第7話 雨の日、相合い傘は友情の距離じゃない
その日の空は、朝から少しだけ曇っていた。
春の曇り空は、真冬みたいに重苦しくはない。光はやわらかいままで、風も冷たすぎない。ただ、青空の代わりに薄い灰色が広がっているだけで、教室の空気まで少し落ち着いて見える。
わたしは、そういう天気が嫌いじゃなかった。
晴れの日みたいに全部が明るすぎないし、雨の日みたいに気持ちまで引っ張られない。ほどほどに静かで、ほどほどにやさしい。目立たず過ごしたいわたしには、ちょうどいい空模様だ。
……だったはずなのに。
「ましろ、今日ちょっと眠そう」
朝のホームルーム前、玲奈がいつものようにわたしの席へ来て言った。
「そう?」
「うん。まぶたちょっと重そう」
「昨日ちょっと本読んでたから」
「借りたやつ?」
「うん」
「どこまで読んだ?」
「半分くらい」
「いいな。感想聞きたい」
「まだ半分だって言ったばっかりだけど」
「半分まで読んだ人の感想もあるじゃん」
「なんでそんなに細かく感想を回収したいの」
「ましろが何考えてるか気になるから」
「その言い方ほんとよくないと思う」
言いながら、わたしは鞄から教科書を取り出す。
玲奈は相変わらず自然に距離が近い。席替えをしても、結局こうして朝にはわたしのところへ来るし、お昼には一緒にお弁当を食べるし、放課後も気づいたら隣にいることが多い。
それがもう、完全に日常になりつつある。
慣れたくないのに慣れてきてしまっている自分がいて、そこが一番困る。
「今日、帰りどうする?」
玲奈がふいに聞いた。
「どうするって」
「一緒に帰れるかなって」
「……まだわかんない」
「そっか」
「なんでそんなにしょんぼりするの」
「してた?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、できれば一緒がいいなって思ってたのかも」
「軽く言わないで」
「軽くないよ」
「そういうのがだめだって言ってるの」
玲奈は笑う。
その笑顔を見ながら、わたしは小さくため息をついた。
最近、本当にこの人に対するため息が増えた気がする。呆れているのか、困っているのか、その両方なのか、自分でもよくわからない。
ただ、玲奈が何気なく口にする言葉の一つひとつが、思っているよりずっとあとに残ることだけは確かだった。
午前中の授業が終わるころには、空はさらに暗くなっていた。
窓の外を見ると、グラウンドの向こうの木々が、朝より少しだけ色を失って見える。空気が湿っているのが、教室の中にいてもなんとなくわかった。
「降りそう」
前の席の子が窓を見ながら言う。
「ねー。傘持ってきてない」
「わたしも」
「折りたたみあるけど小さいんだよなあ」
そんな会話が聞こえてきて、わたしは鞄の横を確認した。
……ない。
今朝は曇っているだけだと思って、傘を持ってこなかった。家を出るとき、母に「いらないの?」と聞かれた気もするけれど、そのときは「たぶん大丈夫」と答えた記憶がある。
たぶん、はだいたい信じてはいけない。
「ましろ」
玲奈が横から覗きこんでくる。
「傘ある?」
「……ない」
「やっぱり」
「なんでやっぱり」
「そんな気がした」
「予言者?」
「勘がいいだけ」
「それで、一ノ瀬さんは」
「あるよ」
「……そっか」
それはよかった。玲奈が濡れずに済む。
そう思った次の瞬間、自分の思考に少しだけ引っかかった。
なんで最初にそこを心配してるんだろう。自分が傘を持っていないのだから、まず自分の帰り道を気にするべきなのに。
玲奈はわたしの様子を見て、少しだけ楽しそうに口元をゆるめた。
「貸そうか?」
「え?」
「傘」
「いや、それだと一ノ瀬さんが困るでしょ」
「じゃあ一緒に入ればいい」
「……」
「なんで黙るの」
「その発想が一番危険だから」
玲奈はくすくす笑った。
こっちは笑いごとじゃない。
相合い傘、という単語が頭に浮かんだだけで、なんとなく心臓が落ち着かなくなる。まだ降ってもいないのに、先にそんなことを考えるのはよくない。
よくないのに、考えてしまった時点でたぶんもう少しだめなのだ。
昼休みも、いつも通り玲奈と一緒だった。
ただ、今日は二人とも少しだけ外を気にしていた。窓の外の空はさらに重くなっていて、いつ降り出してもおかしくない色をしている。
こはるが廊下からちょっとだけ顔をのぞかせて「先輩、雨っぽいですね」と言い、みおからは昼休みの終わりに「傘持ってる?」と短いメッセージが来た。
どうしてみんなそんなに気にするんだろう。
いや、気遣いだというのはわかる。でも、ここ最近ずっと、わたしの周りにいる人たちは妙にタイミングよくわたしのことを見ている気がする。
それが、うれしいような、落ち着かないような、妙な感じだった。
そして放課後。
六時間目の終わりとほぼ同時に、窓を打つ音が聞こえ始めた。
最初は小さかった。けれど、教室のざわめきの中でもちゃんとわかるくらいにはっきりした音で、次第にその数を増やしていく。
「うわ、降ってきた」
「ほんとだ」
「最悪ー」
「傘ないんだけど」
教室中がいっせいに雨の話題になる。
わたしも窓の方を見る。
ガラスの向こうに、細い雨の筋がいくつも見えた。春の雨らしく、土砂降りというほどではない。でも、傘なしで帰るには十分すぎる。
「……やっぱり」
思わず呟く。
「だと思った」
すぐ後ろから玲奈の声がした。
振り向くと、玲奈は椅子に座ったままわたしを見上げていた。その表情には、困ったね、という感じと、でもどこか少しだけうれしそうな感じが混ざっている。
「お母さんの言うこと聞けばよかった」
「お母さんに言われたんだ」
「なんとなく」
「ふふ」
「そこ笑う?」
「ちょっとかわいいなって」
「何でもかわいいで済ませないで」
そう返しながらも、わたしはどうしようか本気で考えていた。
少し待てばやむかもしれない。でも、春の雨は読めない。長引くこともあるし、むしろ強くなることもある。
学校で時間をつぶすにしても、もう夕方だ。図書室も閉まる時間が近いだろうし、教室にずっと残るのも微妙だ。
そして、わたしがぐるぐる考えている間にも、クラスメイトたちは次々と帰る準備を進めていく。友達同士で傘に入れてもらう子もいれば、折りたたみ傘を広げて見せ合う子もいる。
わたしはその流れに乗れず、鞄の取っ手を持ったまま立ち尽くしていた。
「ましろ」
玲奈が椅子から立ち上がる。
「うん」
「帰ろっか」
「……傘ないって言ったよね」
「あるよ、わたしは」
「だからそれだと」
「一緒に入ればいいじゃん」
「だからそれが」
「嫌?」
その聞き方は、ずるい。
嫌かどうかで答えようとすると、答えにくくなるのを知っていて聞いているみたいだ。玲奈はたぶん無意識なんだろうけど、無意識だから余計にたちが悪い。
「嫌っていうか……」
「うん」
「……恥ずかしい」
「相合い傘が?」
「口に出さないで!」
教室の中でその単語をはっきり言われると、余計にだめだ。
玲奈はあわてて「ごめんごめん」と笑ったけれど、反省しているようには全然見えない。
しかも、その笑い方が妙に楽しそうで、こっちばっかり意識しているみたいで悔しい。
「でも、ほんとにそれしかなくない?」
「……まあ」
「わたしは全然いいよ」
「一ノ瀬さんがよくても」
「ましろが嫌なら別だけど」
「……」
言葉に詰まる。
嫌ではない。
そこがもうだいぶ問題だと思う。
雨音は少しずつ強くなっている。教室に残っていた生徒も、気づけばだいぶ少なくなっていた。今さら誰かに傘を借りるのも変だし、ここでずっと悩んでいても雨はやまない。
わたしは小さく息を吐いて、負けを認めるみたいに言った。
「……途中までなら」
「うん」
「ほんとに途中まで」
「うん」
「必要以上に近づかないで」
「努力する」
「今“守る”じゃなかった」
「だって傘小さめだし」
「最初から詰んでるじゃん……」
玲奈は笑いながらロッカーから傘を取り出した。
紺色の、シンプルな傘だった。派手ではないけれど、玲奈が持つとそれすらなんとなくきれいに見えるのがずるい。
二人で昇降口へ向かう。
廊下を歩く間、わたしは妙に無口だった。玲奈はそれに気づいているはずなのに、珍しくあまり話しかけてこない。
その代わり、歩幅だけはきちんと合わせてきた。
昇降口には、雨で帰れなくなった生徒が何人か残っていた。友達を待っている子、スマホで連絡をしている子、傘を開くタイミングを見計らっている子。
そんな中で玲奈が傘を開く。
雨の匂いがふわっと広がった。濡れた地面の冷たい匂いと、春の空気が混ざった匂い。
「行こ」
「……うん」
傘の下に入る。
その瞬間、思っていた以上に近かった。
「……近い」
「言うと思った」
「だってほんとに近い」
「だから傘小さいって言ったのに」
「言われたけど」
「じゃあしょうがないね」
「しょうがなくない気がする」
でも、雨に濡れないためには、この距離しかない。
玲奈が傘を持つ手を少し高く上げる。その動きに合わせて、わたしも自然に玲奈の方へ寄る形になる。肩が触れそうで触れない、でもたぶん歩いているうちに時々触れてしまうくらいの距離。
心臓に悪い。
校門を出るころには、雨脚は少しだけ強くなっていた。傘を打つ音が一定のリズムで続いていて、周囲の声をやわらかく遠ざける。
そのせいだろうか。
いつもの帰り道なのに、世界が少しだけ小さくなったみたいに感じた。
傘の外には雨。
傘の内側には、わたしと玲奈だけ。
そんなふうに意識してしまった瞬間、余計にだめになる。
「寒くない?」
玲奈が聞いた。
「大丈夫」
「ほんと?」
「うん」
「濡れてない?」
「たぶん」
言いながら、自分の肩をちらっと見る。外側の袖が少しだけしっとりしていた。けれど、それは今の雨なら仕方ない程度のものだ。
玲奈はそれを見て、ほんの少しだけ傘をわたし側に傾けた。
「ちょっと」
「ましろの方、濡れてた」
「一ノ瀬さんが濡れるでしょ」
「わたしはいいの」
「よくない」
反射的にそう言うと、玲奈が少しだけ笑った。
「そういうとこ」
「なに」
「やさしい」
またそれだ。
でも今は、言い返す余裕があまりなかった。
玲奈との距離が近すぎて、会話に集中できない。腕がかすかに触れるたび、雨音と一緒に心臓が大きく鳴る気がする。
玲奈はしばらく黙って歩いていた。
珍しい。
いつもなら、もっと何か話題を見つけてくる。今日食べたお弁当の話とか、授業中のどうでもいい出来事とか、みおのあの一言面白かったねとか、そういう軽い話を途切れずに繋いでくるはずなのに。
でも今は、ただ静かに隣を歩いている。
その静けさが、逆に落ち着かない。
「……一ノ瀬さん」
「ん?」
「今日は静かだね」
「そう?」
「そう」
「雨の音、嫌いじゃないから」
「……ああ」
「ましろは?」
「嫌いじゃない」
「そっか」
それだけの会話。
それなのに、妙にやわらかく胸に残る。
しばらくして、玲奈がまたぽつりと話し始めた。
「前から、気になってたんだよね」
「……なにが」
「ましろのこと」
足が止まりかけた。
でも雨の中で立ち止まるわけにもいかなくて、わたしはそのまま歩き続ける。
耳だけが、はっきりと玲奈の声を拾っていた。
「なんで」
やっとそれだけ返す。
「なんでだろ」
「そこは考えてから言って」
「うーん……」
玲奈は少しだけ空を見た。傘の縁越しの灰色を。
「最初は、静かな子だなって思った」
「それはよく言われる」
「でも、静かなだけじゃなかった」
「……」
「ちゃんと周り見てるし、誰かが困ってたらさりげなく手伝うし、自分のことは後回しにするし」
そんなふうに見られていたなんて、思わなかった。
わたしは目立たないようにしていただけだ。余計なことを言わず、余計な波を立てず、その場をやり過ごしていただけ。
でも玲奈は、それをちゃんと見ていたと言う。
「話してみたかった」
玲奈が続ける。
「けど、なんかタイミングなくて」
「……」
「で、新学期になって、同じクラスになったから」
「それで?」
「今だ、って思った」
わたしはもう、何を返したらいいのかわからなかった。
雨音が近い。
傘に当たる音も、アスファルトを濡らす音も、全部が近い。
その中で聞く玲奈の声は、いつもよりずっとまっすぐだった。
教室での軽さも、昼休みのいたずらっぽさもない。ただ、やわらかくて、少しだけ本音に近い声。
「……わたしのこと、そんなに見てたの」
ようやく出た言葉は、それだった。
「うん」
「なんで」
「気になるから」
「またそれ」
「でもほんとだよ」
玲奈は笑わなかった。
笑わないで言われると、冗談だと流せなくなる。
わたしはますます困って、視線を前に固定した。
そのとき、濡れた歩道の少し盛り上がった部分に足を取られそうになった。
「わっ」
「ましろ!」
次の瞬間、手をつかまれていた。
玲奈の手だった。
転びそうになったのを支えようとして、とっさに握ったのだとわかる。わかるのに、その瞬間の感触があまりにもはっきりしていて、頭の中が一瞬真っ白になった。
温かい。
雨の日なのに、手のひらがちゃんと温かい。
「大丈夫?」
「……だい、じょうぶ」
「よかった」
玲奈はそう言ったけれど、すぐには手を離さなかった。
たぶん、わたしがまだ完全に立て直せていないと思ったのだろう。ほんの一瞬、でも確かに、そのまま支えるように握っていた。
だめだ。
これはほんとうにだめだ。
友情とか、クラスメイトとか、そういう距離の説明では追いつかない。
「……もう平気」
小さく言うと、
「うん」
玲奈も小さく返して、ようやく手を離した。
離れたあとの方が、余計にその感触が残るのはどうしてなんだろう。
わたしはもう、自分の手をどうしていいかわからなくて、借りた本が入った鞄の持ち手をぎゅっと握った。
しばらくは、お互いに何も言わなかった。
でも、気まずいわけじゃなかった。
気まずいよりずっと近い、変な静けさだった。
雨は変わらず降っている。傘の下の距離も、さっきとほとんど同じまま。なのに、何かが少しだけ変わってしまった感じがする。
そして、それを一番意識しているのは、たぶんわたしの方だった。
やがて、分かれ道が近づいてきた。
ここから先は、家の方向が少し違う。いつもなら「じゃあまた明日」で終わる距離だ。
でも今日のその言葉は、いつもより少しだけ言いにくかった。
玲奈が先に立ち止まり、わたしの方を見る。
「ここまでだね」
「……うん」
「送れたらよかったんだけど」
「十分だから」
「ほんと?」
「うん」
ほんとうに、十分すぎるくらいだった。
玲奈は少しだけ名残惜しそうに傘を持ち直す。
「またこうやって帰れたらいいのに」
「……雨の日?」
「それもあるけど」
「それも?」
「一緒に、ってこと」
そう言って、玲奈はやっと笑った。
いつもの、明るい笑顔に少しだけ戻った笑い方だった。けれど、その言葉だけはさっきまでの静かな空気を引きずっていて、軽く聞き流すには少しだけ近すぎた。
「じゃあ、また明日」
「……また明日」
玲奈は傘を少し傾けて手を振り、そのまま雨の中を歩いていく。
わたしはしばらくその背中を見送ってから、自分の家の方へ歩き出した。
雨はまだやんでいない。
けれど、わたしの中では、さっきまでの雨音よりもはっきり残っているものがあった。
気になっていた。
話してみたかった。
今だと思った。
またこうやって帰れたらいいのに。
それに、あの手。
家に着いて、玄関で靴を脱いでも、部屋で鞄を置いても、制服の袖を整えても、どうしてもそこばかり思い出してしまう。
自分の手を見る。
もちろん、もう何も残っていない。温度も、感触も、もうただの記憶のはずなのに。
「……あれを」
ぽつりと声に出す。
あれを、普通だと思えるほど、わたしは器用じゃない。
ただのクラスメイトなら。
ただの友達なら。
ただの人気者と地味な子、というだけなら。
こんなふうに、一つひとつの言葉や、ほんの一瞬の接触を、帰ってからまで引きずったりしない。
しないはずだ。
なのに、している。
ベッドの端に腰かけて、小さく息を吐く。
雨の音はまだ窓の外に続いていた。
でも、わたしの胸の内側で鳴っている音の方が、今はよほどやっかいだった。




