第92話 比較
クロノスは黒板の前へ立つと、一本のチョークを手に取った。
さらさらと文字を書いていく。
――人間。
――有身精霊。
――精霊。
エリシアは不思議そうに首を傾げた。
「比較するんですか?」
クロノスは満足そうに頷く。
「うむ」
「研究とは、違いを知ることから始まる」
「人間が妖精を見る方法を探すなら、まずは『なぜ見えないのか』を知らねばならん」
そう言うと、クロノスは黒板に書かれた『有身精霊』の文字を指差した。
「まず訂正しておこう」
「妖精が見えるのは、竜族だけではない」
エリシアは驚いて目を丸くする。
「そうなんですか?」
「うむ」
「妖精を見ることができるのは、精霊眼を持つ者すべてじゃ」
クロノスは、新たに図を書き加えていく。
――精霊。
↓
――有身精霊。
↓
竜族 エルフ ドワーフ。
「この三種族は、人間ではない」
「分類学上は、有身精霊と呼ばれる存在じゃ」
「有身精霊……?」
「その名の通り、肉体を持った精霊じゃ」
その言葉を聞いた瞬間。
エリシアは、ふと目を瞬かせた。
――我々は、人ではない。
いつか。
父の膝の上で聞いた言葉が、脳裏に蘇る。
あの日。
エリシアは不思議に思ったのだ。
どうして竜族は、本来の巨大な竜の姿ではなく、人間と同じ姿をしているのだろう、と。
その問いに。
ゼノンは静かに答えた。
――我ら竜族も。
――エルフも。
――ドワーフも。
――その本質は、精霊の仲間なのだ。
「あっ……」
エリシアが小さく声を漏らす。
「どうした?」
「いえ……」
エリシアは黒板に書かれた文字を見つめた。
「前に、お父様から聞いたことがあるんです」
「ほう?」
「竜族も、エルフも、ドワーフも、人間ではなくて……精霊の仲間なんだって」
クロノスは満足そうに頷いた。
「その通りじゃ」
エリシアは、ようやく二つの話が一つにつながったような気がした。
あの時。
父が教えてくれたのは、このことだったのだ。
「お父様は……」
エリシアは、あの日の会話を思い出す。
――我らは人に憧れる。
――人として生まれることを、羨ましく思う。
強くて。
空を飛べて。
長い時を生きる竜族が。
なぜ、短い命しか持たない人間を羨ましく思うのか。
あの時のエリシアには、まだよく分からなかった。
けれど。
今、黒板に並ぶ三つの言葉を見て。
ほんの少しだけ、その意味が分かったような気がした。
人間。
有身精霊。
精霊。
似ているようで。
決して同じではない存在。
エリシアは、自分の小さな手を見つめた。
人間の手。
ゼノンとは違う。
セレーネとも。
ノクスとも。
アステリアとも。
クロノスとも。
自分は違う存在なのだ。
けれど。
エリシアは、もう寂しいとは思わなかった。
違っていても。
自分たちは家族なのだから。
「遥か昔」
クロノスの声に、エリシアは顔を上げた。
「精霊たちは人と共に生きることを望み、自ら肉体を得た」
「その子孫が、竜族、エルフ、ドワーフなのじゃ」
エリシアは真剣な表情で聞き入る。
クロノスは続けた。
「精霊とは、魔素の身体を持つ生命体」
「対して妖精は、魔粒子そのものを身体とする生命体じゃ」
エリシアは思わず呟く。
「魔粒子の……身体」
「そうじゃ」
「火の妖精は火の魔粒子」
「水の妖精は水の魔粒子」
「風の妖精は風の魔粒子」
「土の妖精は土の魔粒子」
「それぞれ自らと同じ属性の魔粒子を、本能的に導く性質を持っておる」
クロノスは今度は目の断面図を描いた。
「精霊は魔素の身体を持つ」
「故に、その眼もまた魔素で構成されておる」
「これを精霊眼という」
エリシアは静かに頷く。
「精霊眼……」
「精霊眼は、魔粒子そのものを知覚する眼じゃ」
「だからこそ、魔粒子で構成された妖精の姿も見ることができる」
エリシアは、ようやく納得した。
「だから……」
「竜族だけじゃなくて、エルフやドワーフも妖精が見えるんですね」
「その通りじゃ」
クロノスは、黒板に書かれた『人間』と『有身精霊』の文字をチョークで囲んだ。
「つまり、人間と有身精霊との決定的な違いの一つが、この精霊眼にある」
その言葉を聞いたエリシアは、静かに俯いた。
「じゃあ……」
「私は人間だから」
「精霊眼を持っていないんですね……」
少しだけ寂しそうな声だった。
クロノスは優しく微笑む。
「そう悲観することはない」
エリシアは顔を上げる。
「えっ?」
「確かに、人間は基本的に精霊眼を持たぬ」
「じゃが、ごく稀に例外が存在する」
クロノスは古い魔導書を開いた。
「歴史上、人間でありながら精霊眼を持って生まれた者は、僅かながら確認されておる」
「最も有名なのは、魔王ニコラスじゃ」
エリシアは息を呑む。
「魔王……」
「ニコラスは精霊眼を悪用し、妖精誘導法を歪め、禁忌たる闇魔法へと辿り着いた」
クロノスはさらにページをめくる。
「そして、もう一人」
「約百三十年前」
「ヴァイスラント帝国第九十九代皇妃」
「ミア・フォン・ヴァイスラント」
エリシアの目が輝く。
「その方も精霊眼を?」
「ああ」
「ミアは精霊眼で妖精を観察し、その行動原理を解き明かした」
「その研究は、魔法を扱えぬ者でも使用できる魔導暖房器具を生み出し、多くの民を極寒から救った」
クロノスは静かに魔導書を閉じる。
「同じ精霊眼でも」
「ニコラスは世界を滅ぼすために使い」
「ミアは世界を救うために使った」
「知識とは、使う者の心で善にも悪にもなる」
その言葉に。
エリシアは、再び父の言葉を思い出した。
――人は、善にもなれる。
――悪にもなれる。
――誰かを傷つけることもできれば。
――誰かを救うこともできる。
「あ……」
エリシアは小さく呟く。
ニコラスとミア。
二人とも人間だった。
二人とも精霊眼を持っていた。
けれど。
一人は、その力で世界を傷つけた。
一人は、その力で多くの人を救った。
同じ人間。
同じ力。
それでも。
選んだ道は、まるで違う。
(お父様が言っていたのは……)
(こういうことだったんだ)
力が、その者の価値を決めるのではない。
知識が、その者の善悪を決めるのでもない。
その力を何のために使うのか。
その知識で何を成すのか。
それを選ぶのは。
いつだって、その人自身なのだ。
エリシアは力強く頷いた。
「……はい」
クロノスは黒板へ大きく三つの項目を書いた。
――人間。
――有身精霊。
――精霊眼。
「比較するぞ」
「身体の構造」
「眼球の構造」
「視神経」
「魔力の流れ」
「魔素循環」
「違いを一つずつ洗い出していく」
魔法式。
人体図。
眼球の断面図。
黒板は瞬く間に数式と図で埋め尽くされていく。
クロノスの筆は止まらない。
「人間にも精霊眼が生まれるのなら」
「その原理を解明すれば」
「人為的に再現できる可能性もある」
エリシアの瞳へ、再び希望の光が宿る。
「それなら……」
「私も妖精が見えるようになるかもしれないんですね!」
クロノスは少年のように目を輝かせ、力強く頷いた。
「その可能性を証明する」
「それが、これからの研究じゃ!」
こうして。
一人の少女と一人の大魔導師は、人間と有身精霊の違いを解き明かすため、本格的な比較研究へと着手するのだった。




