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冷たい微笑とかなわぬ願い(2)

令和…という元号には、やはりなかなか馴染めない…。

さっきも、コウから頼まれた経理のファイルの日付欄に昭和…と入力しかけて、慌てて修正したばかりだ。


ついこの前まで、昭和の世界で生きていたシンにとって、令和の筒井歌謡企画のオフィスは未知のものばかりで溢れている。

昭和の世界ではまだ出始めだったパソコンがすっかりオフィスワークの主力になっており、街行く人たちは皆スマホと呼ばれる携帯電話で通話やメッセージをやり取りするようになっていた。


そんな令和オンチなシンに、コウやひかるは根気強く丁寧にオフィスの機器の使い方を教えてくれた。

おかげで、日常業務に必要なファイル入力や保管などはかなり出来るようになってきた。


だが、昭和の歌手だったシンにとって、もっと興味深いのは、音楽を作り出すツールの変わりようだった。


筒井歌謡企画には、かつてシンと太平が一緒に仮歌のレコーディングに使っていた録音スタジオがあった。

かつてはマルチトラックのレコーディング機器にセットされた大きなリールテープが回っていたそのスタジオからは、もうそれらが撤去されており、代わりに幾つかの色とりどりの棒線状のトラックが写る大きなモニターが設置されている。


何でも、令和では歌の伴奏の音楽も、全てパソコンで作れてしまうそうだ。


シンがいつも仕事の合間に、興味深そうにスタジオを覗くので、エンジニアの美波タクが令和の音楽機材について色々と教えてくれるようになった。


「最近は、シーケンスソフトにAI機能が色々搭載されているので、ボーカルのピッチ補正や、バックトラックのリズムパートはもうほとんど人手がかからなくなってるよね…」


ボカロイドという歌詞を入力すると、機械が歌ってくれるソフトの存在も、シンには大きな驚きだった。


「今は作詞も作曲もAIで完結できちゃうし、今後は編曲もミックスもAIで完パケするのが普通になっていくだろうな」


エンジニアのタクにとっては、そんな時代の訪れは楽しみなのだろうが、歌手であるシンにとっては、あまり心中穏やかな話ではなかった。


「でも、作るのも機械、歌うのも機械…だと、人間がやる事なくなっちゃって、つまらなくなるんじゃないかな…」


シンは思った事を率直に声にしてみたが、タクはキョトンとした顔をするだけだ。


「いや…人間が自分自身が手動でやりたい工程は、今まで通り手動でやればいいんじゃね。そんで、面倒くせ〜と思う工程だけAIにやらせりゃいいんだと思う。そういう選択肢が増えて、成果物に早く辿り着けるようになったのは、いいことだと思うぞ」


「ふぅん…。そんなものかな…」

「シンって、若いのにPC音痴だし、時々、昭和のオヤジみたいな事言うよな」


タクは、神妙そうなシンの表情を見ながら、笑いかけた。


だって…俺は昭和生まれ昭和育ちだから…。

シンはそう言いかけて、言葉を呑んだ。


シンが、昭和からタイムスリップして来たかつての所属歌手であることは、ひかる社長とコウの三人だけの共有事項だったからだ。


これは秘密…というよりも、おそらく説明しても理解を寄せてくれる人が少ないだろう…というひかるの判断から、事務所のメンバーにはあえて説明しない…と三人で決めたことだった。


自分が昭和の世界からタイムスリップして来た事を、令和の人たちがにわかには信じないように、もしも、昭和の人たちに「40年後に音楽が全て機械作りになってる…」なんて話しても、きっと信じてもらえないんだろうな…。


シンがそんな事を考えていると、スタジオの入り口から自分を呼ぶ声がした。

振り向くと、コウだった。


「シン、ちょっといいかな」


コウが少し思い詰めたような表情をしていたので、シンはタクとの会話をすぐに打ち切り、スタジオ脇のミーティングスペースに移動した。


すると、コウはテーブルの上に大きなボードを広げ、その上にマジックペンを一本置いた。

「変なお願いなんだけど…ここに原色★歌謡曲図鑑のスタジオで書いた時と同じようにもう一度、サインしてみてくれる?」


「なんだ…そんな事か…。コウが厳しそうな顔してるから、何事かと思っちゃったよ」


シンは、自分が令和に来て以来、コウが自分を歌手として再デビューさせようと色々と心を砕いてくれているのを知っていた。

だが、事務所でアキトが別のプロジェクトを華々しく展開している今、それがなかなか難しいこともわかっていた。


でも…どこにも行き場のない自分に、こうして居場所を与えてくれているコウには、それだけで感謝しなくてはならない。


“ちょっと待ってください 坂口シン 1988.10.20“


シンは、差し出されたボードにスラスラとサインをして、コウに渡した。


「こんな俺のサイン、どうするの?どこかに40年前の俺のファンでもいた?なんちって…」

シンがおどけても、コウは硬い笑みを浮かべただけで、軽く礼をするとそのままスタジオを出て行った。


どうしたんだろう…。

シンはいつになくコウが元気ないのが気になった。


が、生真面目で思い詰めやすいコウの事だから、自分の知らないところで、何か他の仕事のトラブルを抱えてるのかもしれない…。


シンは、あまり気にしないように…と頭を振って、タクに頼まれていたスタジオの機器のコード類の整理に、そっと手を戻した。

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