第56話 エリシア
翌日。
黒竜王ゼノンは再びエリシアの部屋を訪れた。
窓から差し込む朝日が、部屋を柔らかく照らしている。
エリシアはベッドへ腰掛け、小さく膝を抱えていた。
ゼノンは少女を驚かせないよう静かに歩み寄ると、昨日と同じように膝をつき、目線を合わせる。
「少し、話をしてもいいか」
エリシアは小さく頷いた。
しばらく穏やかな沈黙が流れる。
やがてゼノンは、優しく問い掛けた。
「お前の名を教えてくれるか」
その一言に、エリシアの身体が小さく震えた。
俯き、唇を噛む。
言おうとしても、声が出ない。
長い沈黙の末。
震える声で、ようやく口を開いた。
「……エリシア」
ゼノンは静かに頷く。
少女は勇気を振り絞るように続けた。
「エリシア・ヴァレンシュタイン……です」
ゼノンは柔らかく微笑んだ。
「そうか」
「エリシアというのか」
「良い名だ」
その言葉を聞いた瞬間。
エリシアの瞳が大きく揺れた。
脳裏に蘇る。
泣き崩れる母。
そして、自分へ向けられた冷たい言葉。
『あんたなんて産まなきゃよかった』
胸が締め付けられる。
あの日から。
自分の名前を呼ばれるたび、その言葉が蘇った。
だから。
自分の名前は、呪われた名前なのだと思っていた。
なのに。
目の前の黒竜王は、迷うことなく言った。
『良い名だ』
ぽたり。
一粒の涙が零れる。
ぽたり。
また一粒。
涙は止まらなかった。
「ご、ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
慌てて涙を拭う。
泣いてしまった。
迷惑を掛けてしまった。
そう思った。
しかし。
ゼノンは静かに首を横へ振る。
「謝ることではない」
穏やかな声だった。
「エリシア」
「その名は、お前が生まれた時に贈られた、世界でたった一つの名だ」
「私は、とても美しい名だと思う」
エリシアはゆっくりと顔を上げる。
黄金色の瞳は、まっすぐ自分を見つめていた。
そこには、憐れみも、恐れも、偽りもない。
ただ、優しさだけがあった。
エリシアはそっと胸へ手を当てる。
(私の……名前……)
生まれて初めて。
自分の名前を、美しいと言ってもらえた気がした。




