第4話 後輩はまっすぐで、だから危ない
篠宮冬華先輩に会ってからというもの、わたしの中で学校の景色が少しだけ変わって見えるようになった。
……いや、少しだけ、ではないかもしれない。
今までは、教室と廊下と購買と、たまに図書室。高校生活の行動範囲なんて、そのくらいのものだった。目立たないように、無理しないように、できるだけ穏やかに。その範囲の中で静かに毎日をやり過ごしていけばいいと思っていた。
でも今は、そこに新しい意識が増えてしまった。
生徒会室の前を通ると、なんとなく足が止まりそうになる。
休み時間に誰かが「副会長がさ」と話していると、つい耳が向く。
そして何より、一ノ瀬玲奈が「ましろ、聞いてる?」と顔を覗き込んでくる頻度が、日に日に増している。
「聞いてる」
「ほんとに?」
「……半分くらい」
「半分しか聞いてないじゃん」
朝のホームルーム前、わたしの席の横で玲奈がわざとらしく頬をふくらませる。
なんでそんな顔が似合うんだろう。
人気者って、もっとこう、なんでも器用にこなす余裕のある生き物だと思っていた。けれど玲奈は、そういう“完成された人”というより、好奇心と行動力でできているみたいなところがある。
だからたぶん、こちらの心の準備なんて待ってくれない。
「ましろ、最近考えごと多いよね」
「そう?」
「うん。ぼーっとしてること増えた」
「……誰のせいだと思ってるの」
「わたし?」
「かなり」
「嬉しい」
どうしてそこで嬉しそうになるの。
わたしがため息をつくと、玲奈はくすくす笑ったあと、机の上に頬杖をついた。
「で、昨日の帰り道の続きなんだけど」
「続き?」
「篠宮先輩、ほんとに変なこと言ってなかった?」
「変なことっていうか……」
わたしは少し言葉を選ぶ。
「なんか、一ノ瀬さんのこと、ちょっと意味深に言ってたかも」
「ほら」
「ほら、って」
「だから気をつけてって言ったのに」
「いや、気をつけるって何を」
「うーん……」
玲奈はなぜか少し考え込む。
「なんか、あの人って静かにいろいろ持ってくタイプだから」
「物理的に?」
「違うよ」
「じゃあ何」
「……ましろ、そういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「真面目に聞くとこ」
真面目に聞いて何が悪いんだろう。
玲奈はそれ以上ちゃんと説明する気がないらしく、「まあいいや」と軽く流してしまった。こっちはよくない。気になる。けれど、追及したところでまたはぐらかされるのが目に見えている。
最近、わたしはこの“説明されないまま置いていかれる感覚”に少しずつ慣れてきてしまっていた。
それもどうかと思う。
昼休みには、今日も玲奈が当然のようにわたしの机に来た。もうここまでくると、周りのクラスメイトたちも完全に「そういうもの」として受け入れ始めている気がする。
いや、受け入れないでほしい。慣れられるとそれはそれで困る。
「今日、購買のパンもらったんだ」
「誰に」
「友達」
「人気者だね」
「皮肉?」
「ちょっとだけ」
「でも、ましろのお弁当の方が好き」
「そんな軽く言わないで」
「軽くないよ」
軽い。
絶対軽い。
たぶん玲奈にとって“好き”はかなり日常的な言葉なのだ。可愛いものにも、美味しいものにも、気に入ったものにも、躊躇なく使う。その延長でわたしにも向けてくる。
わかっている。わかっているはずなのに、そのたびに心臓がびくっとするのはどうにかならないものだろうか。
そして、その日の放課後。
授業が終わって少しだけ時間が空いたので、わたしは図書室へ向かっていた。
借りていた本を返さなければいけなかったし、ついでに新しい本も見たかった。図書室は、学校の中で数少ない、わたしがちゃんと深呼吸できる場所のひとつだ。
教室の賑やかさも、廊下のざわめきも、あそこに入ると少し遠くなる。
静かで、落ち着いていて、本の匂いがする。
それだけでだいぶ救われる。
本を返して、軽く棚を眺めて、気になっていた短編集を一冊借りたころには、校内はだいぶ放課後らしい空気になっていた。
窓の外から運動部の掛け声が聞こえる。図書室を出ると、さっきまでの静けさが嘘みたいに、世界に音が戻ってきた。
借りた本を胸の前に抱えたまま、階段へ向かう。
そのときだった。
「あ、あのっ!」
後ろから、少し高めの、でもよく通る声が聞こえた。
反射的に振り返る。
階段の踊り場の手前に立っていたのは、一年生の制服を着た小柄な女子だった。
短めのやわらかそうな髪。くりっとした目。小動物みたいに落ち着きなく、でもまっすぐこちらを見ている。
見覚えは、ある。
廊下や購買の近くで、何度か見かけたことがあった。たしか同じ図書委員だったかもしれない、と思ったけれど、そこまで確信はない。
「……えっと、わたし?」
「は、はいっ! 小日向先輩、ですよね?」
先輩。
その呼び方に一瞬戸惑う。そういえば、一年生から見ればわたしはちゃんと先輩だった。
「そう、だけど」
「よかったぁ……!」
その子は目に見えてほっとした顔をした。
そんな反応をされるような心当たりはない。わたしはますます混乱する。
「えっと……」
「す、すみません、いきなり呼び止めて」
「いや、それは別に大丈夫だけど」
「でもやっぱり近くで見るとほんとにそうだ……」
「……そうって?」
「小日向先輩だって」
当たり前である。
けれど彼女は本気で感動しているような顔だった。
「あの、わたし、一年の朝比奈こはるっていいます」
「あ、どうも……小日向ましろです」
「知ってます!」
元気よく言い切られて、わたしは少しだけのけぞった。
知ってます、って。
最近その手のことが増えている気がする。玲奈にしろ冬華先輩にしろ、どうしてみんなわたしを普通に認識しているんだろう。わたしはもっと背景みたいな存在でいたいのに。
こはる――朝比奈さんは、もじもじと指先を合わせながらも、目だけはきらきらしていた。
「あの、ずっと話してみたかったんです」
「……わたしと?」
「はい!」
間違いなくわたしらしい。
そのことに一番驚いているのはわたしだ。
「なんで……?」
「図書室でよく見かけるので」
「図書室」
「はい。静かに本読んでる感じ、すごく素敵だなって思ってて」
素敵。
そんな言葉を人生で自分に向けられることがあると思わなかった。
あまりに予想外で、どう返したらいいのかわからない。わたしが固まっていると、こはるは慌てたようにぶんぶん首を振った。
「あ、変な意味じゃなくて! いや、変じゃなくて、その、へ、変じゃないんですけど!」
「落ち着いて」
「はいっ」
返事は元気なのに、全然落ち着いていない。
でも、なんというか。
悪い子ではなさそうだった。むしろ、びっくりするくらい素直で、思ったことが顔にも声にも全部出てしまうタイプなんだろう。
「……えっと、ありがとう」
「こちらこそありがとうございます!」
「いや、お礼言われることした?」
「話してくれたので」
「まだそんなに話してないけど」
「でも嬉しいです」
まっすぐだ。
玲奈の距離感バグとはまた違う意味で、この子も危ない。こっちが構える暇もなく、真正面から好意的な言葉を投げてくる。
しかも、それを計算でやっていない感じが強い。
わたしが返事に困っていると、こはるはふいに、借りた本へ目を落とした。
「それ、面白いですか?」
「まだ借りたばっかりだから、読んでないけど」
「あ、短編集なんですね」
「うん」
「いいですよね、短編集。ちょっとずつ読めるし」
「……好きなの?」
「好きです!」
こはるはぱっと顔を明るくした。
「わたし、長い話も好きなんですけど、短編集って一個一個空気が違うのが楽しくて」
そこからのこはるは早かった。
好きな作家の話。最近読んだ本の話。図書室の新刊コーナーの話。さっきまで緊張していたのが嘘みたいに、話題が本に移った瞬間、言葉がすらすら出てくる。
しかも、ちゃんと会話になる。好きなものの話をしている人特有の熱はあるのに、押しつけがましさはなくて、純粋に楽しそうなのだ。
わたしも少しずつ肩の力が抜けていった。
「……じゃあ、図書室で何回か見たことあるっていうのは、本当なんだ」
「本当です」
「それで声かけようと思ってたの?」
「ずっと思ってました」
「ずっと」
「はい。でもタイミングがなくて」
こはるは少しだけ頬を赤くして笑った。
「あと、思ってたよりずっとかわいいです」
「…………え?」
「すみません、でも本当に」
だめだ。
今日はそういう日なんだろうか。
玲奈の“好き”に心臓を振り回され、冬華先輩の静かな視線に落ち着かなくなり、今度は初対面に近い後輩から“かわいい”と言われる。
情報量が多すぎる。
「か、かわいいとか、簡単に言わない方がいいと思う」
「え、だめでしたか?」
「だめっていうか……慣れてないから」
「じゃあ先輩、慣れてない顔してます」
「それ今言う?」
「でもその顔もかわいいです」
「やめて」
思わず顔を手で隠す。
こはるは「あっ、すみません!」と言いながらも、あまり反省していない顔だった。というか、むしろ本気で思ったから口に出してしまった、という感じがする。
こういうタイプが一番対処に困る。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
軽やかで、聞き慣れた足音。
「ましろ?」
ぎくっとして顔を上げる。
そこにいたのは、やっぱり玲奈だった。
どうしてこの人はこう、毎回タイミングがいいのか悪いのか微妙なところで現れるんだろう。
「ほんとにいた」
「……いたけど」
「図書室って言ってたから、もしかしてと思って」
玲奈はそう言いながらこちらへ来て、こはるに気づいた。
「あれ、一年生?」
「は、はいっ!」
こはるの背筋がしゃんと伸びる。
さっきまでの自然体とは違う、先輩相手のわかりやすい緊張だ。玲奈はそれを見て、やわらかく笑った。
「こんにちは。どうしたの?」
「あ、あの、小日向先輩と少しお話してて……」
「へえ」
その“へえ”が、ほんの少しだけ長かった気がした。
玲奈はわたしとこはるを見比べて、それからにっこりする。
「そっか。ましろ、後輩にも人気なんだ」
「いや、人気っていうか」
「図書室つながり?」
「そう、です!」
こはるは素直にうなずいた。
「小日向先輩、すごく優しくて、かわいくて……」
「こはるちゃん」
「はいっ」
「かわいいって言った?」
「言いました!」
なぜそんなに誇らしげなの。
玲奈は笑っている。笑っているのに、なんだろう。この空気。
ほんの少しだけ、教室で冬華先輩の話が出たときと似ている。にこにこしているのに、その奥に薄く熱がある感じ。
「へえ。ましろ、よかったね」
「なにが」
「褒められてる」
「……うれしがる余裕はない」
「でも実際かわいいし」
「そこで参戦しないで」
「参戦って言い方、面白いね」
面白くない。
わたしはすでにいっぱいいっぱいなのに、玲奈は楽しそうだし、こはるはきらきらしているし、廊下を通る人がまたちらっとこっちを見ていくしで、落ち着く要素がどこにもない。
こはるはそんな空気に気づいているのかいないのか、わたしの袖のあたりを見て、ぱっと顔を明るくした。
「あ、先輩、それ図書室の貸出票ですよね」
「え? あ、うん」
「やっぱり。わたしもさっき本返してきたんです」
「そうなんだ」
「はい。だから今日こそ声かけようって思って……」
そこまで言ってから、こはるは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「勇気出したので、今ちょっと達成感あります」
「……それは、よかった」
「はい!」
玲奈が、横から小さく息をついた。
「まっすぐだなあ」
「え?」
「こはるちゃんが」
「はい! よく言われます!」
「だろうね」
玲奈の声は明るい。
明るいのに、やっぱり少しだけおかしい気がする。いや、たぶん“おかしい”んじゃなくて、わたしが最近、玲奈の機嫌の細かい変化に気づくようになってしまっただけなのかもしれない。
それもそれで、あまり認めたくない事実だった。
「朝比奈さん」
「はいっ」
「また話しかけてもいい?」
「……えっ」
今度はこはるが固まる番だった。
丸い目をさらに丸くして、ほんの一瞬、信じられないものを見る顔をする。
「え、わたしに?」
「他に誰が」
「い、いいんですか?」
「だめなら聞かない」
「だめじゃないです! 全然だめじゃないです!」
勢いがすごい。
こはるは顔を真っ赤にしながら、でもすごく嬉しそうに笑った。
「また、ぜひ……!」
「うん」
わたしもつられて少し笑ってしまう。
すると、玲奈がその横からじっとこちらを見た。
「ましろ、今笑った」
「……なんで毎回そこに気づくの」
「見てるから」
「言い方」
「ほんとのことだもん」
こはるがそのやり取りを見て、小さく「わあ……」と呟いた。
「なんで感心してるの」
「だって、なんかいいなって」
「どこが」
「なんというか、距離が近いです」
「それは……」
わたしは反射的に玲奈を見た。
「この人の仕様だから」
「仕様って」
玲奈が笑う。
「ひどいなあ」
「違う?」
「違わないかも」
認めるんだ。
こはるはその答えにまた楽しそうに笑ったあと、時計を見てはっとした。
「あっ、わたし部活……!」
「部活入ってるんだ」
「はい、文芸部です! 今日はちょっと早めに行かなきゃで」
「じゃあ急がないと」
「はい……でも、話せてよかったです」
こはるはそう言ってから、少しためらうようにわたしを見た。
「小日向先輩」
「なに?」
「また見かけたら、話しかけてもいいですか?」
「……うん」
「ほんとですか?」
「うん」
「やった……!」
こはるは本気で嬉しそうに両手を胸の前で握った。
その反応があまりに素直で、なんだかこっちまで少し照れてしまう。
「じゃあ、また! 一ノ瀬先輩も失礼します!」
「うん、またね」
ぺこっと頭を下げて、こはるは廊下を小走りで去っていった。
その小さな背中を見送りながら、わたしはふっと息を吐く。
嵐が過ぎた後みたいな気分だった。
「……すごい子だった」
「ね」
「悪い意味じゃなく」
「わかってる」
「本当にまっすぐで……」
「うん」
「……かわいかった」
「え」
言った瞬間、玲奈の声色が変わった。
しまった、と思ったときには遅い。
「ましろ、今こはるちゃんのことかわいいって言った?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「純粋に、後輩として」
「後輩としてならかわいいんだ」
「そういう言質を取りにくるのやめて」
玲奈は口では何も言わないくせに、目が完全に面白がっていた。
いや、面白がっているだけじゃない。
少しだけ、不服そうにも見える。
「一ノ瀬さん」
「なに?」
「なんか機嫌悪い?」
「え、悪くないよ」
「……ほんとに?」
「ほんと」
絶対少しは嘘だ。
けれど、玲奈はすぐにわたしの手元の本へ視線を落とした。
「それ借りたんだ」
「うん」
「面白そう」
「読みたい?」
「ましろの感想聞いてから決める」
「なんで」
「同じ本読んだら、感想話せるでしょ」
「……そういう発想がすぐ出るのすごいね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「じゃあ嬉しい」
まただ。
ほんとうに、この人はどうしてこうもわたしの言葉を都合よく受け取って、しかもそれを嬉しそうに返してくるんだろう。
わたしがため息混じりに歩き出すと、玲奈も当然のように隣に並ぶ。
夕方の廊下は西日で少し赤く染まっていて、窓の外では桜の花びらがまだ少しだけ残っていた。
「でも」
しばらく歩いてから、玲奈がぽつりと言う。
「こはるちゃん、ちょっと危ないかも」
「危ない?」
「うん。ああいうまっすぐな子って、気づいたらすごいとこまで来てるから」
「そんな言い方ある?」
「あるよ。ましろ、押しに弱いし」
「それ最近よく言うね」
「事実だから」
「否定しづらいのが嫌」
「でしょ?」
玲奈は得意そうに笑う。
「だから、ちゃんと気をつけてね」
「なにを」
「いろいろ」
「抽象的すぎる」
「でもわかるでしょ」
「……わからない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう答えると、玲奈は少しだけわたしの顔をのぞきこんだ。
その近さにまた心臓が揺れる。
「じゃあ、わかるまでそばにいようかな」
「……意味がわからない」
「うん。でもそうしたい」
どうしてこう、さらっと重いことを言うんだろう。
しかも本人はそれが重いとわかっていない顔をしているから、なおさら質が悪い。
わたしはそれ以上返事ができなくて、ただ借りた本をぎゅっと抱き直した。
こはるのきらきらした目。
冬華先輩の静かな声。
そして、今隣にいる玲奈の、少しだけ独占欲にも似た熱のある笑顔。
ほんの数日前まで、わたしの周りにはなかった種類の空気が、少しずつ、でも確実に増えている。
静かなだけだったはずの学校生活が、気づけばやたらと騒がしい。
しかもその騒がしさは、嫌なものではなくて、どちらかというと心臓に悪い方向のものばかりだ。
「……平穏って、どこに行ったんだろう」
「ん?」
「なんでもない」
「また一人で難しい顔してる」
「一ノ瀬さんのせい」
「それならちょっと嬉しい」
やっぱり返しがずるい。
玲奈は笑いながらわたしの歩幅に合わせてくる。
その距離が近いことにも、わたしはそろそろ慣れてきてしまっていた。
慣れたくないのに。
でも、そう思っている時点でもう少し遅いのかもしれない。




