第31話 暴発
それから。
しばらくの間。
ジークハルトは毎日のように、エリシアを中庭へ連れ出した。
「悪い心を追い出すんだ」
「お兄ちゃんが助けてやるからな」
そう言って。
木剣を振るった。
「いたっ!」
木剣が、小さな腕を打つ。
「やめて……」
「痛いよ、お兄ちゃん……」
「我慢するんだ」
もう一度。
木剣が振り下ろされる。
「痛いっ!」
「悪い心に負けるな!」
「お前は、本当は優しい子なんだ!」
腕を。
肩を。
背中を。
木剣が何度も打った。
最初の頃。
エリシアは泣きながら訴えていた。
「私、悪い子じゃないもん……」
「悪い心なんていないもん……」
けれど。
ジークハルトは信じなかった。
「分かってる」
「悪いのは、お前じゃない」
「お前の中にいる悪い心だ」
「だから、お兄ちゃんが追い出してやる」
ジークハルトは、本気だった。
妹を苦しめているつもりなどなかった。
むしろ。
自分が妹を救っているのだと信じていた。
だからこそ。
エリシアが泣いても。
痛いと訴えても。
やめてと懇願しても。
木剣を置くことはなかった。
やがて。
エリシアは、何も言わなくなった。
ただ。
木剣が振り上げられるたびに、ぎゅっと目を閉じる。
痛みに耐え。
涙を堪え。
終わるのを待つ。
腕には青紫色の痣が増えた。
肩にも。
背中にも。
細い脚にも。
新しい痣の隣には、黄色く薄れ始めた古い痣が残っていた。
それでも。
エリシアは兄を嫌いになれなかった。
大好きだったから。
昔は優しかった。
頭を撫でてくれた。
一緒に遊んでくれた。
転んだ時には、手を差し伸べてくれた。
だから。
いつか。
また昔のお兄ちゃんに戻ってくれるかもしれない。
そう信じていた。
けれど。
その日も。
ジークハルトは木剣を構えていた。
「立つんだ、エリシア」
「悪い心に負けるな」
エリシアは地面に座り込んだまま、涙を流して首を横へ振る。
「違う……」
「私、悪い子じゃないもん……」
小さな声で。
必死に訴える。
けれど。
ジークハルトは首を横へ振った。
「分かってる」
「悪いのは、お前じゃない」
「お前の中にいる悪い心だ」
「だから、お兄ちゃんが追い出してやる」
一歩。
また一歩。
木剣を手にした兄が近付いてくる。
エリシアは恐怖で後ずさった。
「やだ……」
「もう、やだ……」
「怖いよ、お兄ちゃん……」
涙で前が見えない。
逃げようとして足がもつれ、その場へ尻もちをつく。
もう逃げられない。
ジークハルトは木剣を振り上げる。
エリシアの身体が、びくりと震えた。
また殴られる。
痛い。
怖い。
嫌だ。
もう嫌だ。
「負けるな!」
「悪い心を追い出すんだ!」
「いやああぁっ!!」
その瞬間だった。
エリシアの身体から、膨大な魔力が溢れ出した。
ゴォッ――!!
激しい突風が中庭を駆け抜ける。
木々が大きく揺れ、砂埃が舞い上がる。
「なっ……!」
ジークハルトは咄嗟に木剣で身を守ろうとする。
しかし。
風は鋭い刃となり、容赦なく襲い掛かった。
ビシッ!
ビシッ!
服が裂ける。
頬。
腕。
肩。
全身へ鋭い傷が走り、鮮血が飛び散った。
「ぐあっ!」
ジークハルトは吹き飛ばされ、地面へ倒れ込む。
木剣が乾いた音を立てて転がった。
中庭は静寂に包まれる。
「お、お兄ちゃん……?」
エリシアは呆然と立ち尽くしていた。
震える両手を見る。
「ち、違う……」
「私じゃない……」
涙が次々と溢れ出す。
「そんなつもりじゃなかったの……!」
慌てて駆け寄ろうとする。
しかし。
「来るな!!」
ジークハルトの叫び声が響いた。
エリシアの足が止まる。
兄は傷だらけの身体を押さえながら、恐怖に満ちた目で妹を見つめていた。
「やっぱり……」
「やっぱり、お前の魔法は危険なんだ……」
その言葉は、幼いエリシアの胸を深く突き刺した。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……!」
何度も。
何度も頭を下げる。
涙で視界が滲む。
殴られていたのは、自分なのに。
痛かったのは、自分なのに。
怖くて。
逃げたくて。
ただ、もうやめてほしかっただけなのに。
それでもエリシアは、自分が悪いのだと思った。
自分の中に、本当に悪い心があるから。
だから。
大好きだった兄を傷つけてしまったのだと。
その時。
騒ぎを聞きつけたアルフレッドとエレオノーラ、使用人たちが中庭へ駆け込んできた。
「ジークハルト!」
傷だらけの息子を見たエレオノーラが悲鳴を上げる。
アルフレッドは、すぐにジークハルトを抱き起こした。
「父上……」
「エリシアが……」
その言葉を聞いたアルフレッドの表情が凍り付く。
一方。
エリシアは、その場に立ち尽くしたまま、小さく震えていた。
「違うの……」
「私……」
「そんなつもりじゃ……」
けれど。
誰もエリシアを見なかった。
誰も。
その小さな腕に残る痣を見ようとはしなかった。
新しい痣。
治りかけた痣。
消えかけた古い痣。
何度も木剣で打たれた、小さな身体。
それでも。
誰一人として。
「痛かったね」
そう言ってくれる者はいなかった。
幼い少女は、その日初めて知る。
恐怖は。
また新たな恐怖を生み出してしまうことを。
そして。
自分を守るために溢れ出した力さえも。
この家では、自分を責める理由になるのだということを。




