第6話 席替えは、静かな戦争になる
幼なじみの藤咲みおが教室に現れて、勝手に状況をかき回していった翌日。
朝、目が覚めた瞬間にわたしが最初に思ったのは、
今日こそ静かに過ごしたい
だった。
切実である。
ここ数日で起きたことを順番に思い返してみても、明らかに密度がおかしい。
学年でも有名な人気者、一ノ瀬玲奈に毎朝のように話しかけられ、お昼は当然みたいに一緒に食べるようになり、生徒会副会長の篠宮冬華先輩には意味深なことを言われ、図書室で会った後輩の朝比奈こはるにはまっすぐ懐かれ、最後には幼なじみのみおが全部知ってる顔で登場した。
情報量が多すぎる。
高校生活って、こんなにイベントが連続するものだったっけ。
少なくとも、わたしの想定していた「目立たず穏やかに過ごす二年生」には、こういう展開は一切含まれていなかった。
だから今日は、静かにいきたい。
玲奈が朝から来ても、なるべく平常心で。
みおがまた来ても、必要以上に反応しない。
新しい誰かが出てきても、深呼吸して対処する。
そう心に決めて教室の扉を開けて――わたしは、そこで嫌な予感を覚えた。
教室の前方、担任の机の近くに、見慣れない紙が貼られている。
しかも、その周りにすでに人が集まり始めている。
「……うそ」
思わず声が漏れた。
だいたいこういうときにろくなことはない。むしろ、学校生活において“人が集まってざわつく掲示物”は、かなりの確率で平穏の敵だ。
そして、わたしの予感はだいたい当たる。
「ましろ、おはよ」
後ろから玲奈の声がする。
「おはよう……」
「なにその顔」
「嫌な予感がしてる」
「え、なに、もしかしてあれ?」
玲奈も教卓の前を見て、すぐに意味を理解したらしい。
目を細めて、少し楽しそうに笑う。
「席替えだ」
「……やっぱり」
「そんなに嫌?」
「嫌というか、落ち着かない」
「そっか」
そっか、じゃない。
席替えというのは、クラスの空気がざわつくイベント上位常連である。仲のいい子の近くになれるかどうか、好きな人の近くになれるかどうか、窓際がいいとか前は嫌だとか、いろんな思惑が飛び交う。
そういうのに巻き込まれたくないわたしからすると、できれば一生避けて通りたい行事だ。
しかも、今のわたしには別の問題もある。
もし席が大きく変わったら、玲奈との距離も変わる。
そのことに気づいた瞬間、自分でもいやになるくらい落ち着かなくなった。
別に、離れたら困るわけじゃない。むしろ少し距離ができた方が、平穏は戻るかもしれない。
なのに、そう思い切れない自分がいる。
「ましろ?」
「……なに」
「なんかすごい複雑そうな顔してる」
「してない」
「してる」
「最近そればっかり」
「だってほんとなんだもん」
玲奈はそう言いながら、当然のようにわたしの隣へ来た。
この人は、席替えがあると知ってもなお、まったく距離感がぶれない。ぶれないどころか、むしろちょっとだけ機嫌がいい気さえする。
「一ノ瀬さんは、席替えどうでもいいの?」
「どうでもよくはないかな」
「へえ」
「だって、近いほうがいいし」
「……何が」
「ましろと」
朝から重いことを言わないでほしい。
しかも本人は重いと思っていない顔をしているから余計に厄介だ。
「そういうの軽く言うのやめて」
「軽くないよ」
「じゃあもっとだめでしょ」
「えー、なんで」
「なんでって……」
そこで言葉に詰まってしまう自分が悔しい。
わたしがうまく返せずにいるうちに、教室のあちこちで「席替えかー」「どこがいい?」「最悪前だけは無理」みたいな声が飛び始めた。
賑やかだ。
そして、なんとなく視線も感じる。
たぶんもう、クラスの中では「席替えで一ノ瀬さんと小日向さんがどうなるか」が、ちょっとした見どころになっている気がする。
やめてほしい。
ほんとうにやめてほしい。
始業のチャイムが鳴り、担任が入ってきた。ホームルームの連絡をいくつか済ませたあと、案の定、席替えの話になった。
「さて、新学期入って少し経ったし、そろそろ席替えするか」
クラスのあちこちで歓声とため息が混ざる。
担任は慣れた様子で言った。
「文句なしのくじ引きな。平等にいくぞー」
終わった。
いや、始まる前から終わったと言うのもおかしいけれど、少なくともわたしの心はかなり終わりに近い状態だった。
玲奈が横から小声で言う。
「くじかあ」
「そうだね」
「運よかったら近くなる」
「運が悪かったら離れるね」
「その言い方、ちょっと寂しくない?」
「一ノ瀬さんがそう聞こえるように受け取ってるだけでは」
「じゃあ寂しいってことにしておく」
「しないで」
この状況でそういう会話をするのは心臓に悪い。
くじ引きは、一人ずつ箱から番号の紙を引いていく形式だった。担任が黒板に簡単な座席表を書き、番号と席を対応させていく。
前から順に呼ばれていく中で、教室のざわめきはどんどん大きくなる。
「やった、窓側!」
「えー前じゃん……」
「うわ最悪」
「近いじゃん!」
そういう声があちこちから上がるたび、わたしの胃が少しずつ痛くなってくる気がした。
こういうのは本当に苦手だ。
そして、わたしが引いた番号は――
「……中段、真ん中寄り」
最悪ではない。けれど、今の席よりは少しだけ目立つ位置だ。
あと、玲奈との距離はまだわからない。
わたしが微妙な気持ちで座席表を見つめていると、後ろの方から玲奈の声がした。
「どうだった?」
「……まあまあ」
「まあまあってことは、そんなによくないんだ」
「一ノ瀬さんは?」
「まだ」
玲奈はわたしの手元の番号をのぞきこんでから、にこっと笑った。
「じゃあ、近いといいね」
「……」
「今、否定しなかった」
「そんな余裕なかっただけ」
「ほんとかな」
ほんとだ。たぶん。
でも、その“たぶん”が少し曖昧になっていることに、自分で気づいてしまう。
そのとき、教室の前扉が軽くノックされた。
担任が「どうぞ」と返すと、そこに立っていたのは――
「失礼します。先生、文化祭の委員会資料を」
篠宮冬華先輩だった。
どうしてこのタイミングなの。
わたしは反射的に背筋を伸ばした。冬華先輩はいつも通り静かな表情で教室に入り、担任へ書類を渡す。その動きは落ち着いていて無駄がなく、いつ見ても空気の密度が少し変わる気がする。
クラスの何人かが「副会長だ」と小声でささやくのが聞こえた。
まあ、そうなるよねと思う。
冬華先輩は目立つ。玲奈とは別の意味で。
派手ではないのに、視線を引く。
そして――その視線が、一瞬だけこちらに向いた。
ほんの一瞬。
でも、たぶん気のせいではない。
先輩の視線はわたしと、それからその横にいる玲奈を軽くなぞるように通って、すぐに離れた。
「助かる、篠宮」
「いえ。それでは失礼します」
必要なことだけを言って、冬華先輩は教室を出ていく。
静かな登場と退場だったのに、なぜか妙に印象が残った。
「……来たね」
玲奈が小さく言う。
「何が」
「副会長」
「資料届けに」
「それは見ればわかる」
「じゃあ何を言ってるの」
「タイミング」
「たまたまでしょ」
「そうかな」
「そうだと思うけど」
玲奈は何か言いたげだったけれど、その前に担任が「じゃあ次、一ノ瀬」と呼んだ。
玲奈がくじを引く。
教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
たぶんみんな気にしている。玲奈がどこになるか。そして、わたしの近くなのかどうか。
……わたしまで気にしてしまっている時点で、もうだいぶ負けている気がする。
玲奈は紙を開いて、ほんの一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「どうだった?」
誰かが聞く。
「まあまあかな」
玲奈がそう答える。
その言い方が、さっきのわたしと同じだった。
戻ってきた玲奈が、わたしの耳元で小さく言う。
「二つ斜め後ろ」
「……近いね」
「うん、近い」
うれしそうだ。
どうしてそんなに素直にうれしそうになれるんだろう。
わたしの方は、ほっとしたことをごまかすので精一杯だというのに。
「よかった」
玲奈がぽつりと言う。
「何が」
「近くて」
「……」
「また否定しない」
「今はそれどころじゃないだけ」
「そういうことにしておいてあげる」
なにその上から目線。
でも、語尾のやわらかさのせいで、嫌味には全然聞こえなかった。
むしろ、ちゃんと喜ばれていることが伝わってしまって困る。
席替えが一通り終わり、みんなが自分の新しい席へ移動し始める。
机を運ぶ音、椅子の音、席が近くなった子同士の声。教室はしばらく騒がしかった。
わたしも新しい席へ移動する。
前より少しだけ真ん中寄り。視界が開けるぶん落ち着かないけれど、最悪ではない。少なくとも前列じゃないだけ救いだ。
そして、斜め後ろを見る。
玲奈が、ほんとうにそこにいた。
机を運び終えたところでこちらに気づいて、にこっと笑う。
その瞬間、なんだか変に安心してしまった。
……だから、そういうのはやめてほしい。
「小日向さん、そこなんだ」
近くの席になった女子が話しかけてくる。
「う、うん」
「一ノ瀬さん近いね」
「……そうだね」
それ以上どう返していいかわからず曖昧に笑うと、その子も深くは追及せずに「あたしもこの辺でよかった」と席の話に戻った。
助かった。
でも一方で、“玲奈が近いこと”が、もう特別に説明の要ることとして周囲に認識されているのだと改めて感じてしまって、少しだけ複雑だった。
その日の授業中、前より少しだけ後ろからの気配を意識した。
視線、とまでは言わない。
けれど、玲奈がそこにいるとわかっているだけで、妙に落ち着かないのだ。
たとえばノートを取っていても、消しゴムを落としたりすると、玲奈が拾ってくれそうな気がしてしまう。窓の外を見るときも、ふと振り向けば目が合うんじゃないかと思ってしまう。
実際、三時間目の終わりに一度、後ろを向いた拍子に目が合った。
玲奈は何も言わず、ただ口元だけで小さく笑ってみせた。
それだけで心臓が余計にうるさくなるのだから、ほんとうに困る。
昼休みには、当然のように玲奈がこちらへやって来た。
「席替えしても、結局来るんだ」
「行っちゃだめ?」
「だめとは言ってない」
「じゃあいいじゃん」
「その理屈いつもずるい」
「ずるいかな」
玲奈はそう言いながら、今日は少しだけ後ろの席から身を乗り出すようにしてわたしの机に肘をついた。
位置が変わると、それはそれで新鮮だ。
近いことには変わりないのに、これまでと角度が違うだけで妙に意識してしまう。
「ましろ、席どうだった?」
「まあまあ」
「わたしと同じ言い方」
「そっちが真似したんでしょ」
「でも、お互い“まあまあ”なら、相性よかったのかもね」
「なんの」
「くじの」
「急に運命っぽく言わないで」
玲奈は笑う。
その笑い声を聞きながら、わたしはお弁当の蓋を開けた。
気づけば、このやり取りもかなり日常みたいになっている。
前ならありえなかったはずだ。
静かに食べて、静かに過ごすだけだった昼休みに、こうして毎日のように誰かがいる。
しかも、その相手が玲奈であることに、わたし自身が少しずつ慣れてきている。
それを認めるのは悔しいのに、否定しきれないところまで来ているのも事実だった。
午後の授業が終わって、放課後。
新しい席での一日がようやく終わった、とわたしが小さく伸びをしたとき、教室の前扉からひょこっと顔を出した人物がいた。
「あ、ましろ先輩!」
朝比奈こはるだ。
なんでそんなにタイミングよく来るんだろう、この子も。
こはるはきょろきょろと教室の中を見て、わたしを見つけるとぱっと顔を明るくした。
「席替えしたんですね!」
「したけど……なんで知ってるの」
「廊下でみんな言ってました!」
「情報が早い」
「それで、どこになったのかなって」
「そこまで気になる?」
「気になります!」
即答だった。
しかも悪気がまったくない。
こはるはそのまま教室の中へ半歩ほど入ってきて、わたしの新しい席を見た。
「ここなんですね。前よりちょっと真ん中」
「そうだけど」
「へえ……」
「何その観察」
「先輩のことだから気になります」
「やめて、そういう言い方」
「え、だめでしたか?」
「だめっていうか、心臓に悪い」
「じゃあすみません!」
謝るならやめてほしいのに、こはるの場合、それすらも素直すぎて怒れない。
そこで、斜め後ろから玲奈の声がした。
「こはるちゃん」
うわ、と思ったのはたぶん顔に出ていた。
こはるもぴしっと背筋を伸ばす。
「い、一ノ瀬先輩」
「来てたんだ」
「はいっ。ちょっとだけ……」
「そっか」
玲奈はにこにこしている。にこにこしているのに、何だろう、この微妙な緊張感。
前にも思ったけれど、玲奈とこはるが同じ場にいると、空気が少しだけ“やわらかい牽制”になる。
「先輩、席替え近かったんですね」
こはるが素直に言う。
「うん、近いよ」
玲奈も笑って返す。
「いいなあ」
「こはるちゃんは別クラスだもんね」
「そうなんです……」
こはるは本気で残念そうだった。
なんだろう、この会話。
わたしの席をめぐる話をされているのに、わたし本人は完全に置いていかれている。
「……ちょっと待って」
思わず口を挟む。
「なんで二人で、わたしの周りの席事情について話してるの」
「だって気になるし」
玲奈。
「わたしも気になります!」
こはる。
声を揃えないでほしい。
わたしが頭を抱えそうになっていると、そこへさらに追い打ちのように、前の廊下から落ち着いた声が届いた。
「小日向さん」
……うそでしょ。
ゆっくり振り向くと、そこにいたのは篠宮冬華先輩だった。
なんで。
なんで今日に限って、みんな揃うの。
冬華先輩は教室の前に立ったまま、わたしを見ている。その視線の先で、こはるが緊張し、玲奈がほんの少しだけ目を細めた。
「先生に頼まれていた委員会の確認です。少しだけいいですか」
「あ、はい……」
助かったような、助かっていないような返事をして、わたしは立ち上がる。
そのとき、背後から玲奈が小さく言った。
「……ほんとに来るんだ」
「え?」
「ううん、なんでもない」
なんでもない顔をしているけれど、絶対になんでもなくない。
でも、今それを追及する余裕はなかった。
冬華先輩の方へ歩いていく途中で、ちらっと後ろを見ると、こはるは完全に圧倒された顔をしていたし、玲奈は笑っているのに目だけ少しだけ真剣だった。
なんなんだろう、この状況。
席替えひとつで静かな戦争になるって、こういう意味だったのかもしれない。
席の距離。
立ち位置。
放課後に誰が来るか。
誰がどこまで自然に踏み込めるか。
そういうもの全部が、少しずつ、でも確実に“わたしの周り”で動いている。
その中心に、自分が立っていることがいまだに信じられない。
だけど。
ほんの少しだけ、思ってしまう。
新しい席から見える景色は、前よりずっと騒がしくて、落ち着かなくて、平穏とはほど遠い。
それでも、前より少しだけ――退屈じゃない。




