第45話 黒い影
夜。
黒曜山には、冷たい風が吹き荒れていた。
エリシアは小さな毛布に身体を包み、岩陰で膝を抱えていた。
昼から、何も食べていない。
身体はすっかり冷え切り、指先の感覚も薄れている。
寒さと空腹。
そして、押し寄せる眠気。
意識は、もう朦朧としていた。
「お父さま……」
「お母さま……」
返事はない。
迎えも来ない。
分かっている。
もう、誰も来ないことくらい。
それでも。
心のどこかで、まだ信じていた。
もしかしたら。
もう少し待っていれば。
お父様が。
お母様が。
お兄様や、お姉様たちが。
迎えに来てくれるのではないかと。
「ごめんなさい……」
小さく呟いた。
その時だった。
バサァッ!!
凄まじい風が、黒曜山を吹き抜ける。
木々が大きく揺れ、枝葉が激しく音を立てた。
「……?」
エリシアは、ゆっくりと顔を上げる。
夜空を覆うほど巨大な黒い影。
月明かりを遮る、大きな翼。
闇の中で黄金色に輝く瞳。
そして。
漆黒の鱗に覆われた、巨大な身体。
黒竜だった。
「……食べられる」
震える声で呟く。
怖い。
けれど。
もう、逃げる力すら残っていなかった。
エリシアは静かに目を閉じる。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
最後まで。
少女の口から零れたのは、謝罪の言葉だった。
その時。
黒竜の身体が、淡い黒色の光に包まれた。
「……?」
エリシアは、薄く目を開く。
巨大な身体が光に溶けていく。
大きな翼も。
鋭い爪も。
漆黒の鱗も。
やがて光は、ゆっくりと人の形を作り始めた。
そして。
一人の青年が姿を現す。
夜空のように美しい黒髪。
黄金色の瞳。
整った顔立ち。
漆黒の衣を纏ったその姿は、息を呑むほど美しかった。
エリシアは、ぼんやりと青年を見つめる。
(人の……姿?)
先ほどまで。
確かに、巨大な黒竜だったはずなのに。
どうして。
竜が、人間と同じ姿をしているのだろう。
そんな小さな疑問が、朦朧とした意識の中に浮かぶ。
けれど。
今のエリシアには、それ以上考える力など残されていなかった。
青年は、驚いたように目を見開く。
「……人の子?」
そして。
すぐに、その表情が険しくなった。
「どうして、こんな場所にいる」
痩せ細った身体。
泥だらけの服。
泣き腫らした赤い瞳。
冷え切った小さな手。
青年は、一瞬で異変を察した。
ゆっくりとエリシアの前へ膝をつく。
「もう大丈夫だ」
低く、穏やかな声だった。
その声には。
恐ろしさなど、微塵もなかった。
青年は、まるで壊れ物へ触れるように。
そっとエリシアを抱き上げた。
「……あ」
温かい。
その腕は。
驚くほど、温かかった。
エリシアは、ぼんやりと青年の顔を見つめる。
「……あれ?」
竜なのに。
怖くない。
優しい。
聞いていた話と、全然違う。
人間たちは言っていた。
竜は恐ろしいと。
人を襲うのだと。
決して近づいてはいけない存在なのだと。
でも。
この人は。
自分を食べなかった。
傷つけなかった。
それどころか。
こんなにも優しく、抱きしめてくれている。
その温もりを感じた瞬間。
ずっと張り詰めていた心が、ぷつりと切れた。
安心したように、瞼が閉じていく。
青年は腕の中の少女を見つめる。
そして。
優しく微笑み、小さく呟いた。
「よく、生きていてくれた」
その言葉を最後に。
エリシアの意識は、静かに闇の中へ溶けていった。




