昭和から来た新人歌手(1)
それは、アキトが取り仕切るダンスボーカルグループのオーディションが数日後に迫るある朝のことだった。
竹内コウが出勤すると筒井歌謡企画のエントランスに白い塊が転がっていた。
いや…よく見ると、白いマントを羽織り大きな皮のサイン帳を持ってうつ伏せに倒れている青年だった…。
不審者…?
コウが身構えると、青年は倒れたまま力なくつぶやいた。
「太平先生…」
10分後、白マントの青年は社長室のソファに寝かされていた。
「で…?…何で私のところに、この人を連れてきたのよ」
部屋の主であるひかるは咎めるようにコウを睨んだ。
「いや、僕も最初は不審者かと思ったんですが、太平先生のお名前をつぶやいてたので、ひかる社長が知ってる人かもしれないと思って…」
コウに促されて、ひかるは青年の顔を覗き込んだ。
短髪の黒髪、少し幼なげなく頬、スッと通った鼻筋…なかなかの男前ではある。
どこかで見たことがあるような…でも思い出せない…でも初めてじゃないような…
記憶の既知と未知の境界線のちょうど真ん中に絶妙に位置している顔だ。
「社長がご存知ない人ならば、やっぱり警察に届けますけど…」
考えあぐねているひかるにコウが声をかける。
「そうね、今週はアキトがやらかすオーディションの準備しなきゃならないし、この子に関わってる場合じゃないわよね」
「そうですよ、今週は忙しいんですから」
今週…?
その時、青年が二人のその言葉に反応するかのように、急にガバッとソファの上に立ち上がって叫んだ。
「今週の第10位!坂口シン!ちょっと待ってください!!」
…さらに10分後、白マントの青年は会議室の椅子に座らせられ、ひかるとコウに詰められていた。
「だから、俺はここ筒井歌謡企画所属のシンガー、坂口シンなんだってば!」
青年は、先ほどから同じことばかりを繰り返し主張し続けている。
「ここはたしかに筒井歌謡企画のオフィスだけど、あんたみたいな所属歌手、知らないわよ!」
青年のあまりの強情さにひかるの語気もつい荒くなる。
「そんなはずないですよ。ここは筒井太平先生の事務所でしょ?俺は間違いなく、ここの所属歌手です!」
青年の主張のあまりの揺るぎなさに、コウは次第に恐ろしさを覚え始めていた。
「この人…もしかして妄想に囚われた自称歌手のストーカーなんじゃ…」
「私も同じことを考えてたわ。歌手になりたくてオーディションを受けまくったけど落ちまくってノイローゼになって、こんな奇行に走った可哀想な子なのかも…」
「ですよね。うちの事務所に入りたいなら、ちゃんと研修生募集に応募すればいいのに…」
「おいおい…勝手に人を可哀想な子呼ばわりしないで下さいよ!」
二人が自分に向ける視線に次第に哀れみが帯びるようになったのに気づいた青年が、二人の勝手な想像を遮った。
「よし、わかった。じゃ、そこまで言うなら、とにかく俺の歌を聞いてください」
…そしてまた10分後、三人は事務所奥のレッスンスタジオにいた。
「こんな事してる場合じゃないんだけどな…」
訝しがるコウをよそに、青年はスタジオ奥に置かれたアップライトのピアノの前にどかっと腰かけ、イントロを奏で始めた。
ちょっと待ってください 早すぎる時間〜♪
思いの外、朗々とした青年の良い声に、コウは虚をつかれた。
明るくて伸びやかなテノールボイス。
耳に触れた途端、じんわりと心が温まる人なつっこい声…。
ほんのちょっと暮れる街の角に あなたがまだ佇んでいる…気がします〜♪
青年がゆっくりと歌い終わる。
しばし無言のコウとひかる。…が、ひかるが突然つぶやいた。
「ちょっと待ってください…」
「社長…?」
「ちょっと待ってください!」
突然、ひかるは走り出し、スタジオを出て行った。
社長までおかしくなっちゃったんだろうか…。
残されたコウはその場に呆然と立ち尽くすしかなかった。
ほどなく戻って来たヒカルの右手には、一枚のアナログのシングルレコードが携えられていた。
「あなた、坂口シンなの⁉︎」
「だから、さっきからそう言ってるじゃないですか」
「ホントにホントに坂口シンなの⁉︎」
ひかるは青年の両肩を掴み、ブンブンと揺さぶり始めた。
「社長!少し落ち着いてください!」
コウは慌ててひかるを青年から引き剥がし、そう諭した。
「社長までどうしちゃったんですか?」
「これを見て!」
ひかるは手に持ったドーナツ版のジャケットをコウに示した。
…⁉︎
コウは思わず目を見開いた。
そこには「ちょっと待ってください」というタイトルと、「坂口シン」という歌手名と一緒に目の前の青年が笑顔でプリントされていたのだ。
他人の空似と言うには、ジャケットで微笑む歌手の坂口シンと目の前の青年はあまりにも酷似し過ぎていた。
「パパから、昔、デビュー後に失踪した新人歌手がいたって聞いてたの。名前や顔はよく覚えてなかったけど、この曲のメロディは何となく覚えていたのよね」
ひかるが事態の説明を試みようとするも、コウは返す言葉が見つからない。
「ようやく俺が坂口シンだってわかってくれたんですね。遅い、遅いよ」
代わりに青年が再び話し始める。
「昔…とか失踪ってのがよくわかんないけど、俺がここの歌手だってわかってくれれば、まぁいいや。それより太平先生に会いたいな。地震で訳わからない事になっちゃったし」
「大平先生は昨年亡くなりました…」
「えっ⁉︎」
「太平先生は昨年、誤嚥性肺炎で亡くなりました」
「え…?」
コウが返した言葉に、今度は青年の表情が固まった。




