第39話 噂
地下室での暮らしが始まってから、しばらくが過ぎた。
ヴァレンシュタイン辺境伯家には、毎日のように商人や職人、納入業者たちが出入りしていた。
食料を運ぶ商人。
薪を届ける業者。
屋敷を修繕する職人。
彼らは仕事を終えると、何気ない世間話を交わしていた。
「そういえば」
「最近、末のお嬢様を見掛けないな」
一人の商人が首を傾げる。
「ああ」
「なんでも地下室へ閉じ込められているらしい」
その言葉に、周囲の者たちが驚いた。
「地下室?」
「病気か何かか?」
一人の職人が声を潜める。
「いや……」
「魔法らしい」
「魔法?」
「末のお嬢様、とんでもない魔法を持っているんだとか」
皆が顔を見合わせる。
「しかも全属性魔法らしいぞ」
「全属性……?」
その場の空気が一変した。
「そんな馬鹿な」
「全属性なんて聞いたことがないぞ」
年配の商人が神妙な顔で口を開く。
「昔、祖父から聞いた話だが……」
「約百五十年前に大聖女ミュゲ様が討ち倒した魔王ニコラスも、全属性魔法の使い手だったそうだ」
誰も言葉を発せない。
重苦しい沈黙が流れる。
やがて、一人がぽつりと呟いた。
「じゃあ……」
「末のお嬢様は……」
誰もその続きを口にはしなかった。
しかし。
皆の頭には、同じ言葉が浮かんでいた。
――魔王の子。
別の商人が小さく息を吐く。
「辺境伯様も苦渋の決断だったんだろうな」
「家族を守るために、地下室へ閉じ込めたらしい」
「辺境伯様もお辛いだろう」
「領地を預かるお立場だからな」
誰も疑わなかった。
誰一人として真実を確かめようとはしなかった。
その話は屋敷を出た後も続く。
市場で。
酒場で。
井戸端で。
噂は人から人へ伝わり。
語られるたびに尾ひれが付き。
やがて事実と噂の境界は曖昧になっていった。
「ヴァレンシュタイン辺境伯家には、魔王の子がいる」
その言葉だけが独り歩きを始める。
そして。
噂は瞬く間に、領内中へ広がっていくのだった。




