第32話 魔王の子
「ジークハルト!」
エレオノーラの悲鳴が、中庭へ響き渡った。
アルフレッドはすぐさま倒れた長男を抱き起こす。
風の刃によって服は裂け、頬や腕、肩には無数の傷が刻まれていた。
「父上……」
「喋るな」
「すぐに医師を呼べ!」
アルフレッドの怒声に、使用人たちが慌ただしく動き始める。
エレオノーラも息子の傍らへ膝をつき、その身体を抱き寄せた。
「ジークハルト!」
「しっかりして!」
「お母さま……」
「僕は……大丈夫です」
「どこが大丈夫なの!」
エレオノーラの瞳から、涙が零れ落ちる。
「こんなに血が……」
震える手で。
傷ついた息子の頬へ触れる。
その傍らで。
エリシアは、一人立ち尽くしていた。
誰も。
自分を見ていなかった。
「違うの……」
小さな声が零れる。
「私……」
「そんなつもりじゃなかったの……」
兄を傷つけたかったわけではない。
ただ、怖かった。
木剣を振り上げられて。
また殴られると思って。
怖くて。
怖くて。
もう嫌だと願っただけだった。
けれど。
エリシアの目の前には、傷だらけになった兄がいる。
だから。
やっぱり、自分が悪いのだと思った。
「お兄ちゃん……」
一歩。
小さな足を前へ出す。
「ごめんなさい……」
もう一歩。
「ごめんなさい……」
しかし。
ジークハルトの身体が、僅かに強張った。
その目に浮かんでいたものを見て。
エリシアは足を止めた。
恐怖だった。
大好きだった兄が。
自分を恐れている。
「……ごめんなさい」
エリシアは俯いた。
それでも。
今は誰かに抱きしめてほしかった。
怖かった。
悲しかった。
自分でも、何が起きたのか分からなかった。
だから。
エリシアは母を見た。
「お母さま……」
泣きながら。
ゆっくりと近付いていく。
「ごめんなさい……」
「もうしないから……」
「ちゃんと、いい子にするから……」
エレオノーラが顔を上げる。
エリシアは震えながら、小さな両手を伸ばした。
「だから……」
抱きしめてほしかった。
頭を撫でてほしかった。
昔のように。
『大丈夫よ』
そう言ってほしかった。
けれど。
「いやっ!」
パシッ――。
乾いた音が響いた。
エレオノーラは反射的に、娘の手を振り払っていた。
静寂。
エリシアは動かなかった。
ただ。
振り払われた自分の手を、じっと見つめていた。
「あ……」
エレオノーラの唇が震える。
違う。
こんなことをするつもりではなかった。
ただ。
傷だらけのジークハルトを見て。
怖くなった。
娘から溢れ出した、あまりにも強大な力が。
ほんの一瞬。
恐ろしくなってしまった。
「エリシア……」
エレオノーラが手を伸ばす。
「違うの……」
けれど。
その手は、娘へ届かなかった。
「お母さま……」
エリシアが顔を上げる。
涙で濡れた赤い瞳。
それでも。
母を責めることはなかった。
「私……」
震える声で尋ねる。
「もう、触っちゃいけないんだね……」
「違う!」
エレオノーラは叫んだ。
「違うの、エリシア!」
違う。
そんなことを言いたいのではない。
本当は抱きしめたい。
昔のように。
大切な娘として。
けれど。
視界の端に、傷だらけのジークハルトが映る。
血に濡れた頬。
裂けた服。
恐怖に強張った表情。
そして。
アルフレッドの言葉が脳裏をよぎった。
――魔王の子。
恐怖。
混乱。
絶望。
罪悪感。
あらゆる感情が、エレオノーラの中で渦巻いていた。
そして。
決して口にしてはいけない言葉が。
零れ落ちた。
「あんたなんて……」
エリシアが母を見つめる。
「あんたなんて……」
やめて。
心の中では、そう叫んでいた。
言ってはいけない。
それだけは。
絶対に。
けれど。
「あんたなんて、産まなきゃよかった!!」
その瞬間。
世界から音が消えた。
エリシアは動かなかった。
泣きもしなかった。
ただ。
母を見つめていた。
「……」
そして。
ゆっくりと。
ぎこちなく口元を動かす。
「えへへ……」
笑おうとした。
いつものように。
いい子でいれば大丈夫。
笑っていれば嫌われない。
泣いたら迷惑を掛けるから。
だから。
笑わなきゃ。
「……えへへ」
けれど。
最後まで笑顔にはならなかった。
ぽろり。
大粒の涙が頬を伝う。
それを皮切りに。
次から次へと、涙が零れ落ちた。
「……ごめんなさい」
エリシアは小さく頭を下げる。
「私……」
声が震える。
「産まれてきて、ごめんなさい……」
「エリシア……!」
エレオノーラの顔から血の気が引いた。
違う。
そんなことを言わせたかったわけではない。
けれど。
もう遅かった。
エリシアは、ゆっくりと背を向ける。
小さな背中。
細い腕。
木剣で打たれ続け、服の下にはいくつもの痣が残っている。
けれど。
誰も。
その背中を呼び止めることができなかった。
アルフレッドは拳を強く握り締めたまま、俯いている。
ジークハルトは青ざめた顔で、妹の背中を見つめていた。
セレスティアも。
リリアーナも。
何も言えなかった。
そして。
エレオノーラは、震える自分の右手を見つめていた。
娘が生まれた日。
初めて、その小さな手に触れた。
夜泣きをすれば抱き上げた。
熱を出せば、一晩中そばにいた。
転んで泣けば、頭を撫でた。
ずっと。
この手で守ってきたはずだった。
その手で。
今日。
自分は娘を拒絶した。
「私は……」
声にならない。
「私は、何てことを……」
答える者はいなかった。
ただ。
遠ざかっていく、小さな足音だけが響いていた。
この日。
エリシアは母に拒絶された。
けれど。
エレオノーラもまた、知らなかった。
たった今、自分が口にした言葉が。
やがて娘を本当に失う、その始まりになることを。
そして。
この日から。
エリシアの心の中に、一つの疑問が生まれた。
――私は、本当に生まれてきてよかったの?
その問いに。
誰も答えてはくれなかった。
少なくとも。
まだ、この家には。




