第2話 お昼休み、美少女がわたしの弁当を覗き込む
次の日の朝、教室に入る前から、わたしはすでに少しだけ落ち着かなかった。
理由ははっきりしている。
昨日、別れ際に一ノ瀬玲奈が言ったのだ。
**「明日も隣、行くね」**と。
あの一言が、思っていた以上に頭の中に残っていた。昨日の夜、家に帰ってからも、制服を脱いで、夕飯を食べて、お風呂に入って、ベッドに入ってからまで、ふとした瞬間に思い出してしまったくらいだ。
どうしてだろう。
たったそれだけの言葉なのに、妙に具体的で、妙に逃げ道がなくて、そして妙に――嬉しそうだった。
いや、待って。そこを考えるのはやめよう。
嬉しそうだったとか、そういうのを分析し始めると、自意識過剰みたいで恥ずかしい。
わたしは教室の前でひとつ深呼吸してから、扉を開けた。
朝の空気は昨日よりも少しだけ和らいでいる。まだ新学期二日目だけれど、昨日のぎこちなさは少し薄れて、同じ中学出身同士で集まって話す声も増えていた。
よかった。今日は普通に始まれそう。
そう思ったのも束の間。
「あ、おはよう。ましろ」
入って数秒で、わたしの平穏はあっさり終わった。
声のした方を見るまでもない。
昨日の記憶をたどるより早く、わたしの心臓が反応していた。教室の前方、窓から差し込む朝の光の中で、一ノ瀬玲奈がこちらに向かって手を振っている。
しかも、もう笑っている。
なんでそんなに自然なの。
「……おはよう」
「ふふ、おはよう返してくれた」
「返すよ、それくらいは……」
「それくらいって言い方、ちょっとひどくない?」
ひどくないと思う。
でも言い返す余裕がなくて、わたしはそのまま自分の席へ向かった。すると当然みたいな顔で、玲奈もついてくる。
昨日と同じだ。
いや、昨日よりひどいかもしれない。だって今日は、わたしの中にすでに「また来るかもしれない」という予感があったせいで、心の準備をする間もなく現実になってしまった。
玲奈はわたしの席の前まで来ると、机に軽く手をついた。
「ちゃんと来たね」
「学校なんだから来るでしょ……」
「そうじゃなくて。今日も元気そうで安心したって意味」
「……昨日会ったばっかりだけど」
「でも、一日ぶりじゃん」
「一日ぶりって、そんな大げさな」
玲奈はくすくす笑う。
この人、ほんとうに楽しそうだな。
しかもその楽しそうが、周りに見せる社交的な笑顔とは少し違う気がしてくるから困る。明るくて、軽やかで、でもちゃんとわたしを見ている感じがする。
それが、落ち着かない。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「え」
「なんか帰り際、すごく固まってたから」
「……あれは、ちょっとびっくりしただけ」
「わたしが“明日も隣に行く”って言ったから?」
「自分でわかってるなら言わないでほしい」
「だって、ましろの反応かわいいし」
「か、かわ……っ」
危うく変な声が出そうになって、わたしは慌てて口を閉じた。
だめだ。この人と朝から話すのは心臓に悪い。
近くの席の子たちがちらちら見ているのもわかる。昨日の時点でざわついていたのだから、二日目にもなって続いていたら、気にされないわけがない。
去年同じクラスだった子のひとりが、通りすがりにわたしを見て「おはよ」と言いながら、ほんの少しだけ意味ありげな目をした。
やめてほしい。何もないから。何もないはずだから。
わたしの心の中の必死の言い訳なんて知るはずもなく、玲奈はいつもの明るい調子で言う。
「今日のお昼、どうする?」
「……どうする、って?」
「一緒に食べようと思って」
「思って、って」
「昨日約束したでしょ」
約束した覚えは薄い。
でも、玲奈の中ではもう決定事項らしい。
わたしが返事に困っていると、彼女は少しだけ身を屈めて、声をひそめた。
「だめ?」
「……だめじゃない、けど」
「じゃあ決まり」
早い。決定までが早い。
玲奈は満足そうに笑うと、「じゃあまたあとで」と軽く言って自分の席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、わたしはまだ朝なのにもう疲れていた。
けれど、昨日とは違うこともある。
それは、玲奈が来るとわかっていたからこそ、来なかったら少し変に感じたかもしれない、ということだ。
……だめだ。本当にだめだ。そういうことを考えるのはよくない。
まだ二日目。まだ何も始まっていない。始まっていたとしても、たぶんわたしの知らない場所で勝手に振り回されているだけだ。
だから、深く考えない。授業に集中する。
そう決めたはずなのに、午前中の休み時間、廊下で玲奈が誰かと話している姿を見かけるたび、妙に目で追ってしまう自分がいた。
しかも玲奈は、そういうときに限ってふとこちらに気づいて小さく笑うのだ。
見つけられるたび、心臓が落ち着かない。
そのくせ、嫌じゃないと思ってしまうのが、いちばん困る。
四時間目が終わり、昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気は一気にほどけた。
机を寄せる音、弁当箱を取り出す音、誰かを誘う声。教室中に広がる賑やかさに混じって、わたしも鞄から弁当を取り出す。
今日は母が作ってくれた、いつも通りのごく普通のお弁当だ。玉子焼き、ブロッコリー、唐揚げが二つ、ミニトマト、それから梅干しが真ん中に載ったご飯。
特別可愛いわけでも、おしゃれなわけでもない。昨日みたいにじろじろ見られたら恥ずかしいから、今日はなるべくさっと食べてしまいたい。
そう思って包みを解いた、その瞬間。
「ましろ」
だめだった。
わたしはおそるおそる顔を上げる。
やっぱりそこには玲奈がいて、しかも今日は昨日より手際がよかった。すでに自分のお弁当を持っていて、前の席の子に「ちょっと借りるね」と笑顔で言いながら椅子をくるりと反転させている。
まだわたし、何も言ってないんだけど。
「えっと……」
「来ちゃった」
「見ればわかる」
「ふふ」
なんでその一言でそんなに嬉しそうにできるんだろう。
玲奈は椅子にまたがるように座って、わたしの机に頬杖をついた。頬杖。お昼休みに。人気者が。わたしなんかの机で。
いろいろ情報量が多すぎる。
「今日はどんなお弁当?」
「……普通の」
「見せて」
返事をする前に、玲奈は身を乗り出した。
近い。近すぎる。
昨日も思ったけれど、この人は人との距離の取り方が少しおかしい。いや、少しじゃない。かなりおかしい。でも本人がまったく悪気なく自然にやってくるせいで、こっちだけが勝手に慌てることになる。
「わ、今日もおいしそう」
「今日も、って」
「昨日もおいしそうだったし」
「食べてないでしょ」
「見たらわかるよ」
玲奈は真剣な顔でお弁当箱を見つめている。そんなに見つめなくてもいいのに、と思うのに、その眼差しがふざけていないせいで止めづらい。
「唐揚げ好き?」
「好きだけど」
「わたしも好き。あと玉子焼きも好き」
「そうなんだ」
「うん。ましろのお弁当、なんか安心する感じする」
「安心……?」
「うん。ちゃんとお昼って感じ」
意味がわからないようで、でも少しだけわかる気もした。
玲奈のお弁当を見ると、彩りがよくてきれいだった。小さなハンバーグにレタス、ミニグラタン、フルーツまで入っていて、いかにも丁寧に作られた感じがする。
「一ノ瀬さんのお弁当の方が、ずっとすごいと思うけど」
「玲奈」
「……玲奈、さん」
「さん、つけるんだ」
「いきなりは無理」
「でもちょっと進歩した」
「そうかな……」
そう言うと、玲奈はほんとうに満足そうに笑った。
だめだ。会話の難易度がおかしい。
わたしがお箸を持って黙々と食べ始めると、玲奈も「いただきます」と手を合わせた。けれど、食べるより先にまたわたしの方を見てくる。
「ねえ、玉子焼きって甘い派?」
「うちはちょっと甘い」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「なんかそんな感じした」
「どんな感じ……」
「やさしい味しそうな感じ」
そんなふうにお弁当から人の性格まで判断されるのは初めてだ。
それに、わたしの家の玉子焼きが甘めだって、どうしてそんなに嬉しそうに聞くんだろう。
玲奈はようやく自分のおかずをひとつ口に運んでから、ふと手を止めた。
「これ、好き?」
「え?」
「ミニグラタン。よかったら食べる?」
言いながら、玲奈はアルミカップに入った小さなグラタンをお箸でつまみ上げた。
そして、当然みたいにわたしの方へ差し出してくる。
それが、どういう状態かというと。
ほとんど、あーんの一歩手前だった。
「……っ!?」
「ましろ?」
「近い近い近い!」
「え、なにが?」
「それ、その持ち方、その距離!」
「食べないの?」
「食べる食べないじゃなくて!」
わたしの声が思ったより大きくなってしまって、近くの子たちが一斉にこちらを見た。
終わった。
完全に終わった。
わたしは一瞬で耳まで熱くなるのを感じながら、慌てて口元を押さえた。玲奈は少し目を丸くしてから、「あ、ごめん」と言ったけれど、その声にはまだ笑いが混じっている。
「そんなに慌てると思わなかった」
「慌てるよ……」
「普通に分けようと思っただけなんだけど」
「普通じゃないと思う」
「そう?」
そうです。
でも玲奈はほんとうに不思議そうで、からかっているというより、素でやっていたらしい。それがまた困る。わざとなら怒れたかもしれないのに、悪意ゼロでやられると、こっちが一方的に自爆しているだけみたいになる。
結局、玲奈は「じゃあ机に置くね」と言って、ミニグラタンのカップをわたしの弁当箱の端にそっと乗せた。
「……ありがとう」
「ううん。で、ひと口ちょうだい」
「なんで」
「交換したいから」
「交換って、そういう流れだった?」
「今なったの」
理不尽だ。
でも、玲奈はすごく当たり前みたいな顔をしている。しかも、その表情が妙に楽しそうで、断りづらい。
わたしは少し迷ってから、唐揚げをひとつ箸で持ち上げた。
「……これでいい?」
「いいの?」
「いいのって」
「好きなおかずじゃない?」
「好きだけど、あげるって言ったのはそっちだから」
「やさしい」
「そういうのじゃなくて」
玲奈はわたしの箸から唐揚げを受け取るわけではなく、自分のお箸でそっと挟んで持っていった。その手元がやけにきれいで、無駄に目がいってしまう。
そのままひと口食べて、玲奈は少し大げさなくらい嬉しそうに目を細めた。
「おいしい」
「……そう」
「ほんと。なんか、すごい落ち着く味」
「それ、さっきも言ってた」
「だって落ち着くんだもん」
わたしは返事に困って、結局ミニグラタンを食べた。
たしかにおいしかった。ちゃんと熱は残っていないけれど、クリームがまろやかで、思ったよりしっかりした味がする。
「どう?」
「……おいしい」
「よかった」
その一言で、また玲奈が嬉しそうにする。
どうしてこの人は、わたしが何か言うたびに、いちいちそんな顔をするんだろう。
まるで、反応をひとつひとつ集めて大事にしているみたいじゃないか。
そんなことを思った瞬間、わたしは自分で自分にびっくりした。
何を考えてるんだろう、ほんとうに。
気まずくなって視線を逸らすと、斜め前の席の女子二人が小声で何か話しているのが見えた。内容までは聞こえないけれど、明らかにこちらのことだ。
それもそうだろう。
一ノ瀬玲奈が、昨日に続いて今日もわたしのところへ来て、お弁当を見て、おかず交換までしているのだ。客観的に見たらかなりおかしい。
わたしの中でそういう常識があるからこそ、余計に落ち着かない。
けれど玲奈は、少しも気にしていないようだった。
むしろわたしの方を見て、ふいに言う。
「ましろって、ちゃんと美味しそうに食べるよね」
「……え?」
「見てるとわかる。あ、これ好きなんだな、とか」
「なんでそんなの見てるの」
「見てたから」
「いや、答えになってない」
「でも本当だよ」
玲奈はお箸を持ったまま、少しだけ首を傾げる。
「昨日も思ったけど、ましろって食べるときちょっと顔がやわらかくなる」
「……そんなことない」
「あるよ」
「ない」
「ある」
「……」
これ以上言い合っても勝てない気がして、わたしは黙ってご飯を口に入れた。
すると玲奈が、少しだけ声を落として続ける。
「そういうとこ、好きだけどな」
危うくむせるところだった。
「っ、げほ……!」
「え、だ、大丈夫!?」
「だ、だいじょうぶ……じゃ、ない……」
「ごめん、水ある?」
「ある……」
玲奈が慌ててペットボトルを取ってくれる。わたしは受け取って一口飲み込み、なんとか呼吸を整えた。
好きって今言った?
いや、言った。確実に言った。でもたぶん、そういう意味じゃない。そういう意味じゃないはずだ。たぶん、きっと、おそらく。
自分に必死で言い聞かせていると、玲奈が申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん、急に言ったから?」
「急にっていうか……」
「でもほんとだよ。食べてるときのましろ、なんか安心して見てられる」
「それ、褒められてる?」
「褒めてる」
「……なら、いいけど」
よくない気もするけど、もう何がよくて何がよくないのかわからない。
玲奈の“好き”は軽いのに、軽く聞こえない瞬間がある。
たぶん、それは彼女の言い方のせいだ。冗談っぽく笑っているくせに、目だけはちゃんとわたしを見て言うからだ。
だから困る。
昼休みも終わりに近づき、みんなが少しずつ弁当箱を片づけ始めるころ、玲奈はふと教室の入口の方を見た。
そこには、玲奈の友達らしい女子が立っていて、こちらを見ながら小さく手を振っている。
その子は玲奈と目が合うと、いたずらっぽく口元をゆるめた。
「玲奈、ほんとに最近あの子のとこばっかだね」
「そう?」
「うん。なんか珍しい」
「そうかな」
「そうだよ」
軽いやり取りだった。
でも、その“珍しい”のひと言だけで、わたしの胸の奥が少しだけざわついた。
珍しい。
それはつまり、玲奈が普段はしないことを、わたしにはしている、という意味だ。
そんなふうに考えるなんて、どうかしてる。
どうかしてるのに、考えてしまった。
玲奈はその子に「あとで行く」と手を振り返してから、またわたしを見る。
「ごめんね、なんか騒がしくて」
「……別に」
「やさしい」
「それ便利に使ってない?」
「使ってるかも」
「認めるんだ……」
わたしが呆れて言うと、玲奈は楽しそうに笑った。
その笑い声に引っ張られるみたいに、わたしの口元も少しだけ緩む。
すると玲奈が、まるで大発見みたいに目を輝かせた。
「今笑った」
「……笑ってない」
「笑ったよ」
「気のせい」
「じゃあ、もっと笑わせたい」
「やめて」
「やめない」
そのやり取りのまま、予鈴が鳴った。
昼休みの終わりを告げる音に、玲奈は「またね」と言って立ち上がる。お弁当箱を片づける動きまでやけにきれいで、ほんとうに何をしても絵になる人だと思う。
でも、去る直前。
玲奈はほんの少しだけ身をかがめて、またわたしにだけ聞こえる声で言った。
「明日も一緒に食べようね」
問いかけじゃなかった。
確認でもなく、お願いでもなく、やわらかいのに不思議なくらい自然な決定事項だった。
わたしはすぐには返事ができなかった。
けれど玲奈は、困らせたとも思っていない顔で笑って、自分の席へ戻っていく。
その背中を見ながら、わたしはまだ少し熱の残る頬を指先で押さえた。
ほんとうに、なんなんだろう。
人気者がわたしの隣に来るだけでも十分おかしいのに、二日目にしてお弁当まで一緒に食べるなんて。しかも、あんな距離で。あんなふうに笑って。あんなふうに、わたしの反応をひとつひとつ喜ぶみたいに。
四時間目の教科書を開きながらも、頭の片隅にはそのことが残ったままだった。
そして、その日の放課後。
廊下を歩いていたとき、玲奈と同じクラスの女子が友達に言っているのを、偶然耳にした。
「玲奈があんなふうになるの、初めて見たかも」
足が止まる。
聞いてはいけない気がしたのに、耳が勝手にその言葉を拾ってしまった。
あんなふう、って。
どんなふう。
わたしのことを見て笑う感じ?
わたしの隣でお弁当を食べる感じ?
わたしの些細な返事に、いちいち嬉しそうにする感じ?
どれも信じられない。
信じられないのに、その一言だけは、どうしてかずっと胸の奥に残った。
帰り道、春の風が制服のスカートを揺らす。
わたしは鞄の肩紐を握り直しながら、小さく息を吐いた。
「……ほんと、なんなんだろう」
昨日より、今日の方がわからない。
でも、ひとつだけ確かなのは――
明日のお昼休みを、少しだけ意識している自分がいる、ということだった。




