第58話 温かな食卓
その日の夕方。
黒竜王妃セレーネがエリシアの部屋を訪れた。
「エリシア」
「今日は、一緒に夕食をいただきましょう」
エリシアは目を丸くする。
「……私も?」
黒竜王妃セレーネは優しく微笑んだ。
「もちろんよ」
「さあ、行きましょう」
エリシアは戸惑いながらも、小さく頷いた。
黒竜城の食堂。
長い食卓には、夕食が並べられていた。
焼きたてのパン。
野菜たっぷりのスープ。
香草で味付けされた肉料理。
彩り豊かな温野菜。
決して豪華ではない。
辺境伯邸で並んでいた食事の方が、ずっと豪勢だった。
けれど。
どの料理からも温かな湯気が立ち上り、美味しそうな香りが部屋いっぱいに広がっている。
黒竜王ゼノンが静かに手を合わせた。
「いただきます」
黒竜王妃セレーネも続く。
「いただきます」
侍女や護衛の竜人たちも、穏やかな笑顔で手を合わせる。
エリシアも周囲を見回し、小さく真似をした。
「……いただきます」
食事が始まる。
「今日のスープも美味しいですね」
「料理長が朝から仕込んでいましたから」
「焼きたてのパンも絶品ですよ」
「おかわりもありますから、遠慮しないでくださいね」
他愛もない会話。
穏やかな笑い声。
誰もが自然に言葉を交わしながら食事を楽しんでいる。
その光景を見た瞬間。
エリシアの胸が締め付けられた。
脳裏へ蘇る。
薄暗い地下室。
一人きりの食卓。
冷え切ったスープ。
固くなったパン。
誰にも聞こえない「いただきます」。
誰にも返ってこない「ごちそうさま」。
いつも、一人だった。
ぽたり。
一粒の涙が皿へ落ちる。
「……ごめんなさい」
慌てて涙を拭う。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
食堂が静まり返る。
しかし。
誰も責めなかった。
誰も困った顔をしなかった。
黒竜王妃セレーネは静かに席を立つ。
エリシアの隣へ歩み寄ると、何も言わず、そっと背中へ手を添えた。
優しく。
ゆっくりと。
小さな背中を撫でる。
「泣いてもいいのよ」
その一言で。
エリシアの中に張り詰めていた糸が切れた。
涙が次々と溢れ出す。
声を殺しながら泣き続けるエリシアを、黒竜王妃セレーネはただ静かに抱き寄せた。
「ここでは、一人で食べなくていいの」
「ここでは、一人で泣かなくていいの」
その温かな言葉は。
凍り付いていた少女の心へ、少しずつ、少しずつ染み込んでいった。




