第13話 寄り道は、二人の距離を誤魔化せない
玲奈から届いたメッセージを見たあと、わたしはしばらくスマホの画面を眺めていた。
じゃあ、明日はわたしも途中まで。
たったそれだけの文章なのに、なぜか妙に玲奈の声で再生される。
少しだけ拗ねているような。
でも、最後にはちゃんと笑っているような。
そんな声。
文字だけなのに、表情まで浮かんでしまうのだから、わたしもだいぶ玲奈に毒されているのかもしれない。
「……途中まで、って」
ひとりで呟いてから、少しだけ顔が熱くなった。
みおと帰ったことに対して、玲奈は「うらやましい」と言った。
そのあとに、「明日はわたしも途中まで」と言った。
つまり、わたしと帰る時間を、玲奈はちゃんと欲しがっている。
……いや、待って。
そういう解釈をするのは自意識過剰かもしれない。玲奈はわりと軽く言う。距離が近いし、言葉も甘いし、でもそれが全部深い意味とは限らない。
限らない、はずなのに。
最近は、その言葉の軽さの奥に、ちゃんと熱があるような気がしてしまう。
そう思うようになってから、余計に平穏が遠くなった。
翌朝。
教室に入ると、玲奈はすでに席にいた。
友達と話していたのに、わたしが入ってきた瞬間、すぐにこちらを見つける。
そして、ぱっと表情を明るくした。
……見つけるのが早い。
「おはよう、ましろ」
「おはよう」
「昨日、返信くれたね」
「まあ、メッセージ来たから」
「途中までだけだよ、って」
「……わざわざ音読しないで」
「かわいかった」
「かわいくない」
「じゃあ、ましろらしかった」
「それもなんか悔しい」
玲奈はくすくす笑って、いつものようにわたしの机の横に来た。
朝の光の中で、玲奈の髪が少しやわらかく見える。
昨日のメッセージのせいだろうか。いつもより、顔をまっすぐ見づらい。
「今日は約束通り」
「約束?」
「放課後、途中まで」
「……勝手に約束にしないで」
「だめ?」
「だめじゃ、ないけど」
「じゃあ約束」
早い。
玲奈は何でも決めるのが早い。
そしてわたしは、それを止めきれない。
たぶん、止めきれないというより、止める気が少しずつ弱くなっている。
それが一番まずい。
「今日はさ」
玲奈が言った。
「うん」
「本屋、寄らない?」
「本屋?」
「うん。前にましろが読んでた短編集の話、気になってたから」
「……あれ、まだ読んでないんじゃなかった?」
「だから買う前に見たい」
「図書室にあるよ」
「本屋で一緒に見るのがいいの」
そういう言い方をされると、断りづらい。
図書室でいいじゃん、と思う。
でも、本屋で一緒に見るのがいい、と言われると、その“場所”に意味があるのだとわかってしまう。
玲奈はたぶん、ただ本を見たいだけではない。
放課後、制服のまま、二人で本屋に寄ること。
それをしたいのだ。
「……見るだけなら」
「うん。見るだけ」
「絶対それ以上何か言うでしょ」
「言うかも」
「もう認めるんだ」
「ましろには隠してもばれるし」
「ばれてない」
「ばれてるよ」
その自信がずるい。
でも、ほんの少しだけ、嬉しかった。
わたしの好きなものを知りたいと思ってくれること。
図書室でもなく、教室でもなく、放課後の本屋に誘ってくれること。
それを嬉しいと思ってしまうくらいには、わたしはもう玲奈との放課後に慣れ始めている。
午前中は、いつもより少しだけ長く感じた。
授業の合間、今日の放課後のことを何度か考えてしまったからだ。
玲奈と本屋に行く。
別に大事件じゃない。クラスメイトと本屋へ寄るくらい、普通のことだ。
普通のことのはずだ。
でも、玲奈と一緒だと、普通のことが普通に終わらない気がする。
たとえば、玲奈はきっとわたしの好きな本を聞いてくる。
どんな話が好きか、どんな表紙に惹かれるか、どういう登場人物が好きか。
それを聞いて、たぶん「ましろらしい」とか言う。
そんな想像ができてしまう時点で、だいぶ玲奈のことをわかり始めている気がした。
昼休み。
玲奈はいつも通り、わたしの机に来た。
「今日のお弁当、ちょっと豪華?」
「そう?」
「唐揚げと玉子焼きと、ミニハンバーグ」
「昨日の夕飯の残りだと思う」
「それでも豪華」
「一ノ瀬さんのお弁当の方がいつも綺麗だよ」
「玲奈」
「……玲奈さん」
「まださん付き」
「さんは必要」
「いつか取れる?」
「取れない可能性もある」
「じゃあ取れるまで待つ」
「なんでそんなに前向きなの」
玲奈は楽しそうに笑った。
この会話も、もう何回も繰り返している。
最初の頃は名前を呼ばれるだけで固まっていたのに、今では“玲奈さん”までは言えるようになっている。
それを進歩と言っていいのかはわからない。
「今日の放課後、本屋だよね」
玲奈が確認する。
「まだ決定はしてない」
「したよ」
「いつ」
「朝」
「わたし、見るだけならって言っただけ」
「じゃあ見るだけ」
「……」
「そんな顔しなくても、無理に買わせたりしないよ」
「そこは心配してない」
「じゃあ何が心配?」
「一ノ瀬さんがまた変なこと言うんじゃないかって」
「変なこと?」
「心臓に悪いやつ」
「それは言うかも」
「だから心配してるんだけど」
玲奈はそこで、少しだけ目を細めた。
「でも、ましろも最近慣れてきたでしょ」
「慣れてない」
「ほんとに?」
「……半分くらい」
「やっぱり」
また“やっぱり”だ。
でも、完全に否定できなかったのは事実だった。
慣れてきている。
玲奈が近くにいることにも、甘い言葉をさらっと言ってくることにも、放課後に誘われることにも。
ただし、慣れたから平気というわけではない。
むしろ、慣れたせいで、逆に意識してしまうことも増えている。
たぶん、それが今のわたしの一番厄介なところだった。
放課後。
チャイムが鳴ると同時に、わたしは無意識に玲奈の方を見ていた。
見てしまってから、慌てて目を逸らす。
でも、遅かった。
「今、見た」
後ろからすぐに声がした。
「見てない」
「目、合いかけた」
「気のせい」
「じゃあ、気のせいでも嬉しい」
「そういう受け取り方やめて」
「やめない」
玲奈は鞄を持って、わたしの隣に並んだ。
それがあまりに自然で、周りの子たちももう驚かない。
この“当たり前感”が、やっぱり少し怖い。
「行こ」
「うん」
二人で教室を出る。
廊下を歩いて、階段を下りて、昇降口で靴を履き替える。
いつもの流れ。
でも今日は、その先に本屋がある。
校門を出ると、春の夕方の光が道に長く伸びていた。
風は穏やかで、雨の気配はない。
それだけで、前の相合い傘のことを思い出してしまう自分がいて、また少し落ち着かなくなる。
「今日、傘いらないね」
玲奈が言った。
「……なんでその話題」
「思い出したから」
「思い出さないで」
「ましろも思い出した?」
「……」
「沈黙は肯定」
「違う」
「じゃあ半分肯定」
「都合がいい」
玲奈は笑った。
でも、その笑い方は少しだけやわらかかった。
たぶん、玲奈もあの日のことを覚えている。
それを、わざわざ口にする。
そして、わたしが反応するのを見て少し嬉しそうにする。
ずるい。
本当にずるい。
本屋は駅前の通りにあった。
大きすぎないけれど、雑誌も文庫も漫画も参考書も一通りそろっている店で、わたしもたまに利用する。学校帰りに一人で入ることはあるけれど、誰かと来るのは久しぶりだった。
自動ドアをくぐると、紙とインクの匂いがする。
わたしはこの匂いが好きだ。
図書室の匂いとは少し違う。
図書室が“静かに残っている物語の匂い”だとしたら、本屋は“これから誰かに選ばれる物語の匂い”がする。
「ましろ、今ちょっと嬉しそう」
隣で玲奈が言った。
「……わかる?」
「わかるよ」
「そんなに?」
「うん。目が違う」
「目」
「本屋好きなんだね」
「好き、かも」
「そっか」
玲奈はそれだけで嬉しそうにする。
わたしが好きな場所に来ただけで、玲奈が嬉しそうにする。
それがまた、落ち着かない。
「どこ見る?」
「文庫」
「じゃあ案内して」
「案内ってほど詳しくないけど」
「ましろの歩くところについていく」
そう言われると、なんだか妙に責任を感じる。
わたしは少し迷いながら、文庫の棚へ向かった。
新刊コーナー、話題作、平台に並ぶ表紙。
手に取りやすい場所にある本を横目で見ながら、いつも見ている棚へ行く。
玲奈は本当に、わたしの後ろをついてきた。
しかも、ただついてくるだけじゃなく、わたしがどの棚で足を止めるか、どんな本に視線を向けるかをちゃんと見ている。
「これ、前に読んでた作家さん?」
玲奈が一冊を指さした。
「そう。よく覚えてるね」
「覚えてるよ。短編集の話してたときの人でしょ」
「うん」
「ましろ、こういう表紙好き?」
「……わりと」
「落ち着いた色のやつ?」
「たぶん」
「やっぱり」
また当てられる。
悔しい。
でも、わたしの好きなものを覚えていてくれたことが、少し嬉しい。
その感情が素直に出そうで、わたしは急いで別の本へ視線を移した。
「一ノ瀬さんは、どんな本読むの」
「玲奈」
「……玲奈さんは」
「惜しい」
「惜しくない」
「わたしは結構なんでも読むよ。話題になってるやつとか、表紙が可愛いのとか」
「表紙買いするタイプ?」
「する」
「意外」
「そう?」
「もっと慎重に選びそう」
「ましろの方が慎重でしょ」
「それは否定できない」
「でも、表紙で惹かれるのも大事だと思う」
玲奈は本を一冊手に取った。
「最初に目が合う場所だし」
「本と?」
「うん」
「そういう言い方するんだ」
「変?」
「少し。でも嫌いじゃない」
言ってから、しまったと思った。
玲奈がぴたりと動きを止める。
そして、ゆっくりこちらを見る。
「今の、もう一回言って」
「言わない」
「嫌いじゃないって」
「言わない」
「ましろが珍しく素直だったのに」
「忘れて」
「無理」
玲奈は嬉しそうに笑った。
わたしは本棚の方へ顔を向けて、なんとか熱くなった頬をごまかす。
だめだ。
本屋に来ても、結局こうなる。
場所が変わっただけで、玲奈との距離感は変わらない。むしろ、わたしの好きな場所に玲奈がいるせいで、余計に見られている感じがする。
「ましろの好きなもの、もっと知りたいな」
玲奈が言った。
静かな声だった。
店内の落ち着いた空気の中で聞くと、教室よりもずっと近く聞こえた。
「……そんなに知ってどうするの」
「どうもしないよ」
「じゃあ」
「知りたいから知りたいだけ」
「理由になってない」
「なるよ」
玲奈は手に持っていた本を棚へ戻して、こちらを見た。
「ましろがどんな本を好きで、どんな言葉で立ち止まって、どんな表紙に惹かれるのか」
「……」
「そういうの、知れたら嬉しい」
何も言えなかった。
玲奈のこういうところが、本当に苦手だ。
軽い冗談と、まっすぐな本音の境目が急に消える。
気づいたときには、逃げ道がないところまで近づいている。
でも、その近さが嫌かと言われると、やっぱり違う。
わたしは持っていた本の背表紙を指先でなぞりながら、小さく言った。
「……たぶん、静かな話が好き」
「うん」
「大きな事件が起きるより、誰かの気持ちが少しずつ変わっていく話とか」
「うん」
「あと、言葉にしないまま残る感じの話」
「ましろらしい」
「それ言うと思った」
「でもほんとだよ」
「……玲奈さんは?」
「わたし?」
「どんな話が好きなの」
玲奈は少し驚いたように瞬きをした。
たぶん、わたしから聞き返されると思っていなかったのだ。
その顔を見て、少しだけ勝った気分になる。
「わたしは」
玲奈は少し考えてから言った。
「誰かと誰かが近づいていく話が好きかな」
「恋愛?」
「恋愛も。友情も」
「ふうん」
「最初は遠かった人たちが、少しずつ隣にいるのが当たり前になっていく話」
「……」
それは、ずるい。
今のわたしには、どうしたって別の意味に聞こえる。
玲奈もそれをわかって言っているのか、わかっていないのか。
最近の玲奈は、わかっていて言っている気がするから困る。
「そういう話、好き」
玲奈は笑った。
「ましろは?」
「……」
「今のは聞き返す番」
「知らない」
「知らないんだ」
「まだ、わからない」
そう答えるのが精一杯だった。
でも玲奈は、それでも満足そうに笑った。
「そっか。じゃあ、わかったら教えて」
「……うん」
本屋を出るころには、わたしは一冊だけ文庫を買っていた。
玲奈も、表紙が気に入ったと言って一冊買った。
「それ、ほんとに読むの?」
「読むよ」
「表紙買いで?」
「表紙買いでも出会いは出会い」
「名言みたいに言わないで」
「あと、ましろと本屋で買った本だから」
「……」
「大事に読む」
「そういうこと言うから困る」
玲奈は楽しそうに笑った。
本屋を出たあと、少しだけ近くのベンチに座った。
駅前の通りから少し外れた場所にある小さなベンチで、人通りはあるけれど、少しだけ落ち着いている。
わたしは買った本の袋を膝の上に置いた。
玲奈は隣で、同じように袋を持っている。
距離は近い。
けれど、前ほど慌てなくなっている自分がいる。
それに気づいて、少しだけ怖くなる。
「ましろ」
「なに」
「教室より、外のましろの方がやわらかいかも」
「この前も似たようなこと言ってた」
「だって思うから」
「外っていうより、本屋だったからじゃない?」
「それもあるかも」
「好きな場所だから」
「うん」
玲奈は少しだけこちらに顔を向ける。
「好きな場所にいるましろ、いいなって思った」
またそういうことを言う。
わたしは袋の持ち手を指先でいじりながら、どうにか言葉を探した。
「……玲奈さんといると」
「うん」
「疲れる」
「また言われた」
「でも」
「うん」
「本屋は、楽しかった」
言えた。
言ってから、ものすごく恥ずかしくなった。
けれど、これはちゃんと言うべきだと思った。
玲奈にばかり言わせて、自分はずっと困っているだけでは、なんだか不公平な気がしたから。
玲奈はしばらく黙っていた。
その沈黙が少し怖くて、わたしは顔を上げる。
玲奈は、わたしが思っていたよりずっと嬉しそうな顔をしていた。
「そっか」
「……うん」
「楽しかったんだ」
「言い直さない」
「言い直さなくていいよ」
玲奈は笑う。
「ちゃんと覚えておくから」
そんなふうに大事そうにされると、また困る。
でも、嫌ではなかった。
ほんとうに、嫌ではなかった。
「今度は」
玲奈が言う。
「もっと遠くまで寄り道したい」
「また言ってる」
「本気だから」
「遠くって、どこ」
「カフェとか。少し歩いたところの公園とか。ましろが好きそうな雑貨屋とか」
「勝手に好きそうな場所を増やさないで」
「でも好きそう」
「……否定しきれないのが嫌」
「じゃあ行けるね」
「なんで」
「否定しきれなかったから」
「理屈が雑」
玲奈は楽しそうに笑った。
夕方の風が、買った本の入った袋を少し揺らす。
制服のスカートも、玲奈の髪も、同じ風に揺れた。
その景色を見ながら、ふと思う。
今日の放課後は、たぶん忘れにくい。
ただ本屋に寄っただけ。
好きな本の話をしただけ。
ベンチで少し座っただけ。
それなのに、前より少し玲奈が近くなった気がする。
いや、玲奈だけじゃない。
わたしの方も、少しだけ近づいてしまったのかもしれない。
帰り道、玲奈は買った本の袋を大事そうに持っていた。
「読むの楽しみ」
「表紙買いなのに」
「ましろと一緒に選んだ本だし」
「……一緒に選んではない」
「同じ空間で選んだ」
「範囲が広い」
「でも、そういうのも思い出になるでしょ」
「大げさ」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、ましろも覚えててくれそう」
「……」
否定しようとして、できなかった。
たぶん覚えている。
本屋の匂いも、玲奈が表紙を見て笑った顔も、ベンチで言った「もっと遠くまで寄り道したい」も。
覚えている気がした。
それが玲奈にも伝わったのか、玲奈は嬉しそうに目を細める。
「また行こうね」
「……見るだけなら」
「次も見るだけ?」
「たぶん」
「じゃあ、そのうち買うかも」
「一ノ瀬さんの中で勝手に進めないで」
「玲奈」
「……玲奈さんの中で」
「うん、進める」
「結局進めるんだ」
玲奈は笑った。
その笑い声が、夕方の道にやわらかく混ざる。
わたしは隣を歩きながら思う。
寄り道は、ただの寄り道のはずだった。
教室の外で、少し本を見て、少し話して、帰るだけの時間。
でも、二人で歩くと、何気ない場所まで意味を持ってしまう。
コンビニも、本屋も、雨の日の帰り道も。
玲奈といると、普通の景色が普通でなくなる。
そしてわたしは、たぶんもう、それを少し楽しみにしてしまっている。




