の端に映った。
欲しい。
そう頭に過る思考を抑えるように強く目を閉じる。
ユリエはいつも当たり前のように喜びをくれる。
望んでよいのだと教えてくれる。
私から目を逸らさずに、一歩も引かずに…。
確かにユリエには希望を感じている。だが、それとは違う、その喜びを、それを生み出す存在自体を欲している自分がいる。
浅ましい…。
ユリエが泣いていても何も出来ず、自分から歩み寄る事も出来ず、こんな不甲斐ない私の側で笑っていてくれるだけでも幸福な事であると言うのに、それをユリエから貰う程に、もっと欲しいと思ってしまう…。
いつからこのように浅ましく望む者になってしまったのだろうか……。
苦しいのは、自分が不甲斐ないからだ…。
こんな自分が嫌になる。
苦しい……。
城に残った者たちは皆強く、私を必要以上に恐れない。だがユリエはそうではない。
ユリエよりも遥かに強かった側仕えでさえも私を恐れた。
触れれば死ぬのだ。当然の反応だ。
触れてはいけない。近付いてはいけない。怖がらせてはいけない。恐れられたくない。恐怖を耐える視線を見たくはない…。
なのに…
ユリエを見ると、やはり私を恐れも抱かずにしっかりと見ている。
ただ、どうしたのかを窺うような、私を案ずるだけの視線。
やはり、欲しい。
欲しいが……いかん、結構胸が苦しいな…。
何だこれは、やはり魔力が上手く制御出来ていないのだろうか……。
おかしい、別にそこまで魔力は荒れていないのに…。
「魔王様、どこか痛いんですか?」
「えっ!?いや、だ、大丈夫だ!大事ない!」
そんな苦しい胸を押さえ、自分のおかしな魔力を探っていると、ユリエの声で集中力が霧散する。
少し驚いたのは悟られてはいないだろうかとユリエを見るが、相変わらず視線を逸らす事無く、ただ心配そうに首を傾げて私を見ている。
ただ私を気遣うだけの視線に頬が緩む。
「大丈夫、少し胸の辺りがおかしいだけだ」
「胸焼け?何か変な物でも食べました?」
「…変な物は、食べていないと思うが…」
朝はきっと皆と同じ物を食べたと思うのだが、最近は料理が美味く感じるので、やや食べ過ぎたのやも知れん…。
そうか、その可能性もあったな。
気を付けねば…。
「魔王様、今日はお仕事終わったんですか?」
「ああ、今日はもう終わった」
「もし時間があれば、お掃除手伝って貰えませんか?天井、届かなくて」
「構わない。私もユリエの掃除は楽しい」
ユリエが見上げたのでつられて見上げた天井は、確かに他の部分をユリエが綺麗にしてくれているので、何とも別空間のように薄暗く見える。
いや、これは空間が分かれそうになっているな……。
虹窓から供給される魔力の通りがよくなって、ユリエの魔法によって魔素の整った部分とそうではない部分で歪が出ようとしているのか。
ユリエの魔法自体は見惚れる程に上手く使われている。この城の構造に組み込まれている迷宮防壁の魔法に干渉する事なく整えているのだから、よほど魔力の制御が上手いのだろう。
見事だ。
しかし、これは長らく城の手入れを怠ったのが悪かったか。このままでは後100年もすれば城自体が崩れるのではないだろうか…。
「これは、いかん」
「ですよね。掃除出来てる所と出来てない所分かれてるの、気持ち悪いですよね」
「ああ、早々に処置してやらねば。 ユリエは疲れてはいないか?」
「私は大丈夫ですよ。魔王様こそ仕事終わりで疲れてないですか?」
純粋に心配してくれるユリエの優しさに心が解れ、胸の苦しさが温かいものへ変わる。
「大丈夫、とても楽しい」
まだ上手くは話せない。声の掛け方も、近付き方も分からない。
それでも、こんな不甲斐ない私でも、もし少しだけ望んでよいのなら、この優しい笑顔が私に向けられ続ける事を望みたい。
そう思いながらユリエと天井を掃除し終えた折、外から聞こえて来る昼の鐘に、ユリエが「またお昼一緒に食べませんか?」と言ったそれは天啓だった。
そうか!会いたければ食事に誘えばよいのだ!!