第8話 “隣が落ち着く”なんて、そんなのずるい
雨の日に玲奈と相合い傘で帰った翌日、わたしは自分でも少しわかりやすいくらい落ち着かなかった。
朝、制服に着替えているときから、なんとなく鏡を見る回数が増えた気がするし、家を出る前には母に「今日、なんか急いでる?」と聞かれた。
急いでいるつもりはなかった。
でも、たぶん、少しだけそう見えたのだろう。
玲奈に会うのが気まずいとか、そういうことじゃない。
……いや、少しはあるかもしれない。
昨日の帰り道のことを思い出すたびに、心臓が落ち着かなくなるからだ。
傘の近さ。
玲奈の声。
“前から気になってた”という言葉。
そして、転びそうになったときに掴まれた手。
どれか一つだけなら、まだ「まあそういうこともある」で済ませられたかもしれない。
でも、全部まとめて思い出してしまうと、そういうわけにもいかない。
わたしは、自分が思っていた以上に器用じゃない。
平気なふりをするのも、気にしていないふりをするのも、実際にはそこまで上手くないのだ。
だから、今日の朝は少し怖かった。
玲奈がいつも通り笑ってきたら、どういう顔をすればいいのかわからない。
何もなかったみたいに振る舞えばいいのか、それとも少しは意識していることが伝わってしまうのか。
……伝わるのは困る。
でも、完全に隠せる自信もない。
そんなふうにぐるぐる考えながら教室の前まで来たとき、わたしは小さく息を吐いた。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせて扉を開ける。
いつも通りの教室だった。
朝のざわめき。席につく子たちの声。窓から入る春の光。
全部いつも通り。
なのに、ひとつだけ、いつも通りじゃないことがあった。
玲奈が、まだ来ない。
「……あれ」
思わず小さく呟く。
教室にはもう何人も来ている。なのに、玲奈の姿が見えなかった。
そのことにほっとしたのか、拍子抜けしたのか、自分でもよくわからない感覚が胸の中に広がる。
いや、別に、毎朝必ずわたしのところに来ると決まっているわけじゃない。そういう約束をしたわけでもない。
それなのに、わたしの中ではいつの間にか、それが“朝の流れ”みたいに組み込まれていたらしい。
……だめだ。そこに気づいてしまうのはだいぶよくない。
自分の席に座って鞄を置く。教科書を出して、ノートを整えて、何も気にしていませんよみたいな顔をする。
その数分後。
「おはよう、ましろ」
結局、その声がしただけで、わたしの心臓はきれいに跳ねた。
顔を上げる。
玲奈はいつも通り笑っていた。
いつも通り、明るくて、少しだけやわらかくて、近づいてくるだけで周りの空気が少し変わるみたいな笑顔。
なのに、今日のわたしにはその“いつも通り”が余計に効いた。
「……おはよう」
「ふふ」
「なに」
「ちゃんと返してくれたから」
「それは返すでしょ」
「でもちょっと間があった」
「気のせい」
「そうかな」
玲奈はそう言いながらわたしの隣に来て、机の横に軽く手をついた。
近い。
ほんの数日前まで、この距離だけでいっぱいいっぱいになっていた。
今もいっぱいいっぱいだ。
でも、種類が違う。
これまでは「人気者がなんでこんなに近いの」という戸惑いだった。今はそこに、昨日の帰り道の記憶がまるごと上乗せされている。
だから、一つひとつが余計に落ち着かない。
「今日、ちょっと変」
玲奈が言った。
「どっちが」
「ましろが」
「……どこが」
「なんか、そわそわしてる」
「してない」
「してる」
「最近それしか言ってないよ」
「だって、ほんとにそうなんだもん」
また、それだ。
わたしの顔を見て、わたしより先に色々気づくみたいな言い方。
悔しいけれど、否定しづらい。
「昨日のこと、気にしてる?」
玲奈が少しだけ声を落として聞く。
もう、ほんとうに。
どうしてそういうことを真正面から聞けるんだろう。
「……気にしてないって言ったら嘘になる」
半分やけになってそう返すと、玲奈は少しだけ目を丸くした。
「そっか」
「そっか、じゃない」
「うれしい」
「なんで」
「だって、昨日のこと覚えててくれてるってことでしょ」
「それはまあ……普通に覚えてるよ」
「わたしは、結構うれしいけどな」
軽く言ったように聞こえたのに、その最後の声だけ少しだけ静かだった。
わたしは返事に困って、教科書を開くふりをした。
でも、ページはうまくめくれない。
玲奈はそんなわたしをしばらく見ていたけれど、ホームルームのチャイムが鳴ると、「じゃ、またあとで」と言って自分の席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、わたしは小さく息を吐く。
朝からもう限界に近い。
なのに、まだ一日が始まったばかりだ。
午前中の授業は、正直あまり身に入らなかった。
ノートは取っている。先生の話も聞いている。たぶん、最低限はちゃんとやれている。
けれど、ふとした瞬間に意識が玲奈の方へ流れてしまう。
後ろから聞こえる笑い声。
休み時間に誰かと話している姿。
そして、授業の合間、何度か感じる視線。
昨日までと何も変わっていないはずなのに、わたしの受け取り方だけが変わってしまったみたいだった。
昼休み。
いつも通り、玲奈は当然のようにわたしの机に来た。
もう、この流れ自体には驚かない。驚かないけれど、心臓が静かになるわけではない。
「今日も一緒でいい?」
「その聞き方ずるい」
「え、聞いちゃだめ?」
「だめじゃないけど、もう座る準備してるじゃん」
「ばれた?」
「最初からばれてる」
玲奈は楽しそうに笑って、前の席をくるっと反対向きにした。
その仕草も、だいぶ見慣れてしまった。見慣れてしまったのに、たまに「ほんとうにこれが日常になってるんだ」と我に返って変な気持ちになる。
「今日のお弁当なに?」
「いつも通り」
「ましろの“いつも通り”好き」
「……そういう言い方ほんとやめて」
「また言われた」
「何回でも言う」
「じゃあ何回でも言う」
会話の終わらなさに頭を抱えたくなる。
でも、今日はそれだけじゃなかった。
玲奈はお弁当を広げながら、時々ふっと黙ってわたしを見る。いつものにこにこした感じとは少し違う、静かに観察するみたいな目。
それが落ち着かなくて、わたしの方から先に口を開いた。
「……なに」
「今日、ほんとに変だなって思って」
「まだ言うの?」
「うん」
「そんなに変?」
「ちょっとだけ、いつもよりやわらかい」
「……それ、褒めてる?」
「たぶん」
たぶんって。
でも、玲奈がからかっているだけではないことは、なんとなく伝わってきた。
昨日の雨の日のことを引きずっているのは、もしかしたらわたしだけじゃないのかもしれない。
そう思った瞬間、今度はそれが恥ずかしくなって、わたしは慌てて視線をお弁当へ落とした。
午後は、文化祭の準備に向けた簡単な係決めや配布物の確認があった。
その流れで、放課後に少しだけ教室に残って、資料をまとめることになった。
たいした作業ではない。配られたプリントをグループごとに分けて、数を確認して、机の上に揃えるだけ。
けれど、クラスの何人かが部活や用事で先に抜けていき、気づけば教室に残っていたのはわたしと玲奈を含めて数人だけになっていた。
さらに、その数人も先生に呼ばれたり、別の教室へ資料を届けに行ったりして、最後にはほんとうに、わたしと玲奈だけが教室に残された。
静かだった。
窓の外は夕方のやわらかい色に変わっていて、教室の中に差し込む光も少しだけ赤みを帯びている。
机を動かす音も、誰かの笑い声もない。
聞こえるのは、紙をめくる音と、遠くの部活の掛け声と、たまに廊下を通る足音だけ。
こんなふうに玲奈と二人きりで、しかも教室が静かなまま時間が流れるのは、案外初めてかもしれなかった。
「あとこれで終わり」
玲奈が言う。
「うん」
最後のプリントを揃えて机の上に置く。
作業は本当にそれだけで終わった。
でも、終わったからといって、すぐに立ち上がる理由もない。二人ともなんとなくその場に残ったまま、窓際の列の机に手をついていた。
沈黙が落ちる。
気まずいわけではない。けれど、何か話さないと余計に意識してしまいそうな沈黙だった。
結局、先に口を開いたのはわたしの方だった。
「……一ノ瀬さんって」
「うん?」
「なんで、そんなにわたしに話しかけるの」
ずっと気になっていたことだった。
何度も聞きかけて、何度も玲奈に軽くかわされてきたこと。
でも、今なら少しだけ、聞いてもいい気がした。
玲奈はすぐには答えなかった。
冗談っぽく笑うでもなく、はぐらかすでもなく、少しだけ考えるみたいに窓の外へ視線を向ける。
その横顔が、夕方の光の中でいつもより大人びて見えて、わたしは無意識に息を止めていた。
やがて、玲奈が言う。
「だって、ましろの隣って落ち着くんだもん」
あまりにも自然な声だった。
特別な告白みたいな言い方じゃない。むしろ、“今日は天気いいね”くらいの当たり前さで口にされた一言。
なのに、その意味だけは、ひどくまっすぐだった。
「……落ち着く?」
「うん」
「わたしの隣が?」
「そう」
玲奈は今度はこちらを見て、少しだけ笑う。
「教室って、なんだかんだ疲れるじゃん」
「それは、まあ」
「みんなと話すのも楽しいよ。友達といるのも好き。でも」
一拍置いて、玲奈は続けた。
「ましろの隣は、ちょっと違う」
ずるい。
ほんとうにずるい。
そういうことを、そんな顔で、そんな静かな声で言うのはずるい。
「違う、って」
「落ち着くし、安心するし」
「……」
「あと、ちゃんとわたしの話聞いてくれる」
「それは、普通じゃない?」
「普通じゃないよ」
玲奈は首を横に振る。
「わたしがちょっとふざけても、ちゃんと返してくれるし。困ってるときは困ってるって顔に出るし。無理してないのがわかる」
「それ、褒めてる?」
「すごく褒めてる」
わたしはもう、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
視線を逸らしたい。逸らしたら負ける気もする。そもそも何に対しての負けなのかもよくわからない。
ただ、胸の奥がじわじわ熱くなるみたいで、落ち着かない。
玲奈はそんなわたしを見て、ふっと目を細めた。
「みんなといるのも楽しいよ」
「……うん」
「でも、ましろの隣はちょっと特別」
「そんな簡単に言わないで」
「簡単に言ってないよ」
「言ってるように聞こえる」
「じゃあ、もっと真面目に言った方がいい?」
困る。
絶対困る。
「それは……やめて」
「じゃあこのままでいい?」
「……それもずるい」
「知ってる」
知ってるんだ。
その事実に、なぜか少しだけ救われる。
玲奈は自分がわたしを困らせていることを、全部わかっていないわけじゃない。わかっている上で、それでも近づいてくる。
そこがまた、だいぶずるい。
「なんでそんなに」
わたしが小さく呟く。
「うん?」
「なんでそんなに、当然みたいに言えるの」
「当然だからかな」
「……」
「だってほんとにそう思ってるし」
玲奈は、答えを急かさなかった。
わたしが何か言い返すのを待つでもなく、ただそこにいて、やわらかく笑っている。
その余裕も、やさしさも、少しだけ悔しい。
でも、嫌じゃない。
嫌じゃないどころか、たぶん、うれしい。
そこまで自覚してしまって、わたしはますます言葉を失った。
教室の窓から入る風が、カーテンを少し揺らした。
夕方の光の中で、その白い布がふわりと動く。玲奈の髪も少しだけ揺れて、その向こうの表情が一瞬やわらかくぼやける。
「また明日も隣、行くね」
玲奈が言った。
最初の朝にも聞いた言葉だった。
でも今は、意味が少し違って聞こえる。
ただ“話しかけに行く”だけじゃない。
ただ“いつもの流れ”をなぞるだけでもない。
その言葉の中には、今日の会話の続きみたいなものがちゃんと含まれている気がした。
わたしは結局、うまく返事ができなかった。
ただ、ほんの少しだけうなずく。
それで十分だったらしい。
玲奈は満足そうに笑って、「帰ろっか」と鞄を持った。
その横顔を見ながら、わたしは思う。
静かに暮らしたかっただけなのに。
目立たず、穏やかに、波風なんて立てずに過ごすはずだったのに。
なのに今は、明日の朝、あの子がまた隣に来ることを――
少しだけ、待っている自分がいた。




