すれ違う想い(後編)
「あっ、そういえば」
優斗は紅茶を飲みながら、ふと思い出した。
「教頭が『教科書を読んでみろ』って言ってたな」
「そういえば言ってたね」
ルイも思い出す。
「どういう意味なんだ?」
「さぁ? なんだろうね?」
「教頭のサインでも書いてるんじゃない?」
マリが言う。
「それだったら返品だよ……」
「失礼ですね」
「いらねえだろ、教頭のサイン」
優斗が立ち上がる。
「ちょっと教科書持ってくる」
「はーい」
優斗が自室へ向かう。
その背中を見送り、ルイがアンナを見る。
「アンナちゃんは、どうなるか知ってるの?」
「はい。知っていますよ」
「えっ、教えて!」
「嫌です」
「なんで!?」
「彼が驚く様子を見た方が愉快なので」
「あはは……」
ルイが苦笑する。
「相変わらず男の子に当たりきついね~」
マリがアンナの肩へ寄りかかる。
「まあ、そんなアンナが好きだけどね!」
「――っ」
アンナの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
しかし、すぐにいつもの無表情へ戻る。
「……ありがとうございます」
「?」
マリは何も気づいていない。
「よいしょ。お待たせ」
そこへ教科書を抱えた優斗が戻ってきた。
「……ん? 何かあったのか?」
「さっきね、アン――」
「なんでもありません」
アンナが即座に遮った。
「とっとと教科書を読んでみてください」
「え、なんでちょっと怒ってんの?」
「気のせいです」
「あはは……」
ルイだけが微妙な笑みを浮かべる。
「……まあいいか」
優斗は数冊の中から、一冊を手に取った。
「読むのは何でもいいんだよな」
表紙には――『魔力と身体の仕組み』。
「これにするか」
ページを開く。
「…………」
一ページ。
二ページ。
三ページ。
最初は普通に読み進めていた。
だが――。
「…………え?」
優斗の手が止まった。
「ん?」
ルイが首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや……」
優斗は教科書を見る。
もう一度、少し前のページへ戻る。
「なんだこれ……」
「何が?」
「初めて読む本だぞ?」
「うん」
「この世界の魔力なんて、昨日まで存在すら知らなかった」
「うん……?」
「なのに――」
優斗は自分の頭を押さえる。
「なんで、今まで当たり前に勉強してきたみたいに……周辺知識が頭にあるんだよ」
「え!?」
ルイが身を乗り出す。
「どういうこと!?」
「例えば……」
優斗は教科書の一節を見る。
そこに書かれている内容そのものは初めて読んだはずなのに、その内容を理解するために必要な基礎知識が、最初から頭の中に存在している。
しかも、それがどこで得た知識なのか思い出せない。
知らない。
けれど――知っている。
「気持ち悪っ……」
「それはですね」
アンナがようやく口を開いた。
「いきなり異世界へ召喚された人間に、『明日からこちらの生徒と同じ授業を受けてください』と言っても無理でしょう?」
「そりゃそうだな」
「ですので、本日の能力測定の際に、サーバントには知識補正の魔法が施されています」
「知識補正?」
「はい」
アンナは説明を続ける。
「教科書などを読んで学習を始めると、その内容を理解するために必要な基礎知識が呼び起こされる仕組みです」
「呼び起こされる……?」
「年齢や、その人自身の理解力に応じて、必要な知識が補われるんですよ」
「じゃあ……」
優斗は教科書を見る。
「この世界の学校で普通に勉強してたら身についてるはずの知識が、教科書を読むことで頭に浮かんでくるってことか?」
「大体その認識で構いません」
「すげえな……」
優斗は改めて教科書を見つめる。
見慣れない魔力の専門用語。
初めて目にする理論。
それなのに、文章を読み進めるための前提知識だけは、不思議と頭の中に揃っていた。
「ただし」
アンナが人差し指を立てる。
「補われるのは、あくまで授業内容を理解するための知識です」
「?」
「知っていることと、実際に使いこなせることは別ですから」
「……なるほど」
優斗は納得する。
魔力についての知識を得たからといって、突然魔法が使えるようになるわけではない。
そこには実際に魔力を扱う技術が必要になる。
「それと、一度に大量の知識を取り込もうとすると脳が疲労します」
「怖っ!」
「ですから、授業の進度に合わせて教科書を読んでいけば問題ありません」
「先に言えよ……」
「今言いました」
「読む前にだよ!」
「聞かなかったので」
「お前ら今日それ多くない!?」
ルイがくすくす笑う。
優斗は教科書を閉じ、紅茶を口にした。
「なんか……すげえ違和感だな」
「大丈夫?」
「ああ」
優斗は額を押さえる。
「なんか二時間くらいぶっ通しで勉強した気分だけど」
「へえ~」
マリが優斗を見る。
「優斗って勉強できたの?」
「まあ、嫌いじゃなかったよ」
優斗は何気なく答える。
「学校行ってた頃は、学年でもトップくらいだった」
「おお!」
マリの目が輝く。
「じゃあルイと一緒だ!」
「え?」
「ルイも勉強得意だよ! 去年の学術研究発表会でもいいところまでいってたしね!」
「ちょ、マリ!」
ルイが少し照れる。
「発表で緊張しちゃって、あんまり上手くできなかったんだから……」
「でも結果はよかったじゃん!」
「へえ……」
優斗はルイを見る。
そこで、昼間にルーナから聞いた話を思い出した。
「そうだ。ルーナからも学術研究発表のこと聞いた」
「ルーナ姉さんから?」
「ああ」
優斗は尋ねる。
「ルイは今年も出るのか?」
「うーん……」
ルイはカップを両手で包む。
「どうしようかな。まだ何も決めてない」
「そっか」
優斗は頷く。
昼間、ルーナに言った通り、まだ焦って決める必要はない。
けれど、もう一つ気になっていることがあった。
「じゃあ――」
優斗は少し身を乗り出した。
「魔法バトルランキング戦は?」
「…………」
ルイの表情が、わずかに曇った。
「あー……」
目を逸らす。
「そっちは……あんまり考えてないっていうか」
「そうなのか?」
「うん……」
「どうして?」
「なんでって……」
ルイは少し困ったように笑う。
「去年はサーバントもいなかったし……私、攻撃魔法も苦手だし」
「でも、今年は俺がいるだろ?」
「……うん」
「だったら、一緒に挑戦してみるのも面白いんじゃないか?」
優斗は軽い調子で言ったつもりだった。
しかし、ルイはカップへ視線を落としたまま、小さく首を振る。
「でも……」
「……でも?」
「自信、ないし……」
「…………」
優斗は黙ってルイを見る。
昨日、アレンたちの前で言い返した時の姿を思い出した。
あの時、ルイは確かに自分の意思で立ち上がった。
魔法が好きだという気持ちを、もう一度取り戻そうとしていた。
だからこそ、優斗にはもどかしかった。
「まだ何も始まってないじゃないか」
「……分かってるよ」
「それに、今すぐ出るって決めなくてもいいんだろ?」
「うん……」
「だったら――」
「でも、優斗」
ルイが顔を上げた。
「もし、また失敗したら……?」
「……え?」
「私、去年も召喚に失敗して……みんなに色々言われて……」
ルイの声が、少しずつ小さくなる。
「ランキング戦でも負けたら、また……」
その先は、言葉にならなかった。
優斗は唇を結ぶ。
ルイが怖がっていることは分かる。
それでも。
(……まだ、負けるって決まったわけじゃないだろ)
昨日まで魔法の存在すら知らなかった自分には、確かに分からないことが多い。
今日の能力測定だって、期待したような結果ではなかった。
それでも、可能性まで諦めたくはなかった。
何より、ルイにはもう一度、自分を信じてほしかった。
「……理由は、それだけ?」
「……え?」
ルイが顔を上げる。
「それだけって……どういう意味?」
「いや……」
優斗は少し迷った。
昼間は、焦らず考えればいいと思っていた。
今だって、その考えが変わったわけではない。
けれど、ルイが自分にはできないと決めつけるような言葉を重ねるたびに、胸の奥がざわついた。
昨日、あれほど勇気を振り絞って立ち上がったのに。
どうして、また自分を諦めようとするんだ。
「俺には、分かりやすく逃げてるように見える」
「……っ」
ルイの表情が固まった。
マリとアンナも黙る。
言葉にした瞬間、優斗自身も少し強く言いすぎたと思った。
だが、一度口にした言葉は戻らない。
「だってそうだろ?」
優斗は続けてしまう。
「みんなを見返す絶好のチャンスじゃないか」
「…………」
「それに今年は一人じゃない」
優斗は自分の胸を指差す。
「俺もいる」
「でも……」
「まだエントリー期間じゃないんだろ?」
優斗の声に、少しずつ熱が入っていく。
「今すぐ答えを出せって言ってるわけじゃない。ランキング戦だって年に二回ある」
「だったら――」
「たださ」
優斗はルイを真っ直ぐ見る。
「自分たちの可能性に、賭けてみようとは思わないのか?」
「そんなこと……!」
ルイの声が大きくなる。
「まあまあまあ!」
マリが慌てて二人の間へ割って入った。
「熱くなりなさんな! 二人とも!」
「…………」
「…………」
「優斗もさっき自分で言ったでしょ? まだ時間あるんだから!」
マリは優斗を見る。
「そんな言い方しなくてもいいじゃん」
「…………」
優斗は、ようやく口を閉じた。
ルイは俯いたまま、何も言わない。
その姿を見て、胸の奥が重くなる。
(……言い過ぎた)
ルイがどれだけ怖い思いをしてきたのか、自分はまだ全部を知っているわけではない。
それなのに、勝手に逃げていると決めつけた。
分かっている。
けれど、今の自分が何を言っても、また余計なことを口にしてしまいそうだった。
「……悪い」
優斗は立ち上がった。
「優斗……?」
ルイが顔を上げる。
優斗は一瞬だけ迷い、もう一度口を開いた。
「ただ……」
少しだけ言葉を探す。
「俺は、お前と出てみたい」
「……え?」
昨日、あの中庭で見たルイの姿。
自分の言葉で、アレンたちに立ち向かった姿。
そして、かつての彼女が残した数々の実績。
優斗は、それらを思い出していた。
ルイが本当はどれほど頑張れる人間なのか。
まだ出会って二日しか経っていない自分に、すべてが分かるはずはない。
それでも、あの時のルイを信じたかった。
「お前とランキング戦に出て――」
優斗は拳を握る。
「みんなを見返してやりたいって思ってる」
それだけ言うと、視線を逸らした。
「……それだけだ」
そのまま扉へ向かう。
「優斗――」
ルイが呼び止めようとした時には。
扉が閉まった。
「…………」
部屋に、静寂が落ちる。
「なんなのさ!」
最初に口を開いたのはマリだった。
「一緒に出たいなら、もっと言い方あるじゃん!」
頬を膨らませる。
「『逃げてる』なんて言われたら、誰だって嫌だよ!」
「そうですね」
アンナも淡々と頷く。
「本人は誘っているつもりなのでしょうが、あれでは責めているようにしか聞こえません」
「…………」
ルイは何も言わない。
「ルイ」
マリが心配そうに顔を覗き込む。
「無理してあいつの言うことなんて聞かなくていいからね?」
「……うん」
ルイは小さく笑った。
「ありがとう、二人とも……」
「よし!」
マリが突然立ち上がる。
「なんかムカついたら、お腹すいてきた!」
「さっきハンバーガーとパフェ食べたでしょう」
「怒るとカロリー使うの!」
「初耳です」
「ご飯食べに行こう!」
「私はまだ……お腹すいてないから」
ルイは首を横に振った。
「二人で先に行ってきて」
「ルイ……」
「大丈夫」
ルイは笑ってみせる。
「ちょっと一人で考えたいだけ」
「……分かった」
マリは少し心配そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
「あんまり考えすぎたらダメだよ」
「うん。ありがとう」
「では、また後で」
「うん」
二人が部屋を出ていく。
扉が閉まる。
「…………」
一人になったリビングは、急に広く感じた。
ルイはソファの上で膝を抱える。
『俺には、分かりやすく逃げてるように見える』
優斗の言葉が、頭から離れない。
「……そんなこと」
小さく呟く。
「私だって……」
強くなりたかった。
昔みたいに。
魔法が楽しくて仕方なかった頃みたいに。
褒められることが嬉しくて。
新しい魔法を覚えるたび、もっと先へ行きたいと思っていた。
そして――。
「姉さんたちみたいな……すごい魔法使いになりたいのに……」
ずっと、そう思っていたはずだった。
けれど今は。
ランキング戦に出る自分を想像するだけで、胸の奥がざわつく。
また失敗したら。
また笑われたら。
また――落ちこぼれだと言われたら。
昨日、優斗が助けてくれた。
自分のために怒ってくれた。
そのおかげで、もう一度頑張ってみようと思えた。
でも。
たった一日で、怖くなくなれるわけではない。
何度も傷ついてきた心は、そんなに簡単には元に戻らなかった。
「…………」
ルイは膝へ顔を埋めた。
優斗の言葉は、痛かった。
自分でも目を逸らしていたことを、真正面から突きつけられた気がした。
けれど、優斗にだって分かってほしかった。
挑戦したくないわけじゃない。
ただ――怖いのだ。
「私……どうしたいんだろ……」
答えは、出なかった。
ただ。
優斗の言葉だけが――いつまでも胸の奥に残っていた。




