最強の師匠は容赦がない(前編)
その日の夜。
優斗は寮に戻るなり、ベッドへ倒れ込むように眠ってしまった。
ハヤトとの模擬戦で、体力をすっかり使い果たしていたのだ。
一方、ルイの部屋では、ルーナとルイが向かい合って座っていた。
「優斗、寝ちゃったよ」
「そりゃそうでしょ。あんな無茶な戦い方したんだから」
ルーナは呆れたように肩をすくめた。
「でも、途中から完全に稽古みたいになってたよね」
「そうそう! 兄さんも意地悪だよね。最初から教えるつもりだったんじゃないかな」
「ふふっ。お兄ちゃん、昔から優しいもんね」
ルイは嬉しそうに笑った。
そんな妹を見て、ルーナは心の中で苦笑する。
(……それは、あんただったからだと思うけどね)
ハヤトが誰にでも優しいわけではない。
むしろ、剣術に関しては人一倍厳しい。
今日の優斗に対しても、決して手を抜いてはいなかった。
(でも……最後のあれは、ちょっと意外だったかな)
優斗が自分の身体を犠牲にしてまで、一太刀を狙った瞬間。
兄の表情が変わったことを、ルーナは見逃していなかった。
「さて! そろそろ私も部屋に戻ろっと!」
ルーナは立ち上がり、大きく伸びをした。
「ルイも明日から頑張らないとね!」
「うん! よろしくお願いします!」
ルイは元気よく頭を下げた。
明日から、それぞれの修行が始まる。
◇ ◇ ◇
――ジリリリリッ!
「……うぅ」
翌朝。
けたたましい目覚まし時計の音に、優斗はゆっくりと目を開けた。
時刻は午前四時半。
「……はぁ。いつ寝たのか、全然覚えてねえ……」
身体を起こす。
「いっ……!」
途端に、全身が悲鳴を上げた。
(昨日の疲れ、全然抜けてねえじゃん……!)
腕も、肩も、足も重い。
もう一度布団に潜り込みたい衝動に駆られる。
しかし――。
『毎朝五時に、俺はここでトレーニングをしている』
昨日のハヤトの言葉が頭をよぎった。
「……行くって決めたもんな」
優斗は頬を軽く叩いた。
「よしっ!」
運動着に着替え、まだ薄暗い廊下へ出る。
ルイを起こさないよう、静かに扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
グラウンドに到着したのは、約束の十分前だった。
まだ朝日も昇りきっていない。
冷たい空気が、眠気の残る身体を包む。
「……ちゃんと来たのか」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはすでにハヤトがいた。
「おはようございます!」
優斗は姿勢を正し、深々と頭を下げる。
「今日からよろしくお願いします!」
「…………」
ハヤトは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……昨日とは別人みたいだな」
「これから教えていただくんですから、失礼な態度は取れませんよ」
「……そうか」
ハヤトは小さく笑った。
「まあ、悪いことじゃないな。まずは準備体操だ」
「はい!」
二人は並んで身体をほぐし始めた。
そして――。
「準備はできたか?」
「できました!」
「よし。ではウォーミングアップだ。ついてこい」
ハヤトは軽快な足取りで走り出した。
「どれくらい走るんですか?」
「三十分くらいだ」
「三十分ですか。分かりました!」
「無駄口を叩いていると、すぐにバテるぞ」
「は、はい!」
優斗も慌てて後を追った。
最初の数分は、まだ余裕があった。
(……まあ、これくらいなら)
祖父の道場でも、走り込みはしていた。
体力にはそれなりに自信がある。
――しかし。
十分後。
(……は、速ぇ……!)
優斗の呼吸が乱れ始めた。
ハヤトの背中が、少しずつ遠ざかっていく。
(なんでこの人、ずっと同じペースで走れるんだよ……!)
必死に足を動かす。
だが、縮まるどころか、差は広がる一方だった。
そして、残り五分。
「はぁ……はぁ……っ!」
優斗の足は、もはや鉛のように重くなっていた。
(無理……もう無理……!)
それでも、何とか走り続ける。
三十分が経過した。
「よし、終了だ」
「はぁ……はぁ……!」
スタート地点へ戻った瞬間、優斗はその場に倒れ込んだ。
「……口の中が……血の味する……」
ハヤトは軽く息を整えながら、優斗を見下ろした。
「まだウォーミングアップだぞ。大丈夫か?」
「……え?」
優斗の動きが止まる。
「……今、なんて?」
「ウォーミングアップだと言ったんだ」
「…………」
(これが……ウォーミングアップ……?)
優斗は空を見上げた。
(俺、師匠選び間違えたかもしれねえ……)
「さあ、次は体幹と下半身のトレーニングだ」
「……まじですか?」
「今日は下半身の日だからな」
「……もう歩けないんですけど」
「なら、動けるようになるまで休め」
優斗の顔に、わずかな希望が浮かんだ。
「……休んでいいんですか?」
「ああ。三分やろう」
「短っ!?」
朝の静かなグラウンドに、優斗の悲鳴が響いた。
◇ ◇ ◇
それからの時間は、まさに地獄だった。
スクワット。
片足での姿勢保持。
下半身を中心とした、容赦のないトレーニング。
ハヤトが見本を見せるたび、優斗は必死に真似をする。
だが――。
「……っ!」
足が震える。
膝が笑う。
立っているだけでも精一杯だった。
「まだ半分だぞ」
「……半分?」
「そうだ」
「…………」
優斗はしばらくハヤトを見つめたあと、静かに地面へ崩れ落ちた。
「……無理です」
「もう限界か?」
「足が……動きません……」
ハヤトは小さくため息をついた。
「まあ、初日だから仕方ないか」
「め、面目ないです……」
「初めから俺についてこられるなら、教える必要なんてないだろう」
「……え?」
「できないから鍛えるんだ。気にするな」
その言葉に、優斗は少しだけ顔を上げた。
ハヤトは当然のことのように続ける。
「さて。このあとは軽く型の確認をして終わりだ。早く立て」
「……鬼だ」
「何か言ったか?」
「い、いえ……!」
優斗は生まれたての仔牛のように足を震わせながら、何とか立ち上がった。
◇ ◇ ◇
二人が向かったのは、昨日の模擬戦施設の隣にある道場だった。
「お前、剣術を習っていたんだろう?」
「は、はい」
「少し見せてみろ」
「分かりました」
優斗は木刀を手に取り、祖父の道場でいつも行っていた素振りを始めた。
足を開き、背筋を伸ばす。
両手で木刀を握り、正面へ振り下ろす。
何度も繰り返してきた動き。
身体は疲れ切っていたが、木刀を握ると自然に姿勢が整った。
ハヤトは黙って、その様子を見つめていた。
「……ほう」
しばらくして、口を開く。
「やはり、見たことのない剣術だな」
「そうなんですか?」
「ああ。だが、昨日の剣の扱いは悪くなかった。その剣術の基本は大切にしろ」
優斗は少し驚いた。
「……いいんですか? こっちの剣術に直した方がいいのかと」
「なぜ直す必要がある?」
「え?」
「お前が身につけたものだろう。捨てる必要はない」
「…………」
「ただし、この世界で戦うには、それだけでは足りない。俺から学べるものを学び、自分の剣術に取り込めばいい」
優斗は手にした木刀を見つめた。
(……じいちゃんに教わったこと、無駄にならないんだな)
「……はい!」
自然と、声が大きくなった。
「それにしても、お前はどれくらい剣術を習っていたんだ?」
「一年弱くらいです。まだまだ未熟ですけど」
「……一年弱?」
ハヤトは少し考えるように顎へ手を当てた。
「それなら、大したものだ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ」
優斗の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし、実戦には程遠い。うぬぼれるなよ」
「……はい」
上がりかけた気分が、あっという間に元へ戻った。
そんな優斗を見て、ハヤトは小さく笑った。
「夕方は、実際に打ち合いながら学ぶのがいいだろう。お前には、その方が合っていると思う」
「実際に打ち合いながら、ですか?」
「ああ。俺の剣術を見て、感じて、自分のものにしろ」
「……分かりました!」
ふと、ハヤトが時計へ目を向けた。
「おっと。もうこんな時間か」
時刻は七時半を回ろうとしていた。
「朝は基本的にこの時間までだ。週末は俺も休息を取って、昼過ぎから鍛錬することが多い。お前も無理に合わせる必要はないぞ」
「はい! 夕方もよろしくお願いします!」
「ああ。では、シャワーを浴びて朝飯に行くか」
「……はい」
優斗は返事をして、足を踏み出した。
「……っ!」
途端に膝が笑った。
ハヤトが振り返る。
「どうした?」
「……何でもないです」
(……夕方までに、この足、動くようになるのか?)
優斗は不安を抱えながら、ハヤトの後を追った。
◇ ◇ ◇
二人は道場のシャワーを浴び、持参した制服に着替えて食堂へ向かった。
朝食を注文し、席に着く。
「いただきます」
「いただきます……」
優斗がようやくスプーンを手に取った、そのときだった。
「あっ! 優斗! 兄さん! おはよー!」
元気な声とともに、ルーナが近づいてきた。
「……って、優斗!? 何その顔! げっそりしてるよ!?」
「……ルーナ……おはよう……」
優斗は力なく片手を上げた。
「……生きて朝ごはん食べられてることに、感謝してるところだ……」
「兄さん……何したの……?」
ルーナが疑いの眼差しを向ける。
「いつもどおりのトレーニングをしただけだ」
ハヤトは平然と朝食を口へ運んだ。
「……いつもどおりで、これ?」
ルーナは二人を見比べた。
一方は涼しい顔で食事をしている。
もう一方は、今にも魂が抜けそうな顔で座っている。
「……お疲れさま」
「……ありがとう……」
そこへ、ルイたちもやってきた。
「あっ、優斗だ! ……って、どうしたの!? 具合悪いの!?」
「うわっ! 生気を感じないよ!」
マリが驚いた声を上げる。
「あら……かわいそうに。ご愁傷さまです」
アンナが静かに手を合わせた。
「……いや、死んでねえよ……」
優斗は机に突っ伏した。
「ど、どんなことしたら、こんなことになるの……? お兄ちゃんは平気そうなのに……」
「当たり前だ。いつものメニューをこなしただけだからな」
ハヤトは何事もなかったように答えた。
「ほら、早く食わないと授業に遅れるぞ」
「……喉を通らねえ……」
優斗は朝食を前に、絶望的な表情を浮かべた。
◇ ◇ ◇
その日の授業。
優斗は、人生でも指折りの強敵と戦っていた。
――睡魔である。
(……眠い……)
まぶたが重い。
身体も重い。
椅子に座っているだけで、全身が悲鳴を上げている。
「……この薬草とこちらの成分を組み合わせることで、神経毒に対する解毒剤が――」
教壇では、ヨルミナ先生が授業を進めていた。
(……解毒剤……)
優斗は必死にノートへ視線を落とす。
(俺にも……疲労を消す薬、くれねえかな……)
しかし、次第に文字がぼやけていく。
そして――。
「……平賀優斗!」
「うぇっ!?」
優斗は勢いよく顔を上げた。
教室に笑い声が広がる。
「……いつも真面目な君が居眠りとはな」
ヨルミナ先生は、少し落ち込んだようにため息をついた。
「私の授業は……そんなにつまらないか……?」
「まあ、面白くはないかな~」
教室のどこかから、無責任な声が飛んだ。
「や、やっぱりか!?」
ヨルミナ先生がショックを受けたように肩を落とす。
「い、いえ! 違います! 昨日ちょっと夜更かししてしまって……!」
優斗は慌てて弁解した。
「……そうか。なら、あまり無理はするなよ」
「は、はい……」
優斗はほっと胸をなで下ろした。
(……普段から真面目に授業受けてて、助かった……)
しかし。
(……次は絶対寝ない……)
そう決意した数分後には、再びまぶたが重くなり始めていた。
◇ ◇ ◇
そして、待ちに待った昼休み。
「優斗! ごはん食べに行こう!」
ルーナが元気よく声をかけてきた。
「ルーナ、私もー!」
「俺も行く!」
近くにいたクラスメイトたちも集まってくる。
「おお。じゃあ行くか」
優斗は椅子から立ち上がろうとした。
――しかし。
「…………っ!」
足が動かない。
(……え?)
もう一度、力を入れる。
だが、膝が震えるばかりで、まともに立ち上がれなかった。
(やべえ……!)
朝は何とか歩けていた。
しかし、長時間座っていたせいか、足が完全に固まってしまっている。
「……ルーナ」
「ん? どうしたの?」
優斗は真剣な表情で彼女を見上げた。
「……頼みがある」
「え? 何?」
「俺を……抱き上げてくれないか?」
「…………」
ルーナの動きが止まった。
「…………は?」
「いや、だから――」
「は、はぁぁぁぁぁっ!?」
ルーナの叫び声が、教室中に響き渡った。
優斗の地獄の一日は、まだ終わりそうになかった。




