第76話 もう逃げない
翌日。
エリシアは一人、黒竜城の訓練場を訪れていた。
朝の静かな訓練場。
壁際に並ぶ木剣を前に、小さな足が止まる。
しばらく見つめたあと。
エリシアはゆっくりと一本の木剣へ手を伸ばした。
その瞬間。
身体が小さく震える。
木の感触。
掌へ伝わる重み。
それだけで、胸の奥に閉じ込めていた記憶が蘇る。
兄に振り下ろされた木剣。
腕へ走る痛み。
肩へ走る痛み。
地下室。
暗闇。
涙。
恐怖。
それでも。
エリシアは木剣を離さなかった。
震える両手で、しっかりと握り締める。
その姿を見つけたゼノンは、静かに歩み寄った。
「エリシア」
少女はゆっくりと振り返る。
ゼノンは震える娘の手元を見つめ、穏やかな声で問い掛けた。
「本当にいいのか」
「無理をする必要はない」
「焦る必要もない」
「お前は、お前の歩幅で歩けばいい」
エリシアは木剣を見つめる。
怖い。
今すぐ手放したい。
逃げ出したい。
そんな気持ちは、まだ胸の中にあった。
それでも。
エリシアはゆっくりと首を横へ振る。
「違います」
小さな声。
けれど、その瞳には確かな決意が宿っていた。
「これは」
「私が決めたことです」
ゼノンは何も言わなかった。
ただ静かに、その決意を受け止める。
エリシアは木剣を握り直した。
震えは、まだ止まらない。
怖さも消えてはいない。
それでも。
もう逃げない。
この剣からも。
過去からも。
そして。
弱い自分自身からも。
その一歩は小さかった。
けれど。
それは間違いなく、未来へ踏み出した最初の一歩だった。




