第70話 壊れた笑顔
剣術の稽古も終盤を迎えていた。
ノクスは木剣を構え、優しく微笑む。
「最後に一本だけ、打ち合ってみよう」
「もちろん、本気ではやらない」
「安心して来なさい」
エリシアは笑顔で頷いた。
「……はい!」
ノクスはゆっくりと距離を取る。
静かに木剣を構えた。
その瞬間だった。
エリシアの身体が、小さく震えた。
目の前に立っているのは、ノクスのはずだった。
なのに。
その姿が、少しずつ別の誰かと重なっていく。
――『立つんだ、エリシア!』
――『悪い心に負けるな!』
兄、ジークハルト。
真っ直ぐ自分を見据える瞳。
木剣を握る両手。
ゆっくりと振り上げられる剣。
あの日と、同じだった。
呼吸が浅くなる。
鼓動が早まる。
視界が揺れる。
身体が動かない。
ノクスは異変に気付き、すぐに木剣を下ろした。
「エリシア?」
優しく声を掛ける。
しかし。
その声は届かなかった。
エリシアの意識は、完全に過去へ引き戻されていた。
――『泣くな!』
――『悪い心を追い出せ!』
何度も振り下ろされる木剣。
腕へ走る痛み。
肩へ走る痛み。
恐怖。
涙。
地下室。
冷たい石の床。
暗闇。
もう嫌だ。
もう痛いのは嫌だ。
「いや……」
エリシアは一歩、後ずさる。
「叩かないで……」
震える声が漏れた。
ノクスは慌てて木剣を放り投げる。
乾いた音を立てて、木剣が地面へ転がった。
「違う!」
「エリシア!」
「私は叩かない!」
「怖がらなくていい!」
必死に呼び掛ける。
それでも。
エリシアには何も聞こえていなかった。
涙が溢れる。
全身が震える。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい!」
「お願い!」
「叩かないで!」
「ごめんなさい!」
手から木剣が滑り落ちる。
乾いた音を立て、地面を転がった。
エリシアはその場へしゃがみ込み、小さな身体を抱き締めるように頭を守った。
「いや!」
「怖い!」
「ごめんなさい!」
「お願い!」
「叩かないで!」
泣き叫ぶ。
声が枯れるほど。
助けを求めるように。
謝り続ける。
その姿はまるで。
次の一撃が振り下ろされるのを、ただ耐えようとしている幼い少女そのものだった。
訓練場は静まり返る。
黒竜王ゼノン。
黒竜王妃セレーネ。
ノクス。
アステリア。
黒竜騎士たち。
誰一人として、言葉を発することができなかった。
理解が追い付かない。
だが、一つだけ。
誰の胸にも突き刺さるように伝わった。
この幼い少女は。
木剣を向けられただけで心が壊れてしまうほどの恐怖を。
家族と呼ぶべき誰かから受けてきたのだと。




