第10話 後輩は、先輩との下校イベントを諦めない
放課後という時間が、少しずつ落ち着かないものになってきている。
その事実を、わたしは最近ようやく認め始めていた。
前までは、授業が終われば一日もほとんど終わりだった。あとは帰るだけ。図書室に寄る日がたまにあるくらいで、特別な何かが起きる時間ではなかった。
でも今は違う。
放課後になると、玲奈が来るかもしれない。
一緒に帰る流れになるかもしれない。
こはるがどこかから現れるかもしれない。
みおや冬華先輩に会う可能性だってある。
そういう“かもしれない”が、最近のわたしの放課後には多すぎる。
しかも厄介なことに、そのどれもが完全に嫌ではない。
それが一番、平穏じゃなかった。
その日の朝も、いつも通り玲奈はわたしの席に来た。
「おはよう、ましろ」
「おはよう」
「今日はちょっと機嫌いい?」
「そう見える?」
「うん。昨日コンビニ寄れたからかなって」
「……そういう決めつけ方しないで」
「当たってる?」
「半分くらい」
「やっぱり」
最近、玲奈は“やっぱり”が多い。
わたしの反応を勝手に予測して、勝手に当てて、勝手に満足そうにする。
こっちはそれにいちいち振り回されているのに、玲奈の方は楽しそうだからずるい。
「今日の放課後は?」
また聞かれる。
「まだ決めてない」
「そっか」
「一ノ瀬さんは?」
「今日もできれば一緒がいい」
「毎回そう言うね」
「だって毎回そう思ってるし」
「……」
「今の、ちょっと照れた?」
「照れてない」
「間があった」
「最近ほんと細かい」
玲奈はくすくす笑う。
こういう朝のやりとりも、もうかなり“日常”に近づいている気がして、わたしは少しだけ怖くなる。
怖いのに、それがなくなるのを想像すると少し変な気分になる。
自分でもかなり面倒な状態だと思う。
午前中の授業は特に何事もなく過ぎた。
昼休みは、もちろん玲奈が一緒だった。最近はもう前の席を反転させる動作まであまりにもスムーズで、見ているこっちが複雑になるくらいだ。
「今日、なんか甘いもの食べたい」
玲奈が言う。
「お昼食べてるのに?」
「食べてるからだよ」
「意味わからない」
「ましろは?」
「今は別に」
「じゃあ放課後、なんか買いに行こっか」
「またそんな軽く」
「軽くじゃないよ」
「じゃあ重く誘ってるの?」
「ちょっとだけ」
「……そういうの、返しに困る」
返しに困ることばかり言う。
けれど、困るだけで終わらないのが最近の問題だった。
玲奈に“放課後”と言われるだけで、頭のどこかがその時間のことを意識してしまう。帰る支度をするとき、玲奈が来るかもしれないと思ってしまう。昇降口に向かうとき、隣に誰が並ぶか少しだけ気にしてしまう。
それはもう、かなりまずい。
そう思いながら迎えた放課後。
六時間目の終わりのチャイムが鳴り、教室のあちこちで椅子を引く音がした。部活に向かう子たちが早めに立ち上がり、残る子たちもそれぞれ帰り支度を始める。
わたしも鞄を持ち上げた、そのときだった。
「小日向先輩!」
教室の後ろ扉の向こうから、元気のいい声が飛んできた。
……ああ、来た。
まだ振り向く前からわかる。この勢いのある、まっすぐで、少し高めの声はこはるだ。
案の定、廊下には朝比奈こはるが立っていた。一年生の制服のまま、ぴしっと背筋を伸ばしているくせに、目だけがすごく期待に満ちている。
「こんにちは!」
「……こんにちは」
「今、帰りですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
こはるが首を傾げる。
その仕草がいちいち小動物っぽい。だから余計に油断すると押し切られるのだ、この子は。
「まだちゃんと決めてないだけ」
「じゃあ、ちょうどよかったです!」
目を輝かせて言い切られて、わたしは少したじろいだ。
「なにが」
「わたし、今日は早く部活終わったので、駅まで一緒に帰れたらなって思ってて」
「え」
「だめですか?」
まっすぐすぎる。
お願いの仕方が、あまりにも真正面だ。遠慮がないわけではない。むしろちゃんと遠慮しているのに、そのうえで気持ちだけは全力でぶつけてくる。
だから断りづらい。
そして、そのタイミングが悪かった。
「駅まで?」
背後から玲奈の声がした。
わたしは反射的に肩を揺らしてしまった。
振り向くと、玲奈がすでに近くまで来ていた。鞄を持って、笑っている。笑っているのに、目だけ少しだけ細い。
この感じ、最近少しわかるようになってしまった。
玲奈が不機嫌というほどではないけれど、少しだけ気になるものに反応しているときの顔だ。
「一ノ瀬先輩!」
こはるはぺこっと頭を下げた。
「こんにちは」
「こんにちは、こはるちゃん」
玲奈はにこやかに返す。
「駅まで一緒なんだ?」
「い、いえ、まだお願いしたところで……」
「へえ」
“へえ”の温度が少し低い。
いや、低いと言うと語弊があるかもしれない。やわらかいままなのに、ちゃんと情報を受け取って、そこから考えている“へえ”だった。
空気が少しだけ張る。
ただし、こはるはその張り方にあまり気づいていない顔をしていた。玲奈は玲奈で、にこにこしているから外から見ると何事もないようにしか見えない。
つまり、この妙な居心地の悪さを感じているのは、たぶんわたしだけだ。
「ましろ、今日は駅まで?」
玲奈がわたしに聞く。
「え、まあ、そのつもりではあったけど」
「そっか」
「一ノ瀬さんは?」
「わたしも同じ方向だよ」
「……だよね」
知ってる。
なのにわざわざ聞いてしまうあたり、わたしもだいぶ落ち着いていない。
こはるがその会話を聞いて、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、途中まで一緒ですね!」
「そうなるね」
玲奈が笑う。
「よかったです!」
こはるも笑う。
そこでなぜ玲奈まで笑顔を維持できるのか、わたしにはよくわからない。もっとこう、やりづらそうな空気になるのかと思ったのに、玲奈は想像以上に余裕があるように見えた。
でも、その余裕が本物かどうかは別問題だ。
三人で昇降口へ向かう。
廊下を歩く並び順すら少し困る。自然にいけば玲奈がわたしの隣に来るし、こはるもできれば隣を取りたそうにしているのがわかる。
結果として、わたしが真ん中になった。
落ち着かない。
「先輩、今日の授業どうでした?」
こはるがすぐに話しかけてくる。
「どう、って普通かな」
「化学、難しくなかったですか?」
「難しかった」
「ですよね! わたし、一年なのに化学基礎の時点で不安で」
「それはまだ大丈夫じゃない?」
「でも先輩も難しいなら安心です!」
「安心の仕方が変」
「えへへ」
こはるはほんとうに楽しそうだ。
しかも、話しかけるたびに少しだけ身体ごとこっちを向く。そのせいで距離が近い。玲奈とは違って、こはるの近さはもっと無邪気で、深く考えないまま懐に入ってくる感じがする。
それがまた危ない。
「こはるちゃん、今日部活早かったんだ」
玲奈が横から聞く。
「はい! 文芸部なんですけど、今日はミーティングだけだったので!」
「へえ、文芸部」
「はい。本読むの好きなので」
「知ってる。図書室で会ったんだよね?」
「そうなんです!」
こはるはうれしそうにうなずいた。
「小日向先輩、本の話ちゃんとしてくれるからすごくうれしくて」
「ちゃんとって」
「だって、わたしの周りだと“へえー”で終わる子も多いので……」
「それはわかるかも」
玲奈が言う。
「ましろ、好きな話ならちゃんと返してくれるよね」
「なんでそこで一ノ瀬さんも得意そうなの」
「だって知ってるし」
「……」
「今の“知ってるし”って、ちょっといいですね……」
こはるがぽつりと呟く。
「なにが?」
わたしが聞くと、
「なんか、距離が近いなって」
こはるはあっさり答えた。
やめてほしい。
わたしの頭の中でなんとなく誤魔化していたものを、そんなふうに言葉にしないでほしい。
「そ、そう見える?」
「見えます!」
こはるはきっぱり言った。
「だって自然にお互いのことわかってる感じするので」
「へえ」
玲奈が少しだけうれしそうにする。
「うれしそうにしないで」
「でも褒められた」
「褒めてるつもりでした!」
こはるが元気よく補足した。
やっぱりこの子は強い。
しかも悪気ゼロなのがさらに強い。玲奈みたいに空気を読んだうえで踏み込むのではなく、純粋に思ったことを言っているだけだから、なおさら対応に困る。
校門を出て、駅へ向かう道を三人で歩く。
春の夕方の道は、帰宅する制服姿の生徒や買い物帰りの人でほどほどに賑わっていた。歩道の横には低い植え込みが続いていて、風に葉先が揺れている。
こはるは歩幅を合わせるように少し早足でついてくる。
「先輩、今日図書室寄らなかったんですか?」
「うん、今日はそのまま帰ろうかなって」
「そっかぁ……」
「何その残念そうな声」
「ちょっとだけ、また会えたらいいなって思ってたので」
「……」
「でも今会えたからいいです!」
切り替えが早い。
そして、その言葉選びがやっぱりまっすぐすぎる。
玲奈が横で小さく笑った。
「こはるちゃんって、思ってることすぐ言うね」
「え、だめですか?」
「だめじゃないよ」
「よかったです!」
「ただ、強いなって思っただけ」
「強い?」
「うん。普通、もう少し隠すかも」
「そうなんですか?」
「そういう人も多いと思う」
「へえ……」
こはるは少しだけ考える顔をしたあと、すぐにうなずいた。
「でも、わたしは先輩と話したいので」
「……っ」
「だから、たぶん隠せないです」
わたしは思わず足元を見た。
そういうことを正面から言われると、本当に反応に困る。困るのに、言われた方はちゃんと意味を受け取ってしまうから、余計に処理が追いつかない。
玲奈は一拍置いてから、やわらかく笑った。
「やっぱり強い」
「そうですか?」
「うん」
そのやり取りの間、わたしだけが変に息苦しい。
なんだろう、この感じ。
別に険悪ではない。むしろ会話は平和だし、玲奈もこはるも笑っている。なのに、“平和なだけではない何か”が薄く混ざっている気がする。
駅前が見えてくるころ、こはるがふいに言った。
「先輩」
「なに?」
「また見かけたら、一緒に帰ってもいいですか?」
「え」
立ち止まりそうになったのをなんとかこらえる。
また。
しかも、“見かけたら”という条件つきの自然さで言うのがずるい。
「その、迷惑じゃなければ……」
こはるは少しだけ声を落とす。
「部活の時間とかいろいろあるので、毎回は無理ですけど、たまたま会えた日とか」
「……」
「一緒に帰れたら、うれしいです」
やっぱり強い。
そして、この子はちゃんと“うれしい”を口にする。
わたしは少し迷ってから、こはるの顔を見た。期待と不安が半分ずつ混ざったような顔で、でも目だけはまっすぐにこっちを見ている。
そこで強く断れるほど、わたしは器用じゃない。
「……うん、別に」
「ほんとですか!」
「たまたま会ったときなら、ね」
「はいっ!」
こはるはぱっと顔を明るくした。
その喜び方が、本当に全身でうれしいと言っているみたいで、つられてこっちまで少し笑いそうになる。
「やった……!」
こはるは小さくガッツポーズまでした。
「そんなに?」
「そんなにです!」
「……そっか」
「はい!」
玲奈がその様子を見て、少しだけ苦笑するように肩をすくめた。
「ましろ、人気出てきたね」
「それ、前にも言ってた」
「今日のはちょっと本気」
「人気なのは一ノ瀬さんでしょ」
「でも今、こはるちゃんすごかったし」
「すみません、すごかったです!」
こはるが元気よく名乗り出る。
「認めるんだ」
「だって本当にうれしいので!」
だめだ。
玲奈とこはる、方向は違うのにどっちも押しが強い。片方はやわらかく囲い込んでくるし、もう片方はまっすぐ飛び込んでくる。
その真ん中に立たされるわたしの身にもなってほしい。
駅前の分かれ道に着くと、こはるはそこで立ち止まった。
「じゃあ、わたしこっちなので!」
「うん」
「小日向先輩、今日はありがとうございました!」
「こちらこそ」
「一ノ瀬先輩も失礼します!」
「またね、こはるちゃん」
「はい!」
こはるはぺこっと頭を下げてから、数歩進んで、また振り返った。
「小日向先輩!」
「なに?」
「今日、すごく楽しかったです!」
「……」
「また一緒に帰れたらうれしいです!」
言い切ってから、今度こそ小走りで去っていく。
その後ろ姿は、最後までまっすぐだった。
しばらくのあいだ、わたしはその背中を見送っていた。
「……すごいね」
隣で玲奈がぽつりと言う。
「うん」
「思ったよりずっと強いかも」
「強いって、何に対して」
「いろいろ」
「また抽象的」
「でも、まっすぐな子って強いよ」
玲奈は少しだけ笑った。
「こっちが変に考えてること、全部飛び越えてくるし」
「それはわかるかも」
「でしょ?」
玲奈はそう言いながら、駅前の人波を見た。
「ちょっと羨ましいな」
「こはるが?」
「うん。ああやって素直に言えるの」
「一ノ瀬さんも十分言ってると思うけど」
「そう?」
「かなり」
「でも、わたしはこはるちゃんほどまっすぐじゃないかも」
「……そうかな」
「ましろに対しては、ちょっと考えちゃうし」
その言い方が、少しだけ静かだった。
わたしは思わず玲奈の方を見る。
夕方の駅前の光の中で、玲奈はいつも通り綺麗だった。でも、今の一言だけは、いつもの軽さより少しだけ深い場所から出てきた気がした。
「……一ノ瀬さんでも、考えるんだ」
「失礼だなあ」
「いや、だってあまり迷ってる感じしないから」
「してるよ」
「そうなんだ」
「うん。わりと」
玲奈は少しだけ目を細めた。
「だから、こはるちゃん強いなって思った」
「……」
「まあ、わたしはわたしのやり方でいくけど」
「それ、結局いつも通りってこと?」
「そうかもね」
最後はまた、いつもの玲奈の笑い方に戻っていた。
でも、その途中の少しだけ本音みたいな声が、やっぱり胸に残る。
人の気持ちって、わかりやすいようでわかりにくい。
こはるみたいに真正面から来る子もいれば、玲奈みたいに、軽く見せながらちゃんと色々考えている人もいる。
そのどちらも向けられる側になっていることが、いまだにあまり信じられなかった。
「じゃあ、ここからどうする?」
玲奈が聞く。
「今日はそのまま帰る」
「そっか」
「一ノ瀬さんは?」
「わたしもそうしようかな」
「甘いもの買いに行くんじゃなかったの」
「今日はいいや」
「……珍しい」
「たまには」
「ふうん」
二人で改札のない横断歩道を渡る。
さっきまでこはるがいたぶん、二人きりになると少しだけ空気が落ち着いた気もする。……落ち着いた、というより、今度は別の意味で玲奈を意識してしまうだけかもしれないけれど。
しばらく歩いていると、玲奈がふいに言った。
「でも、ましろがちゃんと断らなかったの、ちょっとうれしかった」
「……何が」
「こはるちゃんのこと」
「断れないだけだよ」
「それでも」
玲奈は小さく笑う。
「ましろらしいなって思った」
「それ、褒めてる?」
「うん。やさしいから」
「最近それでまとめるね」
「だってほんとだし」
夕方の風が、制服のスカートを少し揺らした。
わたしは前を向いたまま歩く。
さっきのこはるの“また一緒に帰れたらうれしいです”という声と、玲奈の“思ったより強いかも”という呟きが、まだ頭の中に残っていた。
放課後は、もうただの空白時間じゃない。
誰と帰るか。
誰に声をかけられるか。
誰に“また”を望まれるか。
そういうことで、気分が少しずつ変わってしまう時間になっている。
それが、わたしにとっていいことなのかどうかは、まだわからない。
でも少なくとも、前みたいに「ただ帰るだけ」ではなくなっている。
「ましろ」
「なに」
「今日のこと、また思い出す?」
「……何を」
「こはるちゃんのまっすぐさ」
「それは、まあ」
「じゃあ、わたしのことも少しは思い出して」
「なんでそういう言い方するの」
「したいから」
「……」
「今の沈黙、否定しなかったってことでいい?」
「よくない」
「じゃあ半分だけそう思っておく」
「都合よく解釈しすぎ」
「知ってる」
玲奈はそう言って、いつものように笑った。
やっぱり、この人のこういうところはずるい。
でも、そのずるさに少しずつ慣れてきている自分も、たぶん相当ずるいのだと思う。




