第11話 副会長は、静かな場所にだけ現れる
放課後という時間が、最近は妙に騒がしい。
こはるみたいに真正面から飛び込んでくる後輩もいれば、玲奈みたいに当たり前の顔で隣に並んでくる人もいる。みおはそこに茶々を入れながら本質だけを見抜いていくし、気づけばわたしの放課後は“ただ帰るまでの時間”ではなくなっていた。
だからその日、放課後に少しだけ静かな場所へ逃げ込みたくなったのは、たぶん自然なことだった。
授業が終わって、教室のざわめきが広がる。
誰かが部活の予定を確認していて、誰かが週末の話で盛り上がっていて、玲奈は友達に呼ばれて教室の前方で足を止めていた。
わたしはその隙に、そっと鞄を持つ。
今日は、少しだけ一人でいたい。
玲奈が嫌なわけじゃない。こはるに会いたくないわけでもない。ただ、ここ数日の情報量が多すぎて、ちょっと一回、頭を静かにしたかった。
向かったのは図書室だった。
放課後の図書室は、いつも少しだけ世界が薄まる。
教室の喧騒も、廊下のざわつきも、本棚と本棚の間に入るとやわらかく遠ざかる。
その感じが好きだ。
返却期限の近い本を一冊返して、新しく何か借りるでもなく、わたしは窓際に近い棚の前をゆっくり歩いた。
背表紙を眺める。
好きな作家の名前を見つける。
気になる題名に少しだけ指先を止める。
それだけで、少し落ち着く。
やっぱり、静かな場所は大事だと思う。
そうして十分ほど過ごしたあと、ふと借りようか迷っていた短編集を手に取った。前に読んだ作者の別作品で、装丁がきれいだったから気になっていたものだ。
これにしようかな、と本を胸の前で抱え直した、そのときだった。
「今日は、一緒ではないんですね」
静かな声が、すぐ後ろから聞こえた。
わたしは思わず肩を揺らした。
振り向く。
そこにいたのは、篠宮冬華先輩だった。
相変わらず、きれいな人だと思った。
図書室の静けさの中に立つと、その整った雰囲気が余計にはっきりする。派手なわけではないのに、目を引く。声も小さいのに、ちゃんと届く。
「あ……こんにちは」
「こんにちは」
冬華先輩は小さく会釈した。
「驚かせましたか」
「少しだけ」
「すみません。声をかける前に、もう少し距離を取るべきでしたね」
「いえ、そこまでじゃ……」
そう言いながらも、さっきの言葉が気になっていた。
今日は、一緒ではないんですね。
その“今日は”も、“一緒”も、あまりにも自然に玲奈の存在を含んでいたからだ。
「……あの」
「はい」
「いまの、“一緒”って」
「一ノ瀬さんのことです」
冬華先輩はあっさり答えた。
「違いましたか」
「違わないですけど……」
「そうですか」
やっぱり、この人は少しだけ出来すぎている。
前に生徒会室で会ったときもそうだったけれど、冬華先輩はわたしと玲奈の距離を、妙に正確に把握している気がする。しかもそれを、気づかないふりをしない。
わたしが返事に詰まると、先輩はわたしの手元の本に視線を落とした。
「短編集、お好きなんですね」
「あ、はい。読みやすいので」
「わかります。一話ずつ温度が違うので、疲れているときでも手に取りやすい」
「……先輩も読むんですか」
「たまに。静かなものが多いですが」
その返事があまりにも先輩らしくて、少しだけおかしくなる。
冬華先輩は、そのわたしの小さな表情の変化に気づいたらしかった。
「何か変でしたか」
「いえ、なんというか……」
「はい」
「想像通りだなって」
「それは褒め言葉でしょうか」
「たぶん」
「それなら、ありがとうございます」
ほんの少しだけ、先輩が笑った。
声を立てずに、目元だけやわらかくするような笑い方。そういうところまで静かな人だ。
わたしは本を持ち直しながら言った。
「先輩は、何か借りるんですか」
「いえ。今日は資料を返しに来ただけです」
「図書委員の?」
「生徒会で使っていた学校史の本です」
「……似合いますね」
「学校史が、ですか?」
「じゃなくて」
つい言いかけて、慌てる。
「先輩がそういうの持ってるのが」
「そうですか」
「なんか、きちんとしてる感じで」
「小日向さんは、そういうところまで言葉にするんですね」
「え」
「もっと控えめな方かと思っていました」
それは、少し意外な返しだった。
わたしは自分のことを、むしろあまり言葉にしない人間だと思っている。必要以上に目立ちたくないし、思ったことをすぐ口に出す方でもない。
でも冬華先輩は、違う見方をしているらしい。
「言わないわけじゃないんだな、って思っただけです」
「……あまり言ってないと思いますけど」
「本当に何も言わない人は、そこで“似合う”という言葉を選びません」
そんなふうに切り取られると、少しだけ恥ずかしい。
わたしが視線を逸らすと、先輩はそれ以上追わなかった。ただ、本棚の端に手を添えながら、静かな声で続けた。
「図書室は落ち着きますか」
「はい」
「そうでしょうね」
「そうでしょうね、って」
「小日向さんは、騒がしい場所より、静かな場所の方が向いていそうですから」
「……それは、そうかもしれません」
「教室は、少し疲れるでしょう」
「そこまで露骨ですか」
「少しだけ」
先輩は前にも似たようなことを言っていた。
「顔に出ます」
「最近、みんなそれ言います」
「みんな?」
「……何人か」
「そうですか」
冬華先輩は、それが誰のことか、たぶん聞かなくてもわかっている顔をした。
わたしはなんとなく気まずくなって、本棚から少し離れる。
「でも」
冬華先輩が言う。
「最近は、少し変わってきましたか?」
「……何がですか」
「騒がしいことに対する反応です」
図星だった。
前なら、もっとはっきり逃げたくなっていたと思う。玲奈に毎日話しかけられることも、こはるに懐かれることも、みおにからかわれることも、全部もっと“困ること”として切り捨てていたかもしれない。
でも今は、困るのに、逃げたいのに、完全に嫌ではない。
そのことを、わたし自身まだうまく言葉にできていない。
「……どうでしょう」
曖昧に答えると、
「そういう返し方をするときは、だいたい変わっています」
冬華先輩は落ち着いた声で言った。
鋭い。
こわいくらいに。
けれど、不思議と嫌なこわさではなかった。見透かされている感覚はあるのに、それで責められているわけではないからだ。
「先輩って、よく見てますよね」
「必要なことは」
「必要なこと、なんですか」
「少なくとも、私にとっては」
その言い方に、また少しだけ心臓が跳ねる。
冬華先輩は、玲奈みたいにわかりやすい言葉を使わない。
でも、その分だけ、一言の輪郭がはっきりしている。
軽く流すには少しだけ静かすぎて、聞き流すには少しだけ近い。
「帰るところでしたか」
先輩が話題を変えるように聞いた。
「はい。そろそろ」
「そうですか」
「先輩は?」
「私もです。途中までご一緒しても?」
「え」
反射的に顔を上げると、冬華先輩はほんの少しだけ首を傾げた。
「ご迷惑でしょうか」
「い、いえ、そういうわけじゃ」
「ならよかったです」
そのまま流される形で、わたしたちは図書室を出ることになった。
廊下に出ると、さっきまでの静けさより少しだけ音が増える。遠くで運動部の声がするし、どこかの教室からは笑い声も聞こえる。
でも、隣にいる冬華先輩の空気は図書室の延長みたいに静かだった。
二人で並んで歩く。
玲奈と歩くときとは、全然違う。
玲奈はいつも、会話の主導権を自然に持っていく。明るくて、温度があって、気づけばその場全体が玲奈のペースになる。
でも冬華先輩は違う。
先輩と並ぶと、無理に話さなくてもいい気がする。沈黙が沈黙のままで成立する。
その静けさが、逆に落ち着かないくらいだった。
「小日向さんは、普段はどの辺りまで歩いて帰るんですか」
「駅の方までです」
「そうですか。私は反対方向なので、昇降口までですね」
「……じゃあ、ほんとに途中までですね」
「ええ」
「それなら、別に気を遣わなくても」
「気を遣っているわけではありません」
すぐに返ってくる。
「静かな帰り道も悪くないと思っただけです」
「……」
「最近は、あまりそういう時間がなさそうでしたから」
その一言で、また玲奈の顔が頭に浮かんでしまう。
最近のわたしの放課後は、たしかに静かとは言いがたかった。玲奈と帰って、こはるが現れて、みおにからかわれて、そうしているうちに、自分の周りにずっと何かしらの音がある。
それが嫌なわけじゃない。
でも、こうして静かな人の隣で歩くと、自分が少し疲れていたことにも気づく。
「小日向さん」
「はい」
「疲れているときほど、人は自分に合う場所を選びます」
「……図書室とか」
「そうですね。あるいは、誰といるかも」
昇降口が見えてきたところで、冬華先輩は立ち止まった。
そこで終わりの距離だとわかる。
でも先輩はすぐには何も言わず、一拍おいてからこちらを見た。
「今日は静かでしたか」
「え?」
「放課後です」
「あ……はい」
「それならよかったです」
ほんの少しだけ、やわらかい目をする。
そのまま先輩は、前に生徒会室で言ったのと同じ調子で続けた。
「たまには、こういう帰り道も悪くないでしょう」
「……そうですね」
「また必要なら、図書室でも」
「必要なら、って」
「逃げ場所、という意味です」
「先輩、そういう言い方するんですね」
「変でしたか」
「いえ。少しだけ、やさしいなって思っただけです」
口にしてから、しまったと思った。
でも、冬華先輩は否定しなかった。
ただ静かに、わずかに目元をやわらげた。
「ありがとうございます」
その返しがまた、先輩らしすぎた。
会釈をして、先輩は反対方向へ歩いていく。
その背中を見送りながら、わたしは少しだけ変な気持ちになる。
玲奈といるときみたいな、心臓がばたばたする感じは少ない。
でもその代わり、静かに水面が揺れるみたいな余韻が残る。
どちらが困るかと聞かれたら、たぶん、どちらも困る。
昇降口で靴を履き替えて外へ出ると、夕方の風が少しだけひんやりしていた。
校門へ向かって歩きながら、ふと前方に見覚えのある人影が立っているのに気づく。
制服のシルエット。
少しだけ長めの髪。
立っているだけで絵になる感じ。
玲奈だった。
「……え」
思わず声が漏れる。
玲奈はわたしに気づくと、ぱっと表情を明るくした。
「やっと来た」
「なんでいるの」
「待ってた」
「……」
「待っちゃだめだった?」
そういう聞き方はずるい。
でも今は、それよりも先に別のことが気になった。
「見てた?」
「何を?」
「……図書室から」
「少しだけ」
少しだけ、って。
玲奈は笑っていたけれど、その笑顔はいつもより少しだけ静かだった。
「副会長と一緒だったんだね」
「途中までだけ」
「うん、そうみたいだった」
「……」
「静かそうだった」
その言い方に、何か含まれている気がする。
でも、玲奈はそれ以上すぐには踏み込まなかった。わたしの横へ並んで、当たり前みたいに歩き出す。
「今日は一人で帰るつもりだったのに」
わたしが小さく言うと、
「失敗した?」
玲奈が聞く。
「そこまでは言ってない」
「じゃあ半分成功」
「どういう理屈」
「副会長の静かな時間もあって、そのあとわたしもいるから」
「……欲張りだね」
「知ってる」
またそれだ。
玲奈は少しだけ空を見て、それからぽつりと呟く。
「でも、静かな場所にだけ現れるの、あの人らしいかも」
その横顔は笑っているのに、声の底に少しだけ熱があった。
わたしはそれを聞きながら、自分の放課後がまた少しだけ変わっていく気配を感じていた。
静かな場所にも、静かな人にも、もう無関係ではいられない。
その中心に、やっぱり玲奈がいることも、きっと偶然ではないのだろう。




