第64話 逆鱗
執務室は静まり返っていた。
エリシアは涙を流しながら、小さく肩を震わせている。
そんな少女を、黒竜王ゼノンは静かに見つめていた。
やがて。
ゆっくりと首元へ手を添える。
その瞬間。
漆黒の魔力が身体を包み込んだ。
首筋へ、一枚だけ鱗が浮かび上がる。
逆向きに生えた、一際美しい黒曜色の鱗。
エリシアは思わず息を呑んだ。
ゼノンは静かに語り始める。
「これは逆鱗」
「我ら竜族にとって、命そのものとも言える鱗だ」
「生涯に一枚しか持たぬ、力の源」
「これを他者へ託すことは」
「最大の敬意であり」
「最大の信頼を意味する」
エリシアは言葉を失う。
その意味の重さは、幼い彼女にも伝わった。
隣で見守っていた黒竜王妃セレーネの表情も強張る。
「あなた……」
ゼノンは静かに頷いた。
そして、逆鱗へ手を掛ける。
「お前が、それでも信じられぬというのなら」
「私は、この逆鱗を――」
「あなた!」
黒竜王妃セレーネが思わず声を上げた。
その瞬間だった。
「だめ!」
エリシアは泣きながらゼノンへ飛び付いた。
小さな両手でゼノンの腕を掴み、必死に首を横へ振る。
「お願い!」
「そんなことしちゃだめ!」
「痛いよ!」
「そんなことしないで!」
「お願いだから……!」
涙が次々と零れ落ちる。
ゼノンは静かに逆鱗から手を離した。
そして、優しくエリシアの頭を撫でる。
「……もう十分だ」
エリシアは涙で濡れた瞳を見上げた。
ゼノンは穏やかに微笑む。
「今のお前の言葉で分かった」
「お前は、私を信じ始めてくれている」
エリシアは声を詰まらせながら首を振る。
ゼノンは少女をそっと抱き寄せた。
「エリシア」
「お前は、私の子だ」
その一言だった。
エリシアの中で、長い間張り詰めていたものが音を立てて崩れていく。
父に捨てられた日から。
誰も信じられなくなっていた心。
その凍り付いた心が、少しずつ溶けていく。
エリシアはゼノンの胸へ顔を埋め、声を上げて泣いた。
黒竜王妃セレーネも静かに歩み寄り、二人を優しく抱きしめる。
どれほど泣いただろうか。
やがてエリシアは涙を拭い、ゆっくりと顔を上げる。
そして。
初めて、自分の意思でその名を呼んだ。
「……ゼノン様」
ゼノンは優しく微笑み、小さく頷く。
「ありがとう、エリシア」
その笑顔を見たエリシアもまた、涙を流しながら、小さく微笑んだ。




