第59話 初めての笑顔
黒竜城での暮らしが始まり、数日が過ぎた。
侍女は毎朝、笑顔で挨拶をする。
「おはようございます、エリシア様」
エリシアは小さく頭を下げる。
「ごめんなさい……」
廊下ですれ違う黒竜騎士は、穏やかに微笑む。
「今日も良い天気ですね」
「ごめんなさい……」
料理人は昼食を運びながら笑う。
「今日は焼きたてのパンですよ」
「たくさん召し上がってくださいね」
「ごめんなさい……」
医師は診察を終えると優しく声を掛けた。
「傷も少しずつ良くなっていますよ」
「ごめんなさい……」
誰も、謝ってほしいとは言わなかった。
それでも。
エリシアの口から出る言葉は、いつも同じだった。
「ごめんなさい」
◇
ある日の昼下がり。
一人の侍女が紅茶を運んでいた。
「失礼いたします――」
その時だった。
「きゃっ!」
手が滑る。
カチャカチャッ。
食器が音を立てる。
幸い、割れることはなかった。
侍女は慌ててしゃがみ込み、恥ずかしそうに笑う。
「ああ……」
「また失敗してしまいました」
その姿を見た瞬間。
エリシアは思わず、小さく笑った。
「……ふふっ」
しかし。
すぐに我に返る。
(笑っちゃだめ……!)
(私なんかが笑ったら……)
慌てて両手で口を押さえる。
身体が震える。
謝ろうと口を開いた、その時だった。
黒竜王妃セレーネが、優しく微笑む。
「笑っていいのよ」
エリシアはゆっくりと顔を上げた。
「笑うことは、悪いことじゃないわ」
「嬉しい時は、笑っていいの」
その優しい言葉に。
エリシアの瞳から、大粒の涙が溢れた。
ぽろり。
また一粒。
涙は止まらない。
それでも。
もう一度だけ。
「……ふふっ」
涙を流しながら、小さく笑う。
その笑顔を見て。
黒竜王妃セレーネも。
侍女も。
その場にいた竜人たちも、皆、優しく微笑んでいた。
地下室へ閉じ込められて以来。
エリシアは初めて。
心から笑うことができた。




