第38話 笑えない
地下室での暮らしが始まってから、しばらくが過ぎた。
ある日の夜。
エリシアは部屋の隅に置かれた小さな鏡の前へ立っていた。
鏡を見るたびに思い出す。
昔、お母さまが優しく言ってくれた言葉。
「エリシア」
「笑っているあなたが、一番可愛いわ」
その言葉が嬉しかった。
だから、どんな時でも笑顔でいようと決めた。
きっと笑っていれば。
また昔みたいに、お父さまたちは笑ってくれる。
そう信じていた。
エリシアは鏡へ向かって、小さく口角を上げる。
「えへへ……」
鏡の中の少女も笑っていた。
けれど。
その笑顔は、とてもぎこちなかった。
今にも泣き出しそうな笑顔。
「違う……」
エリシアは涙を拭う。
「もっと上手に笑わなきゃ」
もう一度。
「えへへ……」
駄目だった。
笑おうとするたびに、胸が苦しくなる。
唇が震える。
目の奥が熱くなる。
そして。
ぽろり、と涙が頬を伝った。
「どうして……?」
何度も何度も涙を拭う。
それでも涙は止まらない。
「笑ってれば……」
「いい子にしてれば……」
「みんな、また笑ってくれると思ったのに……」
もう一度だけ。
鏡へ向かって笑ってみる。
「えへへ……」
やっぱり笑えない。
涙だけが、ぽろぽろと零れ落ちていく。
エリシアは鏡へそっと触れた。
映っているのは、小さな女の子。
昔は、いつも笑っていた女の子。
今は。
泣いている顔しか映っていなかった。
「ごめんなさい……」
小さく呟く。
その言葉だけが、静かな地下室へ溶けていく。
その日を境に。
エリシアは、自分から笑うことがなくなった。
幼い少女の笑顔は。
誰にも気付かれることなく、静かに消えていった。




