第35話 人気者の輪は、眩しいけれど怖くない
人気者には、人気者の世界がある。
それはずっと、わたしの中で変わらない感覚だった。
教室の中心に自然と集まる人たち。
休み時間になると、誰かが声をかけ、誰かが笑い、気づけばそこだけ空気が少し明るくなる。
わたしは、そういう輪を遠くから見る側だった。
嫌いではない。
むしろ、すごいなと思う。
でも、自分がそこに入れるとは思わない。
入ろうとも思わない。
眩しい場所は、遠くから眺めるくらいがちょうどいい。
少なくとも、少し前までのわたしはそう思っていた。
「小日向さん、今日購買行く?」
昼休み前の休み時間。
突然そう声をかけられて、わたしはノートに書いていた文字を止めた。
顔を上げると、そこには水瀬彩乃さんが立っていた。
玲奈さんの友達。
明るくて、話すテンポが軽くて、教室の中でも自然に人が集まるタイプの子。
その隣には倉田芽衣さんもいる。
そして斜め前の席から、玲奈さんがこちらを見ていた。
「購買……?」
「うん。今日、限定のクリームパン入るらしくて。玲奈と芽衣と行こうって話しててさ。小日向さんもどうかなって」
どうかなって。
言葉だけなら軽い誘いだ。
でも、わたしにとってはけっこう大きい。
玲奈さんと二人でお昼を食べることには、かなり慣れてきた。
みおが混ざることもある。
朝比奈さんや篠宮先輩と図書室で話すことも増えた。
でも、玲奈さんの“元からの友達”の輪に入るのは、また別の話だった。
わたしが返事に詰まっていると、玲奈さんが少しだけ身を乗り出した。
「無理しなくていいよ、ましろ」
その声はやわらかかった。
でも、彩乃さんはすぐに手を振る。
「あ、ほんと無理にじゃないよ。なんか最近、玲奈から小日向さんの話よく聞くから、普通に話してみたくて」
「彩乃」
「だって本当でしょ」
玲奈さんが少しだけ困った顔をする。
その様子を見て、芽衣さんがくすっと笑った。
「玲奈、最近わかりやすいよね。『ましろが』で始まる話、多い」
「芽衣まで」
「事実だから」
わたしは、どう反応していいかわからず、机の上のシャープペンを指で転がした。
玲奈さんが、わたしの話をしている。
昨日も聞いた。
でも、こうして本人たちの口から言われると、やっぱり落ち着かない。
それに、少しだけ嬉しい。
嬉しいと思ってしまう自分が、さらに落ち着かない。
「……行っても、いいなら」
気づけば、そう言っていた。
彩乃さんの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと? やった。じゃあ昼休みなったら行こ」
「う、うん」
玲奈さんがこちらを見る。
心配しているような、嬉しいような顔だった。
「ましろ、大丈夫?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
「自信はない」
正直に言うと、玲奈さんが小さく笑った。
「じゃあ、わたし隣にいる」
その言い方が、当たり前みたいで。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室が一気に騒がしくなった。
いつもなら、わたしは鞄からお弁当を取り出す。
玲奈さんが椅子をずらしてくる。
それが日課になっていた。
でも今日は違う。
玲奈さんと、彩乃さんと、芽衣さんと一緒に教室を出る。
ただ購買へ行くだけなのに、なんだか知らない場所へ連れていかれるみたいな気持ちだった。
廊下に出ると、彩乃さんが軽い調子で話しかけてくる。
「小日向さんって、購買あんまり行かない?」
「あまり行かないかも。お弁当が多いから」
「だよね。玲奈が言ってた。小日向さんのお弁当、玉子焼きが甘いって」
「玲奈さん」
思わず横を見る。
玲奈さんは気まずそうに目を逸らした。
「……言ったかも」
「言ってたね。あと唐揚げが大事って話も」
芽衣さんが続ける。
待って。
そこまで話しているの。
「唐揚げは……みおが余計なことを言っただけで」
「ああ、幼なじみの子?」
「うん」
「藤咲さん、面白いよね。朝ちょっと話しただけだけど、強キャラ感あった」
強キャラ。
みおに聞かせたら絶対に調子に乗る。
玲奈さんが隣で少し笑った。
「藤咲さん、ましろのことよく知ってるから」
「そりゃ幼なじみだもんねえ」
彩乃さんが何気なく言う。
以前なら、その言葉に玲奈さんが少しだけ静かになっていたかもしれない。
けれど今日は、玲奈さんは普通に頷いた。
「うん。だから、ちょっと羨ましい」
さらっと言った。
わたしは思わず玲奈さんを見る。
玲奈さんは少しだけ照れたように笑った。
「でも、今のましろはわたしも見てるから」
「玲奈さん」
「言いすぎた?」
「……廊下では、少し」
「ごめん」
謝っているけれど、顔は嬉しそうだった。
彩乃さんと芽衣さんは、こちらを見てにやにやしている。
「なるほどねえ」
「玲奈がこうなるわけだ」
「何が?」
玲奈さんが少し警戒した声を出す。
彩乃さんは笑って肩をすくめた。
「いや、小日向さんって、玲奈をちゃんと照れさせるんだなって」
「照れさせてない」
わたしが即座に否定すると、芽衣さんが楽しそうに言った。
「でも玲奈、さっき照れてたよ」
「芽衣」
「事実」
「みんな事実って言えばいいと思ってる」
玲奈さんが少し拗ねたように言う。
その顔を見て、わたしは少しだけ笑ってしまった。
すると玲奈さんがすぐ気づく。
「ましろ、笑った」
「今のは、玲奈さんがちょっと珍しかったから」
「珍しい?」
「拗ねた顔」
言ってから、しまったと思った。
玲奈さんが固まる。
彩乃さんと芽衣さんが、ほぼ同時に「おー」と声を漏らす。
「小日向さん、けっこう言うね」
「玲奈、今の効いたでしょ」
「……効いた」
玲奈さんが小さく認めた。
その返事で、今度はわたしの顔が熱くなる。
人気者の輪は、やっぱり眩しい。
でも思っていたより、こわくない。
少なくとも、この二人はわたしを値踏みするようには見ていなかった。
玲奈さんをからかい、わたしをからかい、でもちゃんとこちらの反応を見て、踏み込みすぎないところで笑ってくれる。
購買は、すでに人でいっぱいだった。
パンの棚の前に生徒たちが集まり、誰かが「限定どれ?」と声を上げている。
わたしは思わず一歩引いた。
人が多い。
声が多い。
こういう場所は、あまり得意ではない。
すると、玲奈さんが自然にわたしの横へ立った。
「ましろ、ここで待つ?」
「ううん。大丈夫」
「無理しないで」
「してない。ちょっとびっくりしただけ」
「そっか」
玲奈さんはそれ以上押さなかった。
その代わり、わたしのすぐ隣にいてくれた。
彩乃さんが前の方を覗き込む。
「あ、あった。クリームパンまだ残ってる」
「じゃあ四つ?」
芽衣さんが聞く。
彩乃さんはわたしを見る。
「小日向さんも食べる? お弁当あるなら半分でも」
「えっと……じゃあ、半分なら」
「出た、半分」
玲奈さんが小さく笑う。
「何?」
「ましろ、半分くれることも、半分もらうことも増えてきたなって」
「そういう記録を取らないで」
「大事だから」
「何が?」
「半分って、けっこう近い」
そんなことを購買前で言わないでほしい。
彩乃さんが「うわ」と小さく声を出した。
「玲奈、けっこう言うね」
「最近、自覚してきた」
「自覚してそれ?」
「少し抑えてる」
「抑えてそれ?」
芽衣さんの突っ込みに、玲奈さんは少しだけ笑った。
結局、限定のクリームパンを二つ買って、四人で分けることになった。
教室に戻る途中、彩乃さんが袋を掲げる。
「小日向さん、教室で食べる? それとも中庭?」
「え?」
「ほら、玲奈が言ってた。中庭ランチしたんでしょ」
また玲奈さんが話していた情報が出てきた。
玲奈さんを見ると、今度は開き直ったように笑った。
「楽しかったから」
「……そう」
「ましろも、たまにならって言ってくれたし」
「言ったけど」
「覚えてる」
「忘れて」
「無理」
いつものやり取り。
でも、玲奈さんの友達の前でやると、また違う恥ずかしさがある。
彩乃さんと芽衣さんは、思ったより静かにそれを見ていた。
そして彩乃さんが、ふっと笑う。
「玲奈、小日向さんの前だと安心してわがまま言ってる感じする」
「わがまま?」
玲奈さんが聞き返す。
彩乃さんは頷いた。
「うん。いつもはもっと周り見てるじゃん。誰が何言いたいかとか、誰が退屈してるかとか。そういうの気にしてる顔してる」
玲奈さんが黙った。
芽衣さんも続ける。
「でも小日向さんの前だと、玲奈が自分の言いたいこと言ってる気がする」
わたしは、クリームパンの袋を持ったまま玲奈さんを見た。
玲奈さんは少しだけ困ったように笑っている。
でも、否定はしなかった。
「……そうかな」
「そうだよ」
彩乃さんは軽く言う。
「だから、小日向さんにちょっと感謝してる」
「わたしに?」
「うん。玲奈が楽しそうだし」
まっすぐな言葉だった。
朝比奈さんとは違う。
みおとも違う。
けれど、ちゃんと相手を見ている人の言葉だった。
わたしは、少しだけ戸惑いながら答えた。
「わたしは……特に何かしてるわけじゃないです」
「でも、玲奈がそうなれる相手ってことじゃん」
芽衣さんが言う。
「それ、けっこう大事だと思うよ」
返事ができなかった。
玲奈さんが隣で小さく息を吐く。
「二人とも、今日なんかやさしい」
「いつもやさしいけど?」
「ねえ?」
彩乃さんと芽衣さんが顔を見合わせて笑う。
その軽さに救われた。
教室に戻ると、みおがわたしたちを見るなり、すぐに状況を察した顔をした。
「お、人気者グループ遠征から帰還」
「変な名前をつけないで」
「クリームパン?」
「限定らしい」
「いいな」
みおがわざとらしく羨ましそうに言う。
すると彩乃さんが袋を見せた。
「少し食べる?」
「え、いいの?」
「小日向さんも半分だし、みんなでちょっとずつなら」
「彩乃さん、話がわかる」
みおはすぐに馴染んだ。
さすがというべきか、遠慮がないというべきか。
気づけば、わたしの席の周りに、玲奈さん、彩乃さん、芽衣さん、みおが集まっていた。
思ったより人が多い。
前なら絶対に緊張していた。
今も緊張はする。
でも、逃げたいほどではない。
玲奈さんが隣で、小さく聞いてくる。
「ましろ、大丈夫?」
「うん」
「ほんと?」
「うん。ちょっと騒がしいけど」
「ごめん」
「でも、嫌じゃない」
玲奈さんは、ふっと笑った。
「そっか」
その一言が、とても嬉しそうだった。
クリームパンは、思ったより甘かった。
ふわっとした生地に、なめらかなクリームが入っている。半分だけでも十分満足できる味だった。
「おいしい?」
玲奈さんが聞く。
「うん。おいしい」
「よかった」
玲奈さんが安心したように笑う。
そのやり取りを見て、彩乃さんが小さく言った。
「玲奈、小日向さんがおいしいって言うの好きだよね」
「好き」
玲奈さんが即答した。
わたしはクリームパンを落としそうになった。
「玲奈さん」
「あ」
玲奈さんが一拍遅れて気づく。
彩乃さんと芽衣さんは、声を出さずに笑っている。
みおは完全に面白がっている。
「今のは、クリームパンの話だから」
玲奈さんが言い訳する。
みおが即座に言った。
「ほんとに?」
「……半分くらい」
「半分は何?」
「言わない」
玲奈さんが少しだけ顔を赤くした。
わたしはもう、どこを見ればいいのかわからない。
でも、不思議と嫌ではなかった。
恥ずかしくて、落ち着かなくて、心臓には悪い。
それでも、その輪の中にいることが、前ほど怖くない。
昼休みの終わり頃、彩乃さんと芽衣さんは自分たちの席へ戻っていった。
戻る前に、彩乃さんがわたしに言った。
「小日向さん、また購買行こ」
「……うん。たまになら」
「たまにね。了解」
芽衣さんも笑う。
「玲奈抜きでも誘っていい?」
「えっ」
玲奈さんが反応する。
芽衣さんはにやっとした。
「冗談。半分くらい」
「その半分、最近危ない」
みおが横から言った。
みんなが笑う。
わたしも、少しだけ笑ってしまった。
放課後、玲奈さんと並んで帰る道。
夕方の空は薄く晴れていて、校舎の窓が少しだけ橙色に光っていた。
「今日、疲れた?」
玲奈さんが聞いた。
「少し」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
「でも、わたしの友達に巻き込んだし」
「巻き込まれたってほどじゃない」
わたしは少し考えてから、続けた。
「彩乃さんも芽衣さんも、いい人だった」
「うん」
「玲奈さんのこと、ちゃんと見てるんだね」
玲奈さんは少しだけ黙った。
それから、静かに頷く。
「うん。たぶん、わたしが思ってたより」
「そういうの、いいね」
「いい?」
「うん。玲奈さんの周りに、ちゃんと見てくれる人がいるの、いいと思う」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、今日のわたしは最後まで言った。
「安心した」
玲奈さんが足を止めた。
わたしも少し遅れて止まる。
玲奈さんは、わたしを見ていた。
「ましろが?」
「うん」
「わたしのことで?」
「……うん」
玲奈さんはしばらく何も言わなかった。
それから、すごく静かに笑った。
「それ、すごく嬉しい」
「また嬉しい」
「うん。何回でも言う」
玲奈さんは一歩だけ近づく。
肩は触れない。
でも、近い。
「わたしも、今日ちょっと安心した」
「何に?」
「ましろが、わたしの友達と話して、嫌じゃなさそうだったこと」
「……うん」
「ましろの世界にわたしが入っていくばっかりじゃなくて、わたしの世界にも、少しましろが来てくれた気がした」
その言葉は、胸の奥にゆっくり落ちた。
わたしは、玲奈さんの世界に少し入った。
人気者の輪。
眩しくて、遠くて、怖いと思っていた場所。
でも実際に入ってみたら、そこには玲奈さんをちゃんと見ている人たちがいた。
「……少しだけなら」
わたしは言った。
「うん?」
「玲奈さんの世界にも、行けるかもしれない」
玲奈さんは目を丸くした。
そして、今日いちばん嬉しそうに笑った。
「じゃあ、少しずつ」
「うん。少しずつ」
人気者の輪は、眩しい。
でも、怖いだけではなかった。
そこにもちゃんと、優しい人たちがいる。
そしてその中心にいる玲奈さんは、わたしが思っていたよりずっと、人に見られ、人を見て、少し無理をして、少しわがままになれる場所を探していたのかもしれない。
その場所の一つに、わたしがなれているのなら。
それは、少し恥ずかしくて、でもとても嬉しいことだと思った。




