第36話 ごめんなさい
地下室での生活が始まってから、一週間が過ぎた。
ある夜。
寝室で、エレオノーラは静かに口を開いた。
「あなた……」
「あの子が可哀想よ」
「まだ五歳なの」
「ずっと地下室で暮らさせるなんて……」
その声は震えていた。
アルフレッドは目を閉じたまま、しばらく何も答えない。
長い沈黙の末、小さく息を吐いた。
「……分かった」
エレオノーラが顔を上げる。
「休日だけだ」
「休日だけは地下室の外へ出してやろう」
その言葉に、エレオノーラは僅かに安堵する。
しかし。
アルフレッドは厳しい表情のまま続けた。
「だが、甘やかしてはならない」
「必要以上に言葉を交わすな」
「情に流されれば、あの子のためにならない」
「……これも、あの子を守るためだ」
その声は、父親としての苦しみに満ちていた。
エレオノーラは何も言えず、小さく頷いた。
◇
休日の朝。
地下室の扉が開く。
「今日は、お庭へ出ても構いません」
侍女の言葉を聞いた瞬間、エリシアの表情がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「ありがとう!」
久しぶりに地下室の外へ出られる。
もしかしたら。
お父さまたちが許してくれたのかもしれない。
また昔みたいに、一緒に笑えるのかもしれない。
そんな小さな希望を胸に、エリシアは庭へ向かった。
庭では、アルフレッドたち家族が穏やかな時間を過ごしていた。
その姿を見つけたエリシアは、嬉しそうに駆け寄る。
「お父さま!」
アルフレッドは一瞬だけエリシアを見る。
しかし、何も言わず静かに目を逸らした。
エリシアの笑顔が少しだけ曇る。
「お母さま」
エレオノーラは唇を噛み締める。
返事をしたい。
抱きしめたい。
けれど、アルフレッドとの約束が頭をよぎる。
俯いたまま、何も言えなかった。
「お兄ちゃん!」
ジークハルトも返事をしない。
「お姉ちゃん!」
セレスティアも。
リリアーナも。
誰一人、言葉を返さなかった。
静かな沈黙だけが流れる。
エリシアは戸惑いながら、小さく頭を下げる。
「……ごめんなさい」
返事はない。
もう一度。
「ごめんなさい」
それでも誰も答えない。
エリシアは寂しそうに笑った。
「きっと……」
「また聞こえなかったんだよね」
その日を境に。
少女の言葉は少しずつ変わっていった。
朝。
侍女を見掛ける。
「ごめんなさい」
廊下ですれ違う父へ。
「ごめんなさい」
庭で母を見掛けても。
「ごめんなさい」
兄姉と目が合っても。
「ごめんなさい」
返事は返ってこない。
何度謝っても。
誰も振り向いてはくれない。
いつしか。
「おはようございます」は消えた。
「ありがとうございます」も。
「おやすみなさい」も。
一つずつ。
静かに。
少女の言葉は失われていく。
残った言葉は、たった一つだけ。
「ごめんなさい」
それは、謝るための言葉ではなかった。
自分がここにいてもいいと、許してもらうためだけの言葉になってしまっていた。




