第48話 ごめんなさい
翌朝。
部屋の扉が静かに開いた。
一人の侍女が、朝食を運んでくる。
木の盆の上には、焼きたてのパン。
温かな野菜のスープ。
卵料理。
そして、小さな果物が添えられていた。
決して豪華な食事ではない。
辺境伯邸で暮らしていた頃の食卓と比べれば、ずっと質素だった。
それでも。
湯気の立つスープは温かく。
焼きたてのパンは、香ばしい匂いを漂わせている。
侍女は机へ料理を並べると、優しく微笑んだ。
「温かいうちに召し上がってください」
その一言に。
エリシアは戸惑った。
こんなふうに優しく声を掛けられたのは、いつ以来だっただろう。
思わず立ち上がり、深く頭を下げる。
「ごめんなさい……」
侍女は目を丸くした。
「え?」
「ごめんなさい……」
それ以上、言葉は続かなかった。
侍女は困ったように微笑むと、小さく一礼し、部屋を後にした。
◇
黒竜城で過ごすうちに。
エリシアは、一つのことに気付いた。
あの日。
黒曜山で自分を助けてくれた黒竜は、目の前で人の姿へ変わった。
夜空のような黒髪。
黄金色の瞳。
そして。
自分を抱き上げてくれた、温かな腕。
けれど。
人の姿をしているのは、あの黒竜だけではなかった。
黒竜城で暮らす竜族たちは、皆、人と同じ姿をしていた。
人と同じように食事をし。
人と同じように働き。
人と同じように言葉を交わし。
人と同じように笑い合っている。
エリシアは、不思議に思った。
(どうして……?)
(どうして竜なのに、人の姿をしているんだろう……)
黒曜山で初めて黒竜が人の姿へ変わった時にも、同じ疑問を抱いた。
けれど。
あの時は、寒さと空腹で意識も朦朧としていて、それ以上考える余裕などなかった。
今は違う。
侍女も。
医師も。
廊下ですれ違う竜人たちも。
皆、人と同じ姿をしている。
どうしてなのだろう。
気にはなった。
けれど。
誰かに尋ねる勇気は、まだなかった。
それ以上に。
エリシアには、分からないことがあった。
誰一人として。
恐ろしい魔物には見えなかった。
それどころか。
皆、とても優しかった。
その優しさが。
エリシアには怖かった。
どうして、こんなに優しくしてくれるの。
何か理由があるのかな。
あとで食べられちゃうのかな。
そんなことばかり考えてしまう。
◇
その夜。
眠っているエリシアへ、一人の侍女がそっと毛布を掛けた。
その温もりで、エリシアはゆっくりと目を覚ます。
肩へ掛けられた毛布を見つめ、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい……」
侍女は優しく首を横へ振る。
「謝ることではありませんよ」
しかし。
エリシアは何度も頭を下げ続ける。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
◇
翌日。
黒竜城付きの医師が診察へ訪れた。
「少し診せてもらうね」
医師は優しく声を掛け、エリシアの袖をそっとまくる。
その瞬間。
医師の表情が固まった。
白い肌には、新しい青紫色の痣。
黄色く薄れ始めた痣。
消えかけた古い痣。
幾重にも重なった打撲の跡が、小さな腕を覆っていた。
肩にも。
背中にも。
細い脚にも。
同じような痣が残されている。
一度や二度ではない。
何か月もの間、繰り返し暴力を受け続けた者だけが残す傷だった。
医師は言葉を失う。
胸が締め付けられた。
それでも何も言わず、震える腕へ優しく薬を塗っていく。
「少し冷たいけれど、すぐ終わるからね」
エリシアは小さく頷く。
「ごめんなさい……」
医師の手が止まる。
「痛かったかな?」
エリシアは首を横へ振った。
「違うの……」
「ごめんなさい……」
その言葉しか出てこなかった。
◇
数日後。
黒竜城では、一人の少女のことが話題になっていた。
「食事を運んでも謝るそうだ」
「毛布を掛けても謝る」
「診察をしても謝る」
「誰かと目が合うだけでも謝るらしい」
竜人たちは互いに顔を見合わせる。
誰も叱ってはいない。
誰も怒鳴ってはいない。
誰も傷つけてもいない。
それなのに。
少女は何かをしてもらうたび、深く頭を下げる。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
その言葉だけを繰り返す。
そして。
全身へ残された無数の痣。
新しいもの。
治りかけたもの。
消えかけたもの。
それらは、少女が長い間、誰にも助けてもらえなかったことを静かに物語っていた。
一人の老臣が静かに目を伏せる。
「……この子は」
「これまで、どれほど過酷な日々を生きてきたのだろうな」
その場にいた誰も。
答えることはできなかった。




