第9話 放課後、一緒に帰るのが当たり前になりそうで怖い
第一章の最後で、わたしはひとつ、あまり認めたくないことを認めてしまった。
明日の朝、玲奈がまた隣に来るのを、少しだけ待っている自分がいたこと。
それはたぶん、かなり大きな変化だった。
だって、ほんの少し前までのわたしは、毎日をなるべく静かにやり過ごすことしか考えていなかったのだ。誰かに特別扱いされることも、誰かの隣が自分にとって特別になることも、どっちも縁のない話だと思っていた。
なのに今は、朝、教室の扉を開ける前に玲奈のことを考えている。
それだけで、もう十分おかしい。
そして、おかしいまま始まった月曜日の朝、玲奈はやっぱりわたしの席へ来た。
「おはよう、ましろ」
「……おはよう」
「なんか今、ちょっとだけ待ってたでしょ」
「待ってない」
「早い否定だなあ」
「聞かれる前から否定する準備してたわけじゃないし」
「でも顔」
「最近ほんとにそればっかり言うね」
玲奈は笑って、わたしの机の端に指先を軽く置いた。
それだけの動作なのに、もうそれが朝の風景みたいになってきていることが悔しい。
だって最初の頃は、玲奈が近づいてくるたびに「なんで!?」で頭がいっぱいだった。今だって完全に慣れたわけではないけれど、少なくとも“ありえないこと”ではなくなってきている。
それが、落ち着かない。
「今日、放課後どうする?」
玲奈が何気ない調子で聞いた。
その一言に、わたしは一瞬だけ言葉に詰まる。
放課後。
玲奈にそう聞かれると、最近、その時間まで少し意味が変わってしまう。
前までは授業が終わったら、そのまま帰るか、たまに図書室に寄るか、そのくらいだった。けれど今は、放課後に誰と話すか、誰と帰るか、途中で誰に会うか、そういうことが少しずつ心に引っかかるようになっている。
それ自体が、平穏じゃない。
「……まだ決めてない」
「そっか」
「一ノ瀬さんは?」
「わたしは決めてる」
「え」
「できれば、ましろと一緒に帰りたい」
さらっと言う。
さらっと言うのに、その一言がしっかり残る。
「そういうの軽く言わないで」
「軽くないって」
「そこが余計にだめなの」
「じゃあ重く言った方がいい?」
「なんでそういう二択になるの……」
玲奈はくすくす笑う。
ほんとうに、こういうときのこの人はずるい。こっちは一言一言の重みを勝手に受け取って振り回されているのに、玲奈はその先で楽しそうにしている。
……いや、楽しそうなだけじゃないのかもしれない、と最近は少し思う。
わたしが答えに困るのも、照れるのも、ちゃんとわかったうえで、玲奈はそれでも近づいてくる。
それをわかってしまうと、さらに困る。
その日の授業は、月曜日らしくどこか重たかった。
数学、現代文、化学、英語。ノートを取りながらも、休み時間のたびに玲奈が来て、昼休みには当然みたいに一緒にお弁当を食べる。
教室の中でそうしていることには、もうだいぶ慣れてきてしまった。
慣れたくなかったのに。
「今日、ミニトマト二個入ってる」
玲奈がわたしのお弁当を見て言う。
「うん」
「昨日は一個だった」
「なんでそんなところまで覚えてるの」
「見てるから」
「その返し便利すぎる」
「でもほんとだよ」
ほんとうに見ているから困るのだ。
わたしだって、玲奈のお弁当の中身が最近なんとなくわかるようになってきてしまった。たとえば今日はハンバーグが入っているとか、デザートに小さなゼリーがあるとか、そういうどうでもいいことまで目に入る。
それを自覚したくなくて、わたしはご飯をひと口食べた。
お昼のあと、廊下ですれ違ったこはるに「先輩、今日も一緒なんですね!」とにこにこ言われ、放課後にはみおから「最近ほんと毎日楽しそうだね」とメッセージが来た。
楽しい、のかと聞かれたら、即答は難しい。
でも、退屈じゃないのは確かだった。
そして、その“退屈じゃなさ”の中心に玲奈がいることも、たぶんもう否定できなかった。
六時間目が終わって、放課後。
教室の空気がいっせいにほどける。部活に急ぐ子、友達と話し込む子、机に突っ伏してひと息つく子。それぞれの放課後が、教室のあちこちで動き始める。
わたしも鞄を持って立ち上がる。
今日はまっすぐ帰ろうかな、と思っていた。図書室に寄る気分でもないし、月曜日の疲れがまだ少し残っている。
そう思ったその瞬間、予想どおりの声がした。
「ましろ」
「……うん」
「今日、帰れる?」
「聞き方」
「大事なことだから」
「大事なんだ」
「大事だよ」
そんな顔で言わないでほしい。
玲奈は自分の鞄を肩にかけたまま、当たり前みたいにわたしの横へ並ぶ。その動きがあまりにも自然で、周りの何人かがもう特に驚きもしないのが、最近の一番こわいところだった。
最初の頃はざわざわされていたのに、今では「そういうもの」として受け入れられつつある気がする。
それはつまり、わたしと玲奈が一緒にいることが、少しずつ日常の景色になっているということだ。
それが、こわい。
でも、完全に嫌だとは言い切れない。
「……途中までなら」
わたしが小さく言うと、
「うん」
玲奈はものすごく素直にうれしそうな顔をした。
その表情を見るたびに思う。
この人は、どうしてこんなに“わたしに肯定されること”を喜べるんだろう。
わたしは別に、すごく特別なことをしているわけじゃない。ただ、一緒に帰るのを断っていないだけだ。
それだけなのに、玲奈は毎回、ちゃんと選ばれたみたいな顔をする。
そんなふうにされると、こっちまでその選択に意味があったみたいに思えてしまう。
二人で昇降口へ向かう。
外はもう夕方の光で、校舎の端が少しだけ金色に見えた。春の匂いがする。風はやわらかくて、歩いているだけなら気持ちのいい時間帯だ。
「今日、どこまで?」
玲奈が聞く。
「どこまで、って」
「まっすぐ帰る? それとも少し寄り道する?」
「寄り道?」
「コンビニとか」
「……そんな気軽な感じで言うんだ」
「気軽だよ?」
「わたしにとってはそこまで気軽じゃない」
「そうなの?」
「学校帰りに誰かと寄り道とか、あんまりしないし」
「へえ」
玲奈は少しだけ目を丸くした。
「じゃあ、わたしが最初かも」
「何が」
「放課後に一緒に寄り道する相手」
「……」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあ決まり」
やっぱり早い。
玲奈はほんとうに、決まるまでが早い。
断りきれない空気を作るのが上手いのか、わたしが押しに弱いだけなのか、最近ではその両方な気がしている。
校門を出て、駅と反対側の角を少し曲がったところに小さなコンビニがある。通学路からほんの少しだけ外れる場所だ。
玲奈はそこへ迷いなく入っていった。
わたしも仕方なく続く。
自動ドアが開くと、冷房の少しひんやりした空気と、独特の明るい匂いがふわっと流れてきた。放課後のコンビニには、同じ制服を着た生徒が何人かいて、部活帰りらしい男子もいた。
なんだかそれだけで、少し現実感が薄くなる。
教室の中の玲奈と、こういう場所にいる玲奈は、同じなのに少し違って見える。
「なに買う?」
「え、そんなに買う前提なの」
「せっかく寄ったんだし」
「……飲み物くらい」
「じゃあわたし、アイス見たい」
「一ノ瀬さん、甘いもの好きだね」
「好き。ましろは?」
「普通」
「その“普通”ってたぶん好き寄りだよね」
「なんで」
「嫌いなら普通って言わないから」
なんでそんな細かいところまで拾うんだろう。
玲奈はアイスの棚の前でしゃがみ込み、いくつかの商品を見比べていた。わたしも隣に立って、なんとなく冷ケースの中を見る。
色とりどりのパッケージ。バニラ、チョコ、抹茶、フルーツ系。
「ましろって、苦いの苦手そう」
玲奈が急に言う。
「急だね」
「だって抹茶系の前で一回止まって、でもすぐ視線外したから」
「……見すぎでしょ」
「見てるもん」
「それもう開き直ってるよね」
「うん」
玲奈は平然としていた。
「でも甘すぎるのは、意外といけそう」
「それもなんで」
「なんとなく。やさしい味好きそう」
「またそういう、わかったようなこと言う」
「当たってる?」
「……半分くらい」
「やっぱり」
楽しそうだ。
わたしは結局、小さなカフェオレを取った。玲奈はアイスとレモン炭酸を持って、レジに向かう。
わたしが自分の分を出そうとすると、玲奈が先に二つまとめて差し出した。
「ちょっと」
「いいよ」
「よくない」
「じゃあ今度なんか奢って」
「そういう問題じゃなくて」
「じゃあ、今日付き合ってくれたお礼」
「別に、付き合わされた感じだけど」
「でも来てくれた」
その一言がまっすぐで、結局それ以上強く言えなかった。
外に出ると、夕方の風が少しだけ冷たくなっていた。コンビニの前には小さなベンチが二つあって、そこに座って飲み物を開けることにする。
制服のまま、学校帰りにコンビニの前で並んで座る。
ほんの少し前までのわたしなら、そんな状況を想像もしなかった。
玲奈はアイスの蓋を開けながら、横目でわたしを見た。
「なんか変な顔してる」
「どんな顔」
「不思議そうな顔」
「……まあ、少しは」
「こういうの初めて?」
「かなり」
「そっか」
玲奈はそれ以上からかうことなく、少しだけうれしそうに笑った。
その笑い方が、いつもの軽い感じとは少し違う。もっと静かで、ちゃんと大事にしてるみたいな顔。
だから、余計に落ち着かない。
「一ノ瀬さんって」
「うん?」
「ほんとに、こういうの普通なんだ」
「寄り道するのは普通だよ」
「わたしにとっては普通じゃない」
「じゃあ、これから普通になるかもね」
「……」
それは、かなり強い言い方だと思う。
これから普通になる。
つまり、これからも一緒に寄り道する未来を、玲奈は当たり前みたいに想像しているということだ。
「そんな簡単に言わないで」
「簡単じゃないよ」
「じゃあ余計に困る」
「困るの?」
「……少し」
「嫌?」
「そこは聞かないで」
玲奈は小さく笑って、アイスをひと口食べた。
「でもね」
「なに」
「教室より、外のましろの方がやわらかい気がする」
「……やわらかい?」
「うん。教室だとずっとちょっと警戒してるでしょ」
「それは……」
「わかるよ」
「わかるんだ」
「だって、教室だと見られてる感じ気にしてるし」
図星だった。
わたしが黙ると、玲奈は責めるでもなく、ただ当然みたいに続ける。
「でも今は、ちょっとだけ楽そう」
「それは」
カフェオレの缶を見ながら、わたしは言う。
「……一ノ瀬さんといると、疲れるから」
「ひどいなあ」
「最後まで聞いて」
「うん」
「疲れるけど、その……」
言いづらい。
ものすごく言いづらい。
「……嫌な疲れじゃない、というか」
「うん」
「ずっと一人でいるのとは違う感じで、落ち着かないだけ」
「それ、わりと嬉しいかも」
「なんで」
「嫌じゃないってことでしょ?」
そういう受け取り方をされると困る。
困るけれど、違うとも言い切れない。
玲奈は炭酸の缶を軽く振ってから開けて、しゅわっと小さな音を立てた。
「わたしさ」
「うん」
「もっと、こういうの増やしたい」
「……こういうの?」
「放課後、一緒に帰ったり、少し寄り道したり」
「そんなに?」
「うん」
迷いのない答えだった。
「だって、教室で一緒にいるのも好きだけど」
玲奈は缶を持ったまま、少しだけ空を見た。
「放課後の方が、ましろのことちゃんと見れる気がする」
「それ以上見なくていいと思う」
「なんで?」
「心臓に悪い」
「わたしの?」
「わたしの!」
玲奈は声を立てて笑った。
ほんとうに楽しそうだ。
わたしはそれを見ながら、ちょっとだけ悔しくなる。こっちはこんなに振り回されているのに、玲奈は余裕がある。
でも、その余裕に助けられている部分があるのも事実だった。
玲奈がこんなふうに明るくいてくれるから、わたしはまだ、全部を重く受け止めすぎずに済んでいる。
それがなくなったら、たぶん、もっと簡単に息が詰まってしまう。
「……増やしたいって」
わたしは小さく繰り返す。
「うん」
「そんな簡単に言って、わたしが断ったらどうするの」
「へこむ」
「正直だね」
「でも、たぶんまた誘う」
「それだめじゃん」
「だめ?」
「押しが強い」
「知ってる」
知ってるんだ。
最近、そればっかりだ。
でも、知っててやってるならなおさらだめな気もするし、なのにまったく嫌いになれないのもだめだと思う。
ベンチを立つ頃には、空はすっかり夕方の色になっていた。
帰り道をまた並んで歩く。
コンビニに寄っただけなのに、ほんの少しだけ、一日が長くなった気がした。
そして、その“少しだけ長くなった放課後”を、わたしは思っていた以上に悪くないと思ってしまっていた。
「また来ようね」
玲奈が言う。
「……まだ来る前提なんだ」
「だめ?」
「……だめじゃないけど」
「じゃあ決まり」
「ほんとに決めるの早いね」
「だって迷う必要ないし」
「わたしにはあるよ」
「でも、来てくれるんでしょ?」
「それは……」
はっきり答えられない。
けれど、否定もしない。
その沈黙を、玲奈はたぶん都合よく受け取った。うれしそうに笑う。
「今度はもっと遠くまで寄り道したい」
「遠くって」
「本屋とか、カフェとか」
「ハードルが一気に上がった」
「大丈夫。ましろならそのうち慣れる」
「何に」
「わたしとの放課後に」
「……そういう言い方やめて」
「やめない」
夕方の風が、制服の裾を揺らした。
わたしは歩きながら、ちょっとだけ考える。
こうして一緒に帰るのも、コンビニに寄るのも、少し前までは全部“特別な出来事”だった。
でも、このまま回数を重ねたら。
今日みたいな放課後が、もっと増えたら。
それはいつか、“珍しいこと”じゃなくなってしまうんだろうか。
玲奈と一緒に帰ること。
少し寄り道すること。
当たり前みたいに隣に並ぶこと。
それが、日常になる。
想像しただけで少し怖い。
怖いのに、どこかでそれを嫌だと思いきれない自分がいる。
「……やっぱり平穏って、遠い」
「ん?」
「なんでもない」
「また難しいこと考えてる」
「一ノ瀬さんのせい」
「それならちょっとうれしい」
「最近その返し多い」
「だってほんとだもん」
玲奈はそう言って、またうれしそうに笑った。
その顔を見て、わたしはため息をつく。
でも、そのため息は、前より少しだけやわらかいものになっていた。




