最強の師匠は容赦がない(後編)
「……悪かったって」
優斗は左頬をさすりながら、ため息をついた。
「でも、殴ることないだろ……」
その頬には、くっきりと赤い手形が残っていた。
「ふーんだ! 乙女心を傷つけた罰よ!」
ルーナは頬を膨らませ、そっぽを向く。
「いや、傷つけたって……何が?」
「……っ!」
ルーナの顔が、さらに赤くなった。
「もうっ! そういうところよ!」
「……?」
優斗は首を傾げる。
「優斗って、たまに天然なところあるよね……」
近くにいたクラスメイトが苦笑した。
「俺が? 天然? そんなわけないだろ」
「…………」
周囲の視線が、一斉に優斗へ集まる。
「……なんだよ、その目は」
優斗は納得がいかない様子で呟いた。
「……で?」
ルーナが腕を組んだ。
「なんで急に動けなくなったのよ? 朝は普通に教室まで来てたじゃない」
「……朝のトレーニングのせいだよ」
優斗は力なく答えた。
「来るときは何とか歩けたんだけど、授業でずっと座ってたら、足が固まっちまって……」
「……どんなトレーニングしたのよ」
「思い出したくもねえ……」
優斗は遠い目をした。
「トレーニング?」
クラスメイトの一人が首を傾げる。
「なんでまた急に始めたんだ?」
「ああ、それはね」
ルーナが優斗の代わりに答えた。
「優斗とルイ、ランキング戦に出る予定なのよ」
「「ええっ!?」」
周囲から驚きの声が上がった。
「マジで!?」
「すごいじゃん! 応援するよ!」
「ありがとう」
優斗は少し照れくさそうに笑った。
「まあ、どこまでやれるか分からないけどさ。精一杯準備して、頑張るよ」
「それで、どんなトレーニングしてるんだ?」
「筋トレなら、俺もおすすめあるぞ!」
そこから話題は、トレーニングやランキング戦のことへ移っていった。
優斗も少しずつ、いつもの調子を取り戻していく。
ただし――。
(……結局、どうやって食堂まで行けばいいんだ……?)
その問題だけは、最後まで解決しなかった。
◇ ◇ ◇
そして、放課後。
「……マジで身体が重い」
優斗は机に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
「足が……本当に動かねえ……」
「大丈夫なの、それ?」
ルーナが心配そうに顔を覗き込む。
「まあ……何とかなるだろ」
「……無理しすぎないでよ?」
「分かってるって」
優斗は苦笑した。
「ルーナはルイのところに行くんだろ?」
「うん。今日は私もルイの方を手伝いに行ってくるね!」
「そっか。ありがとうな、ルーナ。本当に助かるよ」
「……っ!」
ルーナは一瞬、言葉に詰まった。
「べ、別に! 姉妹なんだから当然よ!」
そう言い残すと、足早に教室を出ていった。
「……なんだ?」
優斗は首を傾げた。
(……まあ、いいか)
「さて……俺も行くか」
優斗は重い足を引きずるように、道場へ向かった。
◇ ◇ ◇
道場に到着すると、まだハヤトの姿はなかった。
(……まだ来てないのか)
優斗は運動着に着替え、準備体操を始めた。
身体を動かすたび、あちこちが痛む。
「……いってぇ……」
それでも、少しずつ身体がほぐれていくのを感じた。
準備体操を終えても、ハヤトはまだ来ない。
優斗は壁際に置かれた木刀を一本手に取った。
「……この世界にも木刀ってあるんだな」
軽く握り直し、構えを取る。
「……ふっ!」
正面へ振り下ろす。
もう一度。
さらに、もう一度。
祖父の道場で繰り返してきた、いつもの素振りだった。
だが、途中で優斗は手を止めた。
(……昨日のハヤトさんの剣って、こんな感じだったよな)
頭の中に、模擬戦での光景が蘇る。
最小限の動きで、自分の攻撃を受け流していたハヤト。
無駄のない足運び。
そして、剣を振るたびに伝わってきた、あの凄まじい重さ。
(……どうやってたんだろうな)
優斗はもう一度、木刀を構えた。
昨日のハヤトの動きを思い浮かべながら、ゆっくりと振る。
だが――。
「……違うな」
思っていた動きにならない。
「……もう一回」
優斗は何度も繰り返した。
そのときだった。
「……ほう」
「うわっ!?」
突然、背後から声がした。
振り返ると、いつの間にかハヤトが立っていた。
「お、お疲れ様です!」
「ああ。待たせたな」
ハヤトは優斗の手元へ目を向けた。
「もう準備はできているのか?」
「はい。逆に動いてないと、身体がバキバキで……」
「そうか」
ハヤトは小さく笑った。
「少し待ってろ。俺も着替えてくる」
「分かりました!」
ハヤトが道場の奥へ消える。
優斗は再び木刀を握り直した。
(……よし。もう一回)
そして、昨日の戦いを思い出しながら素振りを続けた。
◇ ◇ ◇
「待たせたな」
しばらくして、ハヤトが戻ってきた。
その手にも、一本の木刀が握られている。
「では、実際に打ち合いながらやっていくか」
「はい! よろしくお願いします!」
「…………」
ハヤトは、なぜか微妙な表情を浮かべた。
「……なんか、やりづらいな」
「え?」
「昨日まで、もっと気安く話していただろう。自然体で接してくれて構わんぞ」
「えっ……でも、師匠ですし……」
「師匠と呼ばれるほど、まだ何も教えてない」
「……それもそうですね」
「おい」
優斗が思わず笑うと、ハヤトも小さく笑った。
昨日の模擬戦では感じなかった、少し柔らかな空気が流れる。
「……さて、始めるぞ」
「はい!」
二人は向かい合い、木刀を構えた。
――カンッ!
乾いた音が、道場に響く。
「重心がぶれているぞ」
「はい!」
――カンッ!
「体重移動をもっと意識しろ。腕だけで振っても、攻撃に重さは乗らん」
「……っ!」
「それと、剣を振ったあとの姿勢が甘い。次の動作につなげられるようにしろ」
「分かりました!」
優斗は必死にハヤトの動きを追った。
しかし、何度打ち込んでも、簡単に受け流されてしまう。
(……やっぱり、全然違う)
昨日の模擬戦と同じだ。
だが、今は少しだけ見方が変わっていた。
(ただ速いんじゃない。無駄がないんだ……)
足の運び。
腰の回転。
剣を振る角度。
その一つ一つが、自然につながっている。
(……すげえな)
優斗は思わず見入ってしまった。
「おい。見てるだけじゃ強くならんぞ」
「……っ! はい!」
――カンッ!
再び、木刀の音が響いた。
◇ ◇ ◇
「……ふぅ。いったん休憩にするか」
「はぁ……はぁ……そうですね……」
優斗は木刀を下ろし、その場に座り込んだ。
二人は水分を取り、しばらく息を整えた。
「お前、基礎は少しできているが……やはり経験不足だな」
「……そりゃそうですよ」
優斗は苦笑する。
「でも、やってたときは毎日稽古を受けてましたよ」
「ほう。熱心な先生に出会ったんだな」
「まあ……そうですね」
優斗は少しだけ懐かしそうに笑った。
「俺のじいちゃんなんですよ」
「……おじい様が?」
「はい。俺の未熟な心と身体を鍛えるって言って、毎日しごかれてました」
「そうか……」
ハヤトは興味深そうに頷いた。
「ちなみに、おじい様は強いのか?」
「めちゃくちゃ強いと思いますよ」
優斗は即答した。
「実際に誰かと試合してるところは見たことないですけど、俺は全然歯が立ちませんでしたから」
「……ほう」
「でも、ハヤトさんの方が強いと思います」
「ははっ。そうか」
ハヤトは楽しそうに笑った。
「俺は誰にも負けないつもりで、日々鍛錬を積んでいるからな」
「……でしょうね」
優斗は昨日の模擬戦を思い出し、苦笑した。
しばらく、二人は静かに水を飲んだ。
そのとき、優斗はふと周囲を見回した。
「……そういえば」
「ん?」
「ここって、昨日も今日も、俺たち以外誰も来ませんね」
「ああ」
ハヤトは道場を見渡した。
「ここはメインの道場ではないからな。メイングラウンドの近くに、みんなが使う大きな施設がある」
「へえ……」
「そっちの方が広くて、設備も整っているぞ。なんだ、そっちに行きたいのか?」
「いや、そういうわけじゃないです」
優斗は首を横に振った。
「ただ……ここ、いいなって思いまして」
「……?」
「静かだし、落ち着いて稽古できますし」
優斗は木刀を見つめた。
「なんか、じいちゃんの道場を思い出すんですよね」
「…………」
ハヤトは少しだけ目を細めた。
「……そうか」
それ以上、何も言わなかった。
優斗も、無理に話を続けようとはしなかった。
静かな道場に、外から吹く風の音だけが聞こえる。
不思議と、居心地の悪い沈黙ではなかった。
「……さて」
ハヤトが立ち上がった。
「続きをやるか」
「了解です!」
優斗も木刀を握り直し、立ち上がった。
再び、二人の木刀がぶつかり合う。
――カンッ!
――カンッ!
乾いた音が、静かな道場に響き渡った。
◇ ◇ ◇
「よし。今日はこれくらいにしよう」
ハヤトが時計へ目を向けた。
時刻は午後六時半。
「はぁ……はぁ……ありがとうございました……!」
優斗はその場に倒れ込んだ。
「やれやれ……」
ハヤトは呆れたように笑った。
「これから平日は、基本的にこのサイクルでやっていくからな。明日も朝五時だ」
「……わ、分かりました……」
「それと、もう一つ」
「……え? なんですか?」
ハヤトは、何でもないことのように言った。
「明日は上半身のトレーニングだ。楽しみにしておけ」
「…………」
優斗の表情が固まった。
「……上半身?」
「ああ」
「……今日、下半身が死んだんですけど」
「明日は腕も鍛えられるな」
「……最悪だ」
ハヤトは楽しそうに笑った。
「じゃあな。ゆっくり休めよ」
「……行きたくねえ……」
優斗の小さな呟きは、ハヤトには聞こえていないようだった。
◇ ◇ ◇
優斗は重い足を引きずりながら、寮へ戻った。
「ただいまぁ……」
返事はない。
どうやら、ルイはまだ帰ってきていないようだった。
「……あいつも頑張ってるんだろうな」
優斗は誰もいないリビングを見渡した。
朝から晩まで、身体を動かし続けた一日。
正直、もう何もしたくなかった。
「……風呂入って、飯食って、寝るか」
そう呟いて、自室へ向かおうとした。
しかし、ふと足を止める。
頭に浮かんだのは、夕方の道場で見たハヤトの剣だった。
無駄のない動き。
力強い一撃。
そして、何度打ち込んでも届かなかった、あの背中。
(……遠いな)
優斗は小さく笑った。
(でも……)
祖父に教わった剣術を、大切にしていいと言ってくれた。
自分の未熟さを認めたうえで、鍛えようとしてくれている。
何より――。
(……あの人から、もっと学びたい)
優斗はゆっくりと拳を握り締めた。
ルイも今頃、必死に頑張っているはずだ。
(……俺も、へばってられねえな)
明日の朝も、きっと地獄だろう。
それでも。
「……よし」
優斗は顔を上げた。
「明日も、頑張るか」
誰もいない部屋に、小さな声が響いた。
こうして、優斗の長く険しい修行の日々が始まった。




