第1話 人気者は、なぜかわたしの隣に座る
高校二年生になった最初の朝、わたし――小日向ましろは、新しいクラスの前で小さく息を吐いた。
春の空気はやわらかい。廊下の窓から差し込む光も明るくて、まるで今日から始まる新しい一年が、きっといいものになりますよ、と勝手に期待させてくるみたいだった。
もちろん、そんなのは雰囲気だけの話だ。
高校生活なんて、結局はどれだけ目立たず、波風を立てず、無難にやり過ごせるかにかかっている。
少なくとも、わたしにとっては。
別にクラスに馴染めないわけじゃない。友達がいないわけでもない。けれど、自分から輪の中心に飛び込んでいくほど明るくもなければ、大勢の前で何かを話すのが得意なわけでもない。
静かに。ほどほどに。できるだけ穏やかに。
それが、わたしの理想の学校生活だった。
「……よし」
誰にも聞こえないくらい小さな声で自分を励まして、二年二組の教室の扉を開ける。
新しいクラス特有の、まだ少しよそよそしい空気がそこにはあった。すでに何人かは集まっていて、仲のいい子同士で声をかけ合っている。去年同じクラスだった子を見つけて話している子もいれば、席順表を見上げて「どこだろ」と首を傾げている子もいる。
この感じ、ちょっと苦手だ。
みんなまだ完全には馴染んでいないのに、誰と誰が先に打ち解けるか、なんとなく見えない勝負が始まっている感じがする。
わたしは教卓の横に貼られた席順表に視線を向け、自分の名前を探した。
小日向ましろ。
あった。
窓際から二列目、後ろから二番目。
「……悪くない」
というより、かなりいい。
前すぎず後ろすぎず、先生の目も届くけれど主張しすぎない絶妙な位置。窓際ではないけれど外の光はそれなりに入るし、教室の真ん中みたいに視線が集まりやすい場所でもない。
新学期初日にしては十分すぎる当たり席だ。
少し気が楽になって、自分の席へ向かう。机の横に鞄をかけ、椅子を引いて座る。まだ始業前のざわめきの中、ひとまず自分の居場所を確保できた安心感に、肩の力が少し抜けた。
この席なら、たぶん大丈夫。
ほどほどに友達と話して、授業を受けて、お昼を食べて、放課後は静かに帰る。
うん。いい一年になりそう。
そう思った、そのときだった。
教室のざわめきが、ほんの少しだけ変わった。
大きな音がしたわけじゃない。誰かが叫んだわけでもない。なのに、空気がふっと揺れたのがわかった。人が集まる場所に、さらに人の視線が向くような、そういうわかりやすい変化。
なんだろうと思って何気なく顔を上げて、すぐに理由がわかった。
教室の入口から入ってきたのは、一ノ瀬玲奈だった。
見間違えようがない。
去年も同じ学年だったから知っている。明るくて、誰にでも感じがよくて、女子の間でも男子の間でも人気がある子。廊下ですれ違うだけでも目を引く、いわゆる“華がある”タイプの美少女。
肩につくくらいのやわらかそうな髪。作り込みすぎていないのにきちんと可愛い顔立ち。笑うとぱっと周りが明るくなるみたいな雰囲気。
クラスが違っても名前くらいはみんな知っている、そういう存在だ。
住む世界が違う。
わたしは反射的にそう思って、すぐに視線を下ろした。
関わることはない。というか、関わらない方がいい。
人気者には人気者の輪があるし、そこにわたしみたいなのが近づいても気後れするだけだ。遠くから「あ、いるな」と認識するくらいがちょうどいい。
だから別に、気にする必要なんて――
「おはよう」
すぐ近くで声がして、心臓が跳ねた。
え、と思って顔を上げる。
そこにいたのは、さっきまで教室の入口にいたはずの一ノ瀬玲奈だった。
「……え?」
あまりにも間の抜けた声が出た。
玲奈はそんなわたしを見て、くすっと笑う。
「びっくりした?」
「び、びっくり、というか……」
「ふふ。だよね」
そう言いながら、玲奈はわたしの隣の席――正確には、まだ持ち主が来ていない前後の空きに軽く手をついて、当然のような顔でこちらを覗き込んだ。
近い。
思ったよりずっと近い。
人気者ってもっと、人との距離感に隙がないものじゃないの?
「小日向さん、だよね?」
「あ、う、うん……そう、です」
「やっぱり。よかった」
よかった、って何がだろう。
頭が追いつかない。わたしはただ、机の上に置いたままの手をどうしていいかわからなくて、無意味に指先を揃えた。
玲奈はわたしの反応なんて全然気にしていない様子で、にこりと笑った。
「わたし、一ノ瀬玲奈。たぶん知ってるよね?」
「し、知ってる……」
「そっか。なんかちょっと嬉しい」
そんなことを言われても困る。
いや、困るというか、嬉しくないわけじゃないけど、嬉しいと思っていいのかわからない。そもそも、どうして学年の人気者が、初日にわたしみたいな地味な子にわざわざ話しかけてきているんだろう。
玲奈はわたしの前の席の背もたれに腕を乗せて、自然な仕草で続けた。
「小日向さん、中学どこだったの?」
「えっと、第三中……」
「あ、やっぱり。なんとなくそうかなって思ってた」
「え?」
「前に見かけたことある気がして」
そんなわけない、とは言えなかった。
だって、玲奈みたいな子に見かけられていた、なんて考えたこともなかったから。
「……わたし、そんな目立たないし」
「うーん、目立たないっていうか」
玲奈は少し考えるように首を傾げて、それからまっすぐこっちを見る。
「静かでちゃんとしてる感じ。そういうの、わたし覚えちゃうんだよね」
だめだ。会話の温度差で具合が悪くなりそう。
どう返したらいいのかわからなくて口ごもっていると、周りの空気がじわじわ騒がしくなっているのに気づいた。
それもそうだ。
一ノ瀬玲奈が、クラスに入ってきてすぐ、わたしなんかに話しかけている。それも、ただ「よろしく」と挨拶するだけじゃなく、わざわざ足を止めて、近くで、楽しそうに。
ちら、と横目で見ると、近くの席の子たちが明らかにこっちを見ていた。声に出してはいないけど、視線が言っている。
なんで?
わたしだって知りたい。
「緊張してる?」
「……ちょっと」
「そっか。初日だもんね」
「一ノ瀬さんは、してないの?」
「してるよ」
玲奈はあっさり言った。
「でも、小日向さん見つけたら少し安心した」
言っている意味がわからない。
安心する要素、どこにあるの。
わたしはたぶん、かなり困った顔をしていたんだと思う。玲奈はまた小さく笑って、でも今度は少しだけ声をやわらかくした。
「そんなに困らないでよ。嫌だった?」
「い、嫌じゃない、けど」
「けど?」
「なんでわたしに話しかけてくれるのかなって……」
本音がぽろっと出てしまった。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
さすがに変なことを言ったかもしれない。そんなつもりはなかった、というふうに誤魔化そうとした瞬間、玲奈は少しだけ目を丸くして、それからふっと笑みを深くした。
「話しかけちゃだめだった?」
「だ、だめじゃないです」
「よかった」
また、よかった。
その一言が妙にまっすぐで、わたしはますます調子が狂う。
「わたし、前からちょっと話してみたかったんだ」
「……前から?」
「うん」
そこでチャイムが鳴った。
始業前の賑やかさを切り裂く、救いみたいな音だった。担任が教室へ入ってきて、みんな慌てて自分の席へ戻る。
玲奈も「じゃ、またあとで」と軽く言って、自分の席へ向かっていった。
その背中を見送りながら、わたしはやっと息を吐いた。
疲れた。
まだ一時間目も始まっていないのに、すでに一日分くらい神経を使った気がする。
どうしてこんなことになったんだろう。
担任の自己紹介も、新年度の諸注意も、正直あまり頭に入ってこなかった。前の席の子の髪型とか、窓の外の桜の色とか、そういうどうでもいいものばかり目に入る。
でも、ひとつだけはっきりわかることがあった。
教室の前の方、斜め向こうに座っている玲奈が、何度かこちらを振り向いたことだ。
そのたびにわたしは慌てて視線を逸らした。けれど、一度だけタイミングが遅れて目が合ってしまった。
玲奈は笑った。
まるで、見つけた、みたいに。
「……むり」
小さく呟いて、机に視線を落とす。
昼休みまで持つだろうか、わたしの心臓。
いや、持ってほしい。まだ初日だし。
その後も、何人かと簡単な自己紹介をしあったり、教科書の配布があったりして午前中は過ぎていった。わたしの周りの席の子たちは、思っていたより話しやすそうで少し安心した。去年同じクラスだった子とも軽く話せたし、完全に孤立する未来は回避できそうだ。
問題は、それとは別のところにあった。
休み時間になるたびに、玲奈の存在を意識してしまうことだ。
向こうからまた来るんじゃないか。話しかけられるんじゃないか。周りに見られるんじゃないか。
そう思って落ち着かない。
なのに実際には、玲奈は二時間目と三時間目の間の短い休み時間にはこちらへ来なかった。遠くで友達と笑っていて、やっぱりああいう輪の中心にいるのが似合うなと思う。
その光景を見て、わたしは少しだけ安心して――ほんの少しだけ、なぜか拍子抜けした。
いや、待って。なんで拍子抜けするの。
意味がわからない。
自分に心の中でツッコミを入れているうちに、午前の授業は終わった。
昼休みのざわめきが広がる。お弁当箱を出す音。椅子を動かす音。誰かを誘う声。
わたしは鞄から弁当を取り出して、さて今日はどうしようかと考える。去年同じクラスだった子に声をかけてもいいけど、新学期初日からべったりも気が引ける。今日は自席で食べてもいいかもしれない。
そう思って包みをほどいた、そのとき。
「ましろ」
名前を呼ばれて、手が止まった。
今日だけで何回目だろう。わたしはゆっくり顔を上げる。
目の前で、玲奈が笑っていた。
「一緒にお昼、食べてもいい?」
断れる空気じゃなかった。
というか、その問いかけを口にした時点で、玲奈はもうわたしの前の席をくるりと反対向きにして座る準備をしている。
まだ、正式には一緒に食べると答えていないんだけど。
「……えっと」
「だめ?」
「だめじゃ、ないけど」
「よかった」
まただ。
どうしてこの子は、わたしが肯定するとそんなに嬉しそうな顔をするんだろう。
玲奈は手際よく自分のお弁当を机に広げて、「じゃあ失礼します」と冗談っぽく頭を下げた。その動作がやけに自然で、まるで前から何度も一緒にお昼を食べてきたみたいだった。
気づけば、周りの視線がまた集まり始めている。
当たり前だ。
でも当の玲奈はまったく気にしていないようで、むしろ楽しそうにわたしのお弁当を見た。
「わ、かわいい」
「え?」
「玉子焼き、ハートっぽい」
わたしは慌てて弁当箱を少し引き寄せた。
「べ、別に、そんなつもりじゃ……」
「でもかわいいよ。おいしそう」
そう言って、玲奈が少しだけ身を乗り出す。
近い。顔が近い。いい匂いがする。シャンプーかなにかの、甘すぎない清潔な香りがふわっと届いて、わたしは反射的に背筋を伸ばした。
「緊張しないでよ」
「するよ……」
「なんで?」
「なんでって……」
それを説明しなきゃいけないの?
学年の人気者がこんな距離で話しかけてきたら、誰だって緊張すると思う。少なくともわたしはする。
玲奈は少しだけ首を傾げて、それから悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、早く慣れてね」
「むりかも」
「むりじゃないよ。だって、これからもっと話すし」
「……え」
さらっと重いことを言わないでほしい。
固まるわたしを見て、玲奈は楽しそうに肩を揺らした。
そのとき、教室の少し離れた場所から、誰かの声が聞こえた。
「玲奈、そっちで食べるのー?」
玲奈の友達らしい女子が、驚いたような顔でこちらを見ている。
「うん、今日はここ」
「へえ……珍し」
その“珍しい”の意味は、聞かなくてもわかった。
玲奈は普段、もっと目立つグループの中にいるのだろう。少なくとも、わたしみたいな地味な子と二人でお昼を食べるのは、周囲にとっても意外なことらしい。
その子はそれ以上何も言わなかったけれど、意味ありげな視線だけを残して自分の席へ戻っていった。
……やっぱり、変だよね。
そう思うのに、玲奈はまるで関係ないみたいにお箸を持った。
「いただきます」
「……いただきます」
つられてわたしも手を合わせる。
なんだろう、この状況。
始業前に突然話しかけられて、昼休みには当然みたいに隣に来て、一緒にお弁当を食べている。
昨日のわたしが見たら、確実に「夢?」って言うと思う。
「ましろって、いつもお弁当作ってるの?」
「これは、お母さんが……」
「そっか。でも好き嫌いなさそう」
「え?」
「なんとなく。ちゃんと食べる人って感じ」
観察されているみたいで落ち着かない。
だけど、いやな感じはしなかった。からかわれているわけでも、値踏みされているわけでもない。ただ玲奈は本当に、わたしのことを知りたがっているみたいだった。
どうしてそんなふうに思えるのか、自分でもよくわからないけれど。
「……一ノ瀬さんは」
「玲奈でいいよ」
「えっ」
「わたしも、ましろって呼んでるし」
呼んでるし、って。
それを当然の前提みたいに言われると困る。
「いや、でも」
「じゃあ一ノ瀬さんでもいいけど、そのうち玲奈って呼んでくれたら嬉しいな」
「……難易度が高い」
「高い?」
「かなり」
わたしが真顔で答えると、玲奈は楽しそうに笑った。
なんだかもう、会話の主導権を最初から最後まで握られている気がする。
昼休みが終わる頃には、わたしは緊張と疲労でへとへとになっていた。
でも玲奈は最後まで機嫌がよくて、お弁当箱を片づけながら言った。
「また一緒に食べようね」
「……また?」
「うん」
まるで、もう決まっていることみたいに。
そこで予鈴が鳴って、玲奈は自分の席へ戻っていった。去り際、くるっと振り向いて、小さく手を振る。
その仕草ひとつさえ絵になるのがずるい。
午後の授業も、やっぱり少し上の空だった。
ノートはちゃんと取ったと思う。でも、たぶんいつもより字がちょっと雑だ。授業の合間にふと前を向くと、玲奈が友達と笑っている。かと思えば、次の休み時間にはまたこちらに視線を向けてくる。
気のせいじゃない。
わたしは確かに、見られている。
帰りのホームルームが終わって、みんなが部活や下校の支度を始める中、わたしも鞄をまとめて立ち上がった。
今日は一日、いろいろありすぎた。早く帰って静かな部屋でひと息つきたい。
そう思って教室を出ようとしたとき。
「ましろ」
また名前を呼ばれた。
もう驚く元気もあまりなかった。振り向くと、案の定そこには玲奈がいる。
「……なに?」
「やっと名前で返してくれた」
「え」
「今、“なに?”って自然だったから」
しまった。完全に無意識だった。
玲奈は満足そうに笑って、少しだけ身を屈める。周りに聞こえないくらいの声で、でもわたしにはしっかり届く距離で。
「明日も話しかけていい?」
「……それは」
断る理由を探そうとして、見つからない。
「別に、いいけど」
「ほんと?」
「うん……」
「よかった」
そして玲奈は、今日いちばんずるい顔で笑った。
「じゃあ、明日も隣、行くね」
その言葉を残して、彼女は軽やかに去っていく。
ひとり取り残されたわたしは、しばらくその場で固まっていた。
教室のざわめきも、廊下を歩く音も、遠くに聞こえる。
頭の中に残っているのは、最後の一言だけだった。
明日も隣、行くね。
「……どうして」
ぽつりとこぼれた声は、自分でもびっくりするくらい小さかった。
どうして、学年の人気者が。
どうして、わたしなんかに。
春の光が差し込む教室で、わたしはようやく理解する。
たぶん、わたしの静かな高校二年生は、もう最初から予定どおりにはいかない。
そしてそれは、思っていたよりずっと厄介で、少しだけ――
少しだけ、気になってしまう始まりだった。




