第49話 黒竜王夫妻
数日後。
エリシアの部屋を訪れたのは、黒竜王ゼノンと、その妃セレーネだった。
セレーネは穏やかな微笑みを浮かべ、エリシアと目線が合うよう静かに膝をつく。
ゼノンも少し距離を置き、落ち着いた声で話し掛けた。
「体調はどうだ」
エリシアは反射的に身体を縮める。
セレーネは優しく微笑んだ。
「安心して」
「誰もあなたを傷付けたりしないわ」
温かな声だった。
けれど。
エリシアの震えは止まらない。
ゼノンは穏やかに問い掛ける。
「名前を教えてくれるか」
長い沈黙。
やがて、小さな唇が震えた。
「……ごめんなさい」
返ってきたのは、その一言だけだった。
セレーネは悲しそうに目を伏せる。
「謝らなくていいのよ」
しかし。
エリシアは何度も頭を下げる。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい……」
ゼノンは少女を責めることなく、静かに続けた。
「黒曜山で何があった」
「誰がお前を、あそこへ置いていった」
その瞬間だった。
エリシアの瞳が大きく揺れる。
黒曜山。
馬車。
遠ざかる両親。
笑顔で手を振っていた自分。
胸の奥へ押し込めていた記憶が、一気に溢れ出した。
「違う……」
「違うの……」
涙が頬を伝う。
「私が悪いの……」
「私が悪い子だから……」
パチッ。
小さな火花が散る。
次の瞬間。
轟っ――!
突風が部屋を吹き抜ける。
机や椅子が揺れ、本棚の本が宙へ舞う。
火花は炎となり、部屋中へ飛び散った。
床が震え、水が宙へ浮かび上がる。
四属性の魔力が、恐怖に呼応するように暴走していた。
「やめて……」
エリシアは頭を抱えてしゃがみ込む。
「お願い……」
「やめて!」
「やめて!」
「止まってよ!!」
炎が弾ける。
風の刃が部屋を駆け抜ける。
鋭い風がセレーネの腕を掠めた。
白い肌が切れ、赤い血が滲む。
炎が袖を焦がし、熱が肌を焼く。
それでも。
セレーネは一歩も退かなかった。
「ごめんなさい!」
「傷付けちゃう!」
「お願いだから離れて!」
泣き叫ぶエリシアへ。
セレーネは迷うことなく駆け寄る。
そして。
その小さな身体を強く抱きしめた。
風が背中を切り裂く。
炎が肩を焼く。
それでも腕を緩めない。
まるで我が子を守る母親のように。
「大丈夫」
「もう大丈夫よ」
セレーネは何度も優しく語り掛ける。
「あなたは悪くない」
「怖かったわね」
「もう誰も、あなたを一人にはしない」
温かな腕。
優しく背中を撫でる手。
その温もりに包まれるたび。
荒れ狂っていた魔力は、少しずつ静まっていく。
やがて。
部屋は静寂を取り戻した。
エリシアは涙で濡れた瞳を開く。
目の前には。
傷付きながらも、自分を抱きしめ続けるセレーネの姿があった。
「どうして……」
「傷付いたのに……」
セレーネは涙を浮かべながら、優しく微笑む。
「あなたを守りたかったからよ」
そして。
耳元で静かに囁いた。
「もう謝らなくていいのよ」
その言葉に。
エリシアは涙で濡れた瞳をゆっくりと上げる。
「……え?」
謝らなくていい。
その意味が分からなかった。
生まれてから今日まで。
誰一人として。
自分を守るために傷付いてくれた人など、いなかったのだから。




