第3話 静かな副会長は、なぜかわたしを知っている
お昼休みに一ノ瀬玲奈とお弁当を食べる、というのが二日続いただけで、教室の空気は思っていたよりずっと変わった。
もちろん、突然みんなに囲まれるとか、露骨に何かを言われるとか、そういうわかりやすい変化があったわけじゃない。
ただ、視線が増えた。
それだけだ。
それだけなのに、わたしみたいなタイプには十分すぎるほど落ち着かない。
朝、教室に入ったとき。
休み時間に席を立ったとき。
玲奈がこちらへ来たとき。
そのたびに、近くの誰かが「やっぱり今日も来るんだ」みたいな顔をする。
声に出されるわけではない。けれど、なんとなく伝わってくる。人の視線というのは、案外はっきり意味を持つものだ。
とはいえ、わたしが想像していたほど居心地が悪いばかりでもなかった。
去年同じクラスだった子に「一ノ瀬さんと仲いいんだね」と軽く言われて、「いや、仲いいっていうか……向こうが勝手に……」としどろもどろに返したら、「なにそれ」と笑われて終わった。
その程度なら、まだいい。
問題は、その程度で済まない相手の方だった。
「ましろ、次って英語だっけ?」
「うん、たしかそう」
「教科書出しておいた?」
「まだだけど」
「じゃあ一緒」
そう言って玲奈が当然みたいにわたしの机の横へ来る。
近い。自然すぎる。しかも本人はそれをまったく特別なことと思っていない顔をしているから、わたしだけが慌てているみたいで余計に困る。
「一ノ瀬さん、自分の席あるよね?」
「あるよ」
「じゃあなんでわざわざこっち来るの……」
「だって、ましろのとこ落ち着くし」
「まだ朝だから変なこと言わないで」
「変なことじゃないよ?」
言い切らないでほしい。
わたしが英語の教科書を取り出しながら小さくため息をつくと、玲奈はその横でくすくす笑った。
最近、この人の笑い声を聞く回数が多すぎる気がする。
そして、その笑い声の原因がだいたいわたしなのも問題だった。
四時間目が終わったあとの昼休みも、結局玲奈は当然のようにやって来て、当然のようにわたしの机でお弁当を食べていった。
三日目ともなると、もう「また?」というより「やっぱり今日も」という感じに近い。
慣れたわけじゃない。全然ない。むしろ、玲奈の方がどんどん自然になっていくせいで、わたしの心臓だけが置いていかれている。
昼休みの終わりごろ、玲奈がわたしの弁当箱の隅を見て言った。
「今日のブロッコリー、ちょっと星みたい」
「ブロッコリーはブロッコリーでしょ」
「夢がないなあ」
「野菜に夢を求めたことない」
「でも、ましろってそういうの言いながら、ちゃんと見たら可愛いって思うタイプだよね」
「思わない」
「思う」
「決めつけないで」
「じゃあ今夜、ブロッコリー見ながら考えてみて」
「なんで」
何気ない会話なのに、玲奈と話していると、どうしてこうも主導権を握られるのか。
しかもそのやり取りを、近くの席の子たちがちらちら見ている。
……いや、ほんとうにやめてほしい。
こうやって毎日お昼を一緒に食べて、朝も話しかけられて、休み時間も気づけばそばにいて。客観的に見たら、どう考えても「何もありません」では通らない距離感だ。
でも、じゃあ何があるのかと聞かれたら、わたしが知りたい。
玲奈はなんで、こんなふうにわたしのところへ来るんだろう。
本人は軽やかに笑うだけで、理由らしい理由ははぐらかすか、意味深なことを言うだけだ。
困る。
ほんとうに困る。
でも、困るのと嫌なのは、どうやら同じではないらしい。
そのことを認めたくなくて、わたしは昼休みが終わってから、必要以上に真面目にノートを取った。
放課後、担任に呼び止められたのは、そんなふうに余計なことを考えないようにしていたときだった。
「小日向」
「はい」
「悪いんだけど、このプリント、生徒会室に持っていってくれるか?」
「生徒会室、ですか?」
思わず聞き返してしまった。
担任は悪びれもせず、分厚めの書類の束をひらひらと持ち上げる。
「来週の委員会関係のやつ。今ちょっと手が離せなくてな」
「……わかりました」
断る理由もないので、わたしはおとなしく書類を受け取った。
正直ちょっと面倒だ。
生徒会室なんて、用事がない限り近づかない場所のひとつである。目立つ人たちが集まるイメージがあるし、なんとなく空気もきっちりしていそうで、わたしみたいなのは場違いな気がする。
でも仕方ない。
鞄を持ち直し、書類の束を抱えたまま廊下に出る。
教室の中では玲奈が誰かと話していた。出る前にちらりとこちらを見た気もしたけれど、たぶん気のせいだ。だって、今日も一緒に帰る約束をしていたわけでもないし。
……していない、よね。
何を確認してるんだろう、わたし。
自分に小さくツッコミを入れながら、わたしは職員室棟に近い生徒会室へ向かった。
廊下の窓から差し込む夕方の光が、磨かれた床に長く伸びている。放課後特有の、少しだけ静かで、それでいてどこか浮ついた空気。遠くから運動部の声が聞こえてきて、春の匂いがした。
生徒会室の前まで来て、軽く息を整える。
ただプリントを渡すだけ。すぐ終わる。そう自分に言い聞かせて、扉をノックした。
「失礼します」
中から「どうぞ」という落ち着いた声が返ってくる。
扉を開けて一歩入ると、わたしは少しだけ背筋を伸ばした。
思っていたより広くはない部屋だった。けれど整頓されていて、机の上にも棚にも無駄がない。どこか張りつめたような、でも不思議と居心地の悪すぎない空気がある。
部屋の奥の机に座っていたのは、一人の女子生徒だった。
黒髪。背筋の伸びた姿勢。白い指先で書類を整える仕草まで静かで、どこか近寄りがたい。制服の着こなしもきちんとしていて、その整った横顔には隙がなかった。
そして、その顔には見覚えがあった。
篠宮冬華。
生徒会副会長。たしか二年生だったはずだ。成績優秀、仕事もできる、無駄話をしないクール美人――みたいな噂を聞いたことがある。
少なくとも、わたしとはまるで接点のない人種だ。
「あの、担任の先生に頼まれて……これを」
「ありがとうございます」
冬華先輩は椅子から立ち上がり、わたしの方へ歩いてきた。
その歩き方まで静かだった。ヒールのないローファーの音ひとつ、無駄に響かない。
近くで見ると、思っていた以上にきれいな人だった。
玲奈の“華やかな可愛さ”とは違う。冷たいわけではないのに、触れたら崩れてしまいそうな、研ぎ澄まされた綺麗さ。
わたしが書類を差し出すと、冬華先輩は両手で受け取った。
「助かります。先生が持ってきてくださる予定だったのですが、今週はお忙しそうなので」
「いえ、あの……たいしたことじゃないので」
そう返しながら、わたしは早く帰ろうと思った。
必要な用事は終わった。ここに長居する理由はない。
なのに。
「小日向さん、でしたよね」
静かな声で名前を呼ばれて、足が止まった。
「……え?」
冬華先輩は書類を机の端に置いて、まっすぐこちらを見ていた。
落ち着いた目だ。色の薄いガラスみたいに、静かで、でもちゃんと焦点が合っている。
「二年二組の、小日向ましろさん」
「はい……そうですけど」
どうして知っているんだろう。
わたしは戸惑いを隠せなかった。生徒会副会長が同学年の名前を覚えていること自体は、別に不自然ではないのかもしれない。でも、わたしみたいな目立たない生徒を正確に認識しているのは、やっぱり少し意外だ。
冬華先輩はわたしの反応を見て、ほんのわずかに目元をやわらげた。
「驚かせてしまいましたか」
「えっと……少し」
「すみません。先日、教室でお見かけしたので」
教室で。
その一言だけで、なんとなく意味がわかってしまった。
つまり、玲奈と話しているところを見られていたのだ。
そう考えると、急に恥ずかしくなる。別に何かやましいことをしていたわけではないのに、なぜか見られたくなかった。
「一ノ瀬さんと、一緒にいらっしゃいましたよね」
やっぱり。
しかも、冬華先輩の声は相変わらず穏やかなのに、その一言だけ妙に輪郭がはっきりして聞こえた。
「は、はい……まあ、その……」
「仲がいいんですね」
「い、いや、仲がいいっていうか……」
なんて言えばいいんだろう。
向こうがよく話しかけてくるだけです、というのもおかしい。だからといって、仲がいいですと認めるのも違う気がする。
わたしが言葉に詰まると、冬華先輩はしばらく黙っていた。
その沈黙が嫌なものではないのに、妙に緊張する。
やがて、先輩はほんの少しだけ首を傾げた。
「小日向さんは、あまりそういうのがお好きではなさそうです」
「……え?」
「目立つことや、人に見られることです」
思わず顔を上げる。
どうしてそんなことまでわかるんだろう。
たしかにその通りだ。わたしは目立つのが苦手だし、今の状況も正直かなり落ち着かない。でも、たった数回見かけただけで見抜かれるようなものなのか。
「顔に出ていましたか」
「少し」
「……やっぱり」
「ですが」
冬華先輩はそこで一度言葉を区切った。
「一ノ瀬さんは、あまり周りを気にしない方ですから」
「それは……なんとなく、わかる気がします」
「そうですね」
その返事は淡々としていた。
けれど、どこか含みがあるようにも聞こえた。
わたしがうまく意味を取れずにいると、先輩は少しだけ視線を外し、机の端に揃えられた書類へ指先を伸ばした。
「ただ、あの人がああいうふうに誰か一人に執着するのは、珍しいかもしれません」
「……執着?」
その言葉に、心臓が変な跳ね方をした。
わたしが反射的に聞き返すと、冬華先輩は今度こそ小さく微笑んだ。氷が少しだけ溶けるみたいな、ほんのかすかな笑みだった。
「言い方が強すぎました」
「いえ、あの……」
「気にしないでください。こちらの独り言です」
全然気になる。
でも、追及できるほどの勇気もない。
部屋の空気は静かで、時計の秒針の音さえ聞こえそうだった。わたしはこのままここにいると、余計なことまで考えてしまいそうで、そろそろ失礼しますと言おうとした。
そのときだった。
手元の鞄を持ち直した拍子に、胸元に挟んでいた小さなメモとペンケースがずるっと滑り落ちる。
「あっ」
慌ててかがもうとした瞬間、同じように伸びてきた手とぶつかりそうになった。
冬華先輩だった。
先輩は床に落ちかけたメモを先に拾い上げ、その流れでわたしの腕にも軽く触れた。
ほんの一瞬。
なのに、距離が近かった。
静かな人の近さというのは、どうしてこうも逃げ場がないんだろう。
「すみません」
「い、いえ……わたしこそ」
わたしはあわててペンケースを拾い、先輩が差し出してくれたメモを受け取る。
指先が触れそうで触れない、その一瞬にまで意識がいってしまって、変に緊張した。
冬華先輩は何事もなかったように手を引き、静かな声で言う。
「足元、お気をつけて」
「……はい」
「それから」
また、名前を呼ばれる。
「小日向さん」
「え?」
「困ったことがあれば、生徒会室に来てください」
「……わたしが、ですか?」
「はい」
なぜそんなことを言うんだろう。
生徒会の仕事の一環としてなら、もっと事務的に言うはずだ。なのに、その言葉は必要以上に丁寧で、どこか個人的な響きを持っていた。
わたしが戸惑っていると、冬華先輩は視線を少しだけ和らげた。
「目立つ場所が苦手な方は、意外とここを避難所に使います」
「……そうなんですか」
「ええ。放課後なら、比較的静かですから」
それはたぶん、気遣いだった。
玲奈とは正反対の、人を急かさない、静かな優しさ。
だから余計にわからない。
どうしてわたしにそこまで言ってくれるんだろう。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
それ以上は何も言わず、わたしは軽く会釈して生徒会室を出た。
扉が閉まった瞬間、張っていた息が一気にほどける。
「……なんだったんだろう」
廊下には夕方の光が満ちていて、さっきまでより少しだけ赤みを帯びていた。
玲奈といるときとは違う意味で、心臓が変な疲れ方をしている。あの副会長は、声も態度も静かなのに、妙に印象が残る人だった。
しかも。
あの人がああいうふうに誰か一人に執着するのは、珍しいかもしれません。
その言葉だけが、なぜか耳に残って離れない。
執着なんて、そんな。
わたしは思わず首を振った。
大げさだ。たぶん、あの人の言葉の選び方が少し強かっただけ。玲奈はただ、距離が近くて、人懐っこくて、ちょっと放っておけない相手に構いたがる性格なのだ。たぶん。きっと。
そう自分に言い聞かせながら、昇降口へ向かう。
すると、校門の方へ抜ける渡り廊下のあたりで、聞き慣れた声が飛んできた。
「ましろ!」
反射的に足が止まる。
振り向けば、玲奈が小走りでこちらへ来るところだった。夕方の光の中でも目立つ。というか、たぶん本人がどこにいても目立つ。
「よかった、まだいた」
「……いたけど」
「もう帰っちゃったかと思った」
「ちょっと先生に頼まれごとされてて」
「頼まれごと?」
玲奈はわたしの手元や鞄を見て、すぐに首を傾げる。
「どこ行ってたの?」
「生徒会室」
「え?」
その一文字で、空気が少しだけ変わった。
玲奈の顔は笑っていたけれど、目だけがわずかに細くなった気がした。
「生徒会室って、どうして?」
「担任の先生にプリント届けるように言われて」
「……ふうん」
玲奈はそれ以上すぐには何も言わなかった。
けれど、わたしにはわかる。
これは、ほんの少しだけ機嫌が変わったときの間だ。
「篠宮先輩、いた?」
「いたけど」
「何か言われた?」
「何か、っていうか……」
わたしは少し迷った。
「わたしのこと、知ってたみたいで」
「……へえ」
玲奈の返事は軽かった。軽いはずなのに、その軽さが逆に気になる。
「一ノ瀬さん?」
「ん?」
「なんか、変」
「変ってひどいな」
「だってさっきから……」
「ましろ」
玲奈が、少しだけ近づいた。
いつもの距離感バグみたいな明るい近さじゃない。もっと静かで、でもだからこそ誤魔化しがきかない近さだった。
「あの人には、気をつけてね?」
「……え?」
意味がわからなくて、わたしはまばたきをした。
玲奈はすぐにいつもの笑顔へ戻る。でも、戻る前の一瞬、たしかに見えた。
笑っていない顔。
「べつに悪い人じゃないけど」
「う、うん」
「でも、ましろって押しに弱そうだから」
「それは否定できないけど……」
「でしょ?」
玲奈はそう言って、またくすっと笑う。
けれど、その笑い声にはいつもの軽やかさが少し足りない気がした。
「じゃあ、一ノ瀬さんも気をつけた方がいいんじゃない?」
「わたし?」
「わたしのこと、結構押してると思う」
「……それは」
玲奈はほんの一瞬だけ口ごもって、それからふっと目を細めた。
「そうかもね」
認めるんだ。
わたしが言葉を失っていると、玲奈はすぐにいつもの調子を取り戻して、ひらりと手を振った。
「帰ろ。今日は途中まで一緒でいい?」
「いい、けど」
「よかった」
またその顔だ。
たった一言の返事で、そんなに嬉しそうにしないでほしい。
わたしは胸の奥に残る冬華先輩の静かな視線と、目の前にいる玲奈のわかりやすい笑顔を、どう整理していいのかわからないまま歩き出した。
夕方の校舎の窓に、並んだ影が少しだけ映る。
その影を見ながら、わたしは考える。
昼休みには玲奈とお弁当を食べて、放課後には生徒会副会長に名前を呼ばれて、帰り道には玲奈に「気をつけて」と言われる。
ほんの少し前まで、静かに穏やかに過ごすだけだったはずの学校生活が、気づけばどんどんわたしの知らない方向へ進んでいる。
そしてその中心に、なぜかわたしがいる。
「……ほんと、なんでこうなるの」
思わず漏れた独り言に、玲奈が隣で笑った。
「なに?」
「なんでもない」
「気になる」
「気にしなくていい」
「じゃあもっと気になる」
だめだ。
やっぱりこの人といると、考えごとは長く続かない。
でも――。
生徒会室で聞いた言葉も、玲奈の少し低い声も、胸のどこかに小さな引っかかりとして残り続けていた。




