第12話 幼なじみは、“途中まで一緒”の意味を知っている
放課後に誰かと一緒に帰る。
そのこと自体は、たぶんそんなに特別なことじゃない。
クラスメイト同士なら普通にある。部活の仲間同士でもある。駅までの道が同じなら自然に並ぶこともあるだろうし、途中のコンビニに寄るくらい、世間一般の高校生にとっては大きな出来事でもないはずだ。
けれど、わたしにとっては違った。
少なくとも、少し前までのわたしにとっては。
学校が終わったら、そのまま帰る。
たまに図書室に寄る。
誰かと一緒になるとしても、それはたまたまで、深い意味なんてない。
そのはずだった。
なのに最近は、放課後が近づくたびに、少しだけ落ち着かなくなる。
今日は玲奈が来るのか。
こはるに会うのか。
冬華先輩が図書室にいるのか。
それとも、何も起こらず一人で帰れるのか。
そんなことを、授業中のノートの端でぼんやり考えてしまう時点で、もうだいぶ平穏から遠ざかっている。
そして、その変化にいちばん気づきそうな人物がいるとすれば――。
「まーしろ」
放課後の昇降口で、聞き慣れた声がした。
靴箱の前でローファーに履き替えていたわたしは、思わず手を止める。
この声は、聞く前から嫌な予感がする。
というか、聞いた瞬間に「あ、逃げられない」とわかる。
顔を上げると、そこには藤咲みおがいた。
片手をひらひら振って、いつものように少しだけ楽しそうな顔をしている。
わたしの幼なじみ。
わたしの昔を知っていて、わたしの反応を面白がって、でもたぶん誰よりも先に変化に気づく厄介な相手。
「……なに」
「第一声がそれ?」
「みおがその顔で待ってるときは、大体ろくなことじゃないから」
「ひどいなあ。今日は普通に一緒に帰ろうと思っただけなのに」
「ほんとに?」
「半分くらい」
「ほら」
「でも半分はほんと」
みおは悪びれもせず笑った。
その軽さがもう怪しい。
「今日は玲奈ちゃんいないの?」
「玲奈ちゃんって呼ぶんだ」
「だって一ノ瀬さんって呼ぶと距離あるじゃん」
「距離を詰める必要ある?」
「あるでしょ。ましろの最近の重要人物だし」
「……重要人物って」
言い返そうとしたけれど、思ったよりうまく言葉が出なかった。
みおはその沈黙を見逃さない。
「今、否定遅かった」
「うるさい」
「はいはい」
みおは楽しそうに笑って、わたしの横に並ぶ。
「で? 今日はその重要人物と帰らなくていいの?」
「玲奈は先生に呼ばれてた」
「ふうん」
「なに」
「いや、ちゃんと把握してるんだなって」
「たまたま聞いただけ」
「たまたまねえ」
その言い方が、完全に信じていない。
わたしは鞄を持ち直して、先に昇降口を出た。
夕方の空は、薄いオレンジ色に染まり始めていた。
春の風がやわらかい。校庭ではまだ部活の声が響いていて、昇降口の前には帰る生徒たちの流れがある。
みおは当たり前のように隣へ並んだ。
この距離は昔から変わらない。
小学生の頃も、中学生の頃も、みおはよくこうしてわたしの横を歩いていた。
わたしが無口でも気にしないし、みおが勝手に喋っていてもこちらはあまり気を遣わなくていい。
それは、玲奈やこはる、冬華先輩とは違う種類の距離だった。
気楽で、油断できて、だからこそ厄介。
「久しぶりだね、こうやって帰るの」
みおが言った。
「そう?」
「最近は人気者さんに取られてたし」
「取られてない」
「じゃあ、予約されてた?」
「もっと違う」
「でも実際、一緒に帰ってるでしょ」
「……何回かは」
「何回か、ね」
みおは軽く笑う。
この人は本当に、言葉の端を拾うのがうまい。
玲奈の“見てるから”とは違う。
こはるの“まっすぐさ”とも違う。
みおは、昔から知っている情報を土台にして、今のわたしを見てくる。
だから逃げづらい。
「ましろさ」
「なに」
「昔、帰り道でよく寄り道したの覚えてる?」
「……急に?」
「ほら、小学校のころ。あそこの駄菓子屋」
「ああ」
「ましろ、いつも何買うか迷ってたよね」
「みおが急かすからでしょ」
「だって長いんだもん。十円ガム一個選ぶのに五分かける人初めて見た」
「そんなにかけてない」
「かけてた」
「……たぶん、三分くらい」
「ほら、長い」
思わず少し笑ってしまった。
小学生の頃、学校帰りに二人で寄り道していた小さな駄菓子屋。
今はもう閉まってしまったけれど、色のついたガムや小さなラムネ、くじ付きのお菓子が並んでいた光景はまだ少し覚えている。
みおはいつも迷わず買う。
わたしはいつも迷う。
それを見て、みおが「また?」と笑う。
あの頃から、あまり変わっていないのかもしれない。
「でも、結局ましろってさ」
「うん」
「選ぶの遅いくせに、一回気に入るとずっと同じの買うんだよね」
「そうだった?」
「そうだったよ。途中からずっといちごのラムネだった」
「……そういえば」
「今もそうなんじゃない?」
「何が」
「一回“ここがいい”って思ったら、けっこうそこに戻るタイプ」
その言葉に、少しだけ胸が引っかかった。
みおは前を向いたまま、続ける。
「最近の放課後もさ」
「……」
「誰と帰るか、けっこう気にしてるでしょ」
「そんなこと」
「あるよ」
即答だった。
わたしが反論する前に、みおは横目でこちらを見る。
「玲奈ちゃんと帰った日は、ちょっと顔が違う」
「……違わない」
「違う」
「どこが」
「なんか、疲れてるけど満足そう」
「何それ」
「あと、こはるちゃんと話した日は、困った顔してるけどちょっと嬉しそう」
「なんで知ってるの」
「噂と顔」
「顔って便利に使われすぎじゃない?」
「ましろの顔がわかりやすいんだよ」
そんなにわかりやすいのだろうか。
玲奈にも同じようなことを言われるし、冬華先輩にも見抜かれるし、こはるはこはるで真っ直ぐ見てくる。
もしかすると、自分で思っているほど、わたしは感情を隠すのが上手くないのかもしれない。
それはそれで、かなり困る。
「冬華先輩とは?」
みおがさらっと言った。
「……なんで知ってるの」
「生徒会副会長でしょ? 有名人じゃん」
「そういう意味じゃなくて」
「図書室で一緒だったって聞いた」
「誰から」
「さて」
「みお」
「怒んない怒んない。別に悪い噂じゃないよ。副会長が小日向さんと一緒にいた、くらい」
「それでも十分落ち着かない」
「まあね」
みおはあっさり認めた。
「でも、あの人もましろのこと見てるんだね」
「……そうかな」
「見てるでしょ。じゃなきゃ、静かな場所に都合よく現れたりしないって」
「たまたまだと思うけど」
「ましろって、そういうとこ律儀に“たまたま”って思おうとするよね」
「違うの?」
「違うかどうかは知らないけど、少なくとも相手が意味を持たせてたら、たまたまじゃなくなるんじゃない?」
意味を持たせていたら。
その言葉が、妙に耳に残った。
冬華先輩の静かな声を思い出す。
たまには、こういう帰り道も悪くないでしょう。
あの言葉には、確かに何かがあった気がする。
でも、それを何と呼べばいいのかはまだわからない。
「……最近、みんな難しい」
思わずそう呟くと、みおが吹き出した。
「それ、すごくましろっぽい」
「笑うところじゃない」
「いや、ごめん。でもさ、難しいのはみんなじゃなくて、ましろが考え始めたからじゃない?」
「わたしが?」
「そう」
みおは歩道の端を歩きながら、続けた。
「前のましろなら、たぶん“困る”で終わってた」
「……」
「玲奈ちゃんに距離詰められても、こはるちゃんに懐かれても、副会長に意味深なこと言われても、“困るなあ”で蓋してたと思う」
「今も困ってる」
「うん。でも今は、困ってるだけじゃないでしょ」
言い返せなかった。
その通りだからだ。
困っている。
落ち着かない。
平穏から遠ざかっている。
でも、それだけではない。
玲奈が来ない朝は、少し拍子抜けする。
こはるにまっすぐ喜ばれると、困りながらも少し嬉しい。
冬華先輩の静かな言葉は、あとからじわじわ残る。
みおにからかわれるのは面倒だけど、少し安心する。
全部、困る。
でも全部、嫌じゃない。
そのことに気づき始めている。
「……みおって」
「うん?」
「昔からそういうとこあるよね」
「どういうとこ?」
「人が考えないようにしてること、普通に言う」
「幼なじみの特権」
「迷惑な特権」
「でも助かってるでしょ」
「それは言いたくない」
「じゃあ助かってるんだ」
みおは嬉しそうに笑った。
悔しい。
この人は本当に、昔からこうだ。
住宅街へ向かう道に差しかかると、学校帰りの生徒は少し減ってきた。
夕方の光が低く伸びて、歩道の影が長くなる。
みおはふと、声を少しだけやわらかくした。
「でも、ましろ」
「なに」
「自分が誰を一番気にしてるかは、ちゃんと見た方がいいよ」
「……またそれ」
「前にも言ったっけ?」
「言った」
「じゃあ大事なんだよ」
みおは笑っているけれど、その言葉には少しだけ本気が混じっていた。
「誰を一番って、そんなの」
「今すぐ決めろって話じゃないよ」
「じゃあ」
「ただ、気づかないふりし続けると、そのうち自分が一番困るって話」
「……」
「ましろって、自分のことになると遅いから」
「それも前に言った」
「何回でも言う」
玲奈もよく似たようなことを言う。
“やめない”とか、“何回でも”とか。
どうしてわたしの周りには、押しの強い人ばかり集まるのだろう。
そう考えた瞬間、みおがにやっと笑った。
「今、玲奈ちゃんのこと考えたでしょ」
「考えてない」
「はい、早い否定」
「みお!」
「いやあ、わかりやすい」
ほんとうにやめてほしい。
わたしは視線を逸らして、歩道の植え込みを見る。
小さな花が咲いていた。名前は知らない。
少しの間、二人で黙って歩いた。
その沈黙は、玲奈との沈黙とも、冬華先輩との沈黙とも違う。
昔から知っている相手だからこそ、言葉がなくても埋まる沈黙だった。
ふと、みおが言う。
「今のところ一番強いの、たぶんあの子だよ」
「……誰の話」
「さあ?」
「みお」
「でも、ましろもわかってるんじゃない?」
答えなかった。
けれど、胸の中では勝手に一人の顔が浮かんでしまっていた。
明るく笑う顔。
机の横に立って、おはようと呼ぶ声。
雨の日の傘の下で、少し静かになった横顔。
そして、放課後に当然みたいに隣へ来る姿。
玲奈。
名前を心の中で思っただけで、少しだけ落ち着かなくなる。
それを認めたくなくて、わたしは何も言わないまま歩き続けた。
みおはそれ以上追及しなかった。
意外だった。
いつものみおなら、もっとからかってくると思ったのに。
しばらくして、分かれ道に着く。
ここでみおとは方向が分かれる。昔から何度も通った道だ。
小学生の頃も、中学生の頃も、ここで「また明日」と言って別れた。
みおは立ち止まり、こちらを見た。
「じゃ、またね」
「うん」
「たまには幼なじみも優先してよ」
「……気が向いたら」
「気が向かせに行くから」
「来なくていい」
「行く」
やっぱり押しが強い。
みおは笑って、数歩歩き出してから、ふいに振り返った。
「ましろ」
「なに?」
「今のところ一番強い子のこと、ちゃんと見てあげなよ」
それだけ言って、みおは手を振って去っていった。
夕方の道に、わたしだけが残される。
わたしはしばらくその場で立ち尽くしてから、小さく息を吐いた。
「……ちゃんと見てるよ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
でもすぐに、自分で自分の言葉に引っかかる。
見ている。
そう、たぶん見ている。
玲奈のことを、前よりずっと見ている。
玲奈が笑っているか。
少し拗ねているか。
何かを軽く言いながら、本当はどこまで本気なのか。
そんなことを、考えるようになっている。
それはもう、ただのクラスメイトへの視線ではないのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がまた落ち着かなくなった。
スマホが震えた。
画面を見る。
玲奈からだった。
今日はみおちゃんと帰ったんだって?
どうして知っているの。
そう返信しようとして、指が止まる。
次のメッセージが続く。
ちょっとだけ、うらやましいかも。
その文字を見た瞬間、夕方の風が頬を撫でた。
わたしはしばらく画面を見つめて、ゆっくり返信を打つ。
途中までだけだよ。
送信してから、すぐに後悔した。
言い訳みたいだ。
でも、送ってしまったものは仕方ない。
数秒後、玲奈から返事が来た。
じゃあ、明日はわたしも途中まで。
わたしはスマホを握ったまま、少しだけ笑ってしまった。
やっぱり、玲奈はずるい。
そしてたぶん、わたしはもう、そのずるさを少し待ってしまっている。




