第33話 短い言葉ほど、隣が近い
次の日の放課後、わたしはまた図書室へ向かっていた。
最近、図書室に行く回数が増えた気がする。
もともと好きな場所ではあった。授業の合間や放課後に本を借りに行くことも多かったし、窓際の席で少しだけ本を読む時間も好きだった。
けれど、前はもう少し静かだった。
わたしひとりで本棚を眺めて、気になった本を手に取って、借りるかどうか迷って、誰にも気づかれないように帰る。
それが、わたしにとっての図書室だった。
でも今は違う。
隣に玲奈さんがいる。
時々、朝比奈さんが駆け込んでくる。
篠宮先輩が静かに待っていて、みおがあとから全部わかったような顔で感想を言う。
静かだった場所に、少しずつ人の気配が増えていく。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
「ましろ、今日ちょっと楽しそう」
隣を歩く玲奈さんが言った。
廊下には、放課後特有のざわめきが残っている。部活へ向かう生徒たちの足音、どこかの教室から聞こえる笑い声、窓の外から響くボールの音。
その中で、玲奈さんの声は自然にわたしの耳に届いた。
「楽しそう?」
「うん。顔がちょっとやわらかい」
「また顔で判断してる」
「ましろ、顔に出るから」
「最近、みんなそれ言う」
「みんなが言うなら、たぶん本当だよ」
昨日も同じようなことを言われた気がする。
わたしは鞄の紐を握り直しながら、小さく息を吐いた。
「ポップ作りが、少し気になってるだけ」
「楽しみ?」
「……少し」
認めると、玲奈さんは嬉しそうに笑った。
「そっか」
「何で玲奈さんが嬉しそうなの」
「ましろが楽しみにしてることがあるの、嬉しいから」
「またそういうことを言う」
「言いたくなるから」
さらっと返されて、言葉に詰まる。
玲奈さんは、こういう言葉を本当に自然に置いてくる。最初の頃なら、それだけで慌てていたと思う。
今も慌てる。
でも、少しだけ受け取れるようになった。
それがいいことなのかどうかは、まだわからない。
ただ、嫌ではない。
図書室の扉の前に着くと、玲奈さんが少しだけ足を止めた。
「どうしたの?」
「いや、昨日ましろが言ってたから」
「何を?」
「わたしと一緒なら、少し楽しそうって」
言った。
確かに言った。
昨日、図書室前の掲示板を見ながら。
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
「……覚えてなくていい」
「無理」
「玲奈さん、最近そればっかり」
「だって、忘れられないことばっかり言うから」
「それは玲奈さんの方だと思う」
「じゃあ、お互いさま?」
玲奈さんが少しだけ首を傾げて笑う。
その表情が、いつもより少し近く見えた。
距離は変わっていない。
でも、言葉の距離が近い。
わたしは返事をごまかすように、図書室の扉に手をかけた。
「入ろう」
「うん」
扉を開けると、いつもの紙の匂いがした。
放課後の図書室は、今日も静かだった。
けれど、完全な静寂ではない。ページをめくる音、椅子を引く小さな音、カウンターで本を返す誰かの声。
その小さな音が、図書室らしい空気を作っている。
奥の机には、すでに篠宮先輩がいた。
黒髪を耳にかけ、机の上に何枚かの色画用紙とペンを並べている。そばには、図書委員らしい生徒が二人いて、何かを確認していた。
篠宮先輩はわたしたちに気づくと、静かに顔を上げた。
「来てくださったのですね」
「はい」
「お願いします」
玲奈さんも、少し丁寧な声で答える。
篠宮先輩は、机の上に置かれた小さな紙を指した。
「今日は、本棚に置くポップの下書きをお願いします。紹介カードより短く、本を手に取るきっかけになる言葉を考えるものです」
「短いんですね」
玲奈さんが紙を一枚手に取る。
名刺より少し大きいくらいのサイズだった。
「はい。文字数が多いと読まれにくいので、できれば二、三文程度で」
「二、三文……」
わたしは思わず呟いた。
難しい。
紹介カードも短いと思ったけれど、ポップはもっと短い。
短い言葉で、本の空気を伝える。
それは、思っていた以上に難しそうだった。
篠宮先輩は、わたしの顔を見て少しだけ目元をやわらげた。
「小日向さんは、悩みそうですね」
「はい。かなり」
「でも、悩む時間も大事です」
「……そうですね」
篠宮先輩に言われると、悩むことすら肯定されたような気がする。
わたしは少しだけ肩の力を抜いた。
玲奈さんが隣で小さく笑う。
「ましろ、悩んでる顔も図書室に合う」
「合わなくていい」
「合ってるよ」
「褒めてる?」
「うん」
「……ありがとう」
小さく返すと、玲奈さんは少し嬉しそうにした。
最近、わたしはこういうときに「ありがとう」と言う回数が増えた気がする。
前なら、恥ずかしくて否定するだけだった。
でも、受け取れる言葉は受け取った方がいいのかもしれないと、少しずつ思うようになっている。
もちろん、全部ではない。
玲奈さんの言葉は、ときどき受け取るには熱すぎる。
「今日はこちらの棚を中心にお願いします」
篠宮先輩が案内してくれたのは、現代小説と恋愛小説の棚だった。
見覚えのある背表紙がいくつも並んでいる。
わたしが以前読んだ本もある。
玲奈さんと感想を話した本もある。
朝比奈さんが借りていた本も、棚の端に一冊戻っていた。
「自分が読んだ本でなくても構いません。気になる本を手に取って、帯やあらすじを読んで考えてもいいです」
「読んでない本でもいいんですか?」
「はい。ただ、内容と大きく違う言葉にならないように、あらすじや冒頭は確認してください」
篠宮先輩の説明は丁寧だった。
わたしは棚の前に立ち、背表紙を眺める。
どれにしよう。
そう考えた瞬間、玲奈さんが隣に並んだ。
「ましろは、どれにする?」
「まだ迷ってる」
「だよね」
「玲奈さんは?」
「わたしも迷ってる」
「意外」
「ましろに見せると思うと、余計に」
言わなくていい。
そう言おうとして、でも言えなかった。
たしかに、わたしも玲奈さんに見られると思うと余計に迷う。
ただ本を紹介するだけなのに。
言葉を誰かに見せることに慣れていないせいかもしれない。
でも、それだけではない気もした。
「……見せる前提なんだ」
わたしが言うと、玲奈さんは少しだけ目を丸くした。
「見せないの?」
「見せる、と思うけど」
「うん」
「玲奈さんのも見るけど」
「うん」
「……何でそんなに嬉しそうなの」
「ましろが、見るって言ってくれたから」
また、言葉の受け取り方がまっすぐすぎる。
わたしは本棚に視線を戻した。
目の前にあった一冊を手に取る。
薄い水色の表紙。
タイトルは、以前少し気になっていたものだった。
内容は、クラスで目立たない女の子が、偶然隣の席になった子と少しずつ話すようになる物語らしい。
あらすじを読んだだけで、少しだけ胸が落ち着かなくなる。
玲奈さんが隣から覗き込んだ。
「それ、ましろっぽい」
「ぽいって言わないで」
「だって、隣の席って書いてある」
「それだけで?」
「わたしたちも、隣から始まったようなものだし」
そう言われて、返事に詰まった。
正確には隣の席ではない。
玲奈さんが、わたしの隣に勝手に来た。
でも、それが始まりだったのは本当だ。
あの日、玲奈さんがわたしに話しかけてこなかったら。
たぶん、今こうして一緒に図書室でポップを考えることもなかった。
「……玲奈さんは、どれにするの?」
話を逸らすように聞くと、玲奈さんは少し笑って別の本を手に取った。
表紙には、放課後の階段に座る女の子が二人描かれている。
「これ、気になる」
「どうして?」
「片方がすごく話しかけたそうなのに、もう片方が少し困ってる顔してる」
「……玲奈さん、それ」
「うん。ちょっと親近感」
「自覚あるんだ」
「あるよ」
玲奈さんは表紙を見つめながら笑った。
「でも、困ってる顔だけじゃなくて、少し笑ってるから」
その言葉に、わたしは黙った。
玲奈さんは、やっぱりよく見ている。
困っているかどうか。
逃げたいかどうか。
その中に少しでも笑いがあるかどうか。
そういうところを、見ている。
わたしは手元の本をそっと閉じた。
「じゃあ、それで書く?」
「うん。ましろは?」
「これにする」
「隣の席の話?」
「うん」
「そっか」
玲奈さんは少しだけ嬉しそうに笑った。
言葉にはしなかったけれど、たぶん同じことを考えている。
隣。
近づく。
困る。
笑う。
最近のわたしたちの周りには、そういう言葉ばかり増えている。
机に戻ると、朝比奈さんが来ていた。
いつの間にか図書室に入ってきて、篠宮先輩から紙をもらっている。
「小日向先輩!」
声は小さめだった。
でも勢いはいつも通りだった。
「朝比奈さんも来たんだ」
「はい! ポップ作り、参加していいと言ってもらえたので!」
「そっか」
「小日向先輩と一ノ瀬先輩と一緒に言葉を考えられるなんて、すごく勉強になります」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないです!」
篠宮先輩が、静かに注意するように人差し指を少し立てる。
朝比奈さんは、はっとして声を落とした。
「大げさじゃないです……」
小声でも力がこもっていて、少し笑ってしまう。
玲奈さんも楽しそうにしていた。
「こはるちゃんは、どの本にするの?」
「これです!」
朝比奈さんが見せてくれたのは、短編集だった。
表紙には、小さな手紙と花が描かれている。
「手紙の話?」
「はい。短い言葉で気持ちを届ける話が多いみたいです」
「ポップにぴったりかも」
わたしが言うと、朝比奈さんはぱっと顔を明るくした。
「本当ですか?」
「うん」
「小日向先輩に言われると、安心します」
「そういうの、すぐ言う」
「でも本当なので」
朝比奈さんのまっすぐさは、やっぱり変わらない。
けれど最近は、そのまっすぐさの中に少しだけ丁寧さが混ざってきた気がする。
机に三人で並んで座る。
篠宮先輩は向かいで、別の図書委員の作業を見ながら、ときどきこちらにも目を向けてくれる。
小さな紙を前に、わたしたちはそれぞれペンを持った。
短い言葉。
短いからこそ、逃げられない。
わたしは考え込む。
隣の席の話。
目立たない女の子と、よく話す女の子。
少しずつ言葉が増えていく物語。
ポップにするなら、どんな言葉がいいだろう。
説明しすぎると、ただのあらすじになる。
飾りすぎると、わたしの言葉ではなくなる。
悩んでいると、玲奈さんが横から小さく言った。
「ましろ、眉寄ってる」
「考えてるから」
「うん。知ってる」
「じゃあ言わなくていい」
「でも、そういう顔も好きだから」
ペンを落としかけた。
「玲奈さん」
「あ、ごめん。図書室だった」
「場所の問題だけじゃない」
玲奈さんは少しだけ笑って、すぐに自分の紙へ視線を戻した。
朝比奈さんが、反対側から小声で言う。
「小日向先輩、今の顔も素敵でした」
「朝比奈さん」
「すみません。順番を間違えました」
「順番以前に、今はポップに集中しよう」
「はい」
朝比奈さんは素直に頷く。
隣では玲奈さんがまだ少し笑っている。
図書室なのに、静かに騒がしい。
そんな変な状態が、最近は少しだけ心地よくなってきた。
しばらく考えて、わたしは一文を書いた。
――隣の席から始まる、小さな会話の積み重ね。
少し普通すぎるかもしれない。
でも、悪くはない気がする。
その下に、もう一文。
――名前のない距離が、少しずつ特別になっていく物語です。
書いた瞬間、少し恥ずかしくなった。
自分で書いておいて、また自分に刺さっている。
「ましろ、見てもいい?」
玲奈さんが聞く。
わたしは少し迷ってから、紙を差し出した。
玲奈さんはそれを読んで、しばらく黙った。
何か言ってほしいような、言わないでほしいような、複雑な気持ちになる。
「……これ、好き」
玲奈さんが言った。
声は小さい。
でも、ちゃんと届いた。
「特に、名前のない距離ってところ」
「恥ずかしいから、そこだけ拾わないで」
「でも、そこがいい」
「そう?」
「うん。ましろの言葉だと思う」
胸が少し熱くなる。
玲奈さんは、わたしの言葉だと言った。
それが、思ったより嬉しかった。
「玲奈さんのは?」
聞くと、玲奈さんが少しだけ迷った。
珍しい。
「まだ途中だけど」
そう言って見せてくれた紙には、こう書かれていた。
――近づきたい。でも、困らせたくない。
その下に、もう一文。
――相手を大切にしたいからこそ迷う、やさしい距離の物語。
わたしは、すぐには言葉が出なかった。
玲奈さんらしい。
けれど、昨日のカードよりさらに近い気がした。
「……いいと思う」
「本当?」
「うん。玲奈さんの言葉だと思う」
玲奈さんが、少しだけ息を止めたように見えた。
それから、顔を赤くする。
「ましろ、それ返してきた?」
「返した」
「効くね」
「玲奈さんがいつもやってることだよ」
「反省する」
「少し?」
「かなり」
小さく笑い合う。
朝比奈さんが、その横でうずうずしていた。
「わたしのも、見てもらっていいですか?」
「うん」
朝比奈さんの紙には、丁寧な字でこう書かれていた。
――短い言葉でも、ちゃんと届くことがある。
その下に、少し迷った跡がありながら、続きが書かれている。
――言えなかった気持ちを、手紙にして渡したくなる短編集です。
「すごくいい」
わたしはすぐに言った。
朝比奈さんの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「うん。短編集の雰囲気も伝わるし、朝比奈さんらしい」
「小日向先輩……!」
「声」
「あっ、はい……!」
朝比奈さんは口元を押さえた。
玲奈さんも頷く。
「こはるちゃんの言葉、前より届きやすくなってる気がする」
「一ノ瀬先輩まで……!」
「声」
「はい……!」
同じやり取りを二回してしまい、わたしと玲奈さんは思わず顔を見合わせて笑った。
篠宮先輩が、こちらへやってきた。
「見せていただいても?」
「はい」
三人の紙を確認する篠宮先輩の表情は、いつも通り静かだった。
けれど、目元が少しだけやわらかい。
「どれも良いですね」
短い言葉。
でも、ちゃんと嬉しい。
「小日向さんは、静かな変化を伝えるのが上手です。一ノ瀬さんは、迷いを前向きに見せています。朝比奈さんは、言葉を届ける喜びが出ています」
それぞれに、ちゃんと感想をくれる。
篠宮先輩のこういうところは、やっぱり強いと思う。
玲奈さんも同じことを思ったのか、少しだけわたしを見る。
わたしは小さく頷いた。
篠宮先輩は続ける。
「清書したら、棚に置きましょう。きっと目に留まると思います」
その言葉で、少しだけ緊張した。
また、誰かに見られる。
わたしたちの言葉が。
でも前ほど怖くはなかった。
怖さの中に、少しだけ楽しみがある。
その後、三人で清書をした。
小さな紙に、丁寧に文字を書く。
わたしは黒。
玲奈さんは茶色。
朝比奈さんは桃色のペンを選んだ。
色まで、それぞれらしい気がした。
清書が終わると、篠宮先輩が透明な小さなスタンドにポップを入れてくれた。
そして本棚の前へ案内される。
まず、わたしのポップ。
隣の席の話の本の前に置かれる。
次に玲奈さんのポップ。
階段の表紙の本の前。
そして朝比奈さんのポップ。
手紙の短編集の前。
それぞれ別の本。
別の棚。
けれど、同じ場所で生まれた言葉たち。
玲奈さんが、わたしの隣で小さく言った。
「なんか、秘密基地に看板置いたみたい」
「昨日も秘密基地って言ってた」
「だって、そういう感じしない?」
わたしは本棚を見た。
そこには、わたしたちの小さな言葉が置かれている。
誰かに読まれるかもしれない。
読まれないかもしれない。
でも確かに、そこにある。
「……少し、わかる」
そう答えると、玲奈さんは嬉しそうに笑った。
「でしょ?」
朝比奈さんが、少し離れたところから自分のポップを見つめていた。
篠宮先輩はカウンターへ戻り、別の作業を始めている。
図書室は、今日も静かだった。
けれど、その静けさの中に、わたしたちの言葉が少しだけ増えた。
短い言葉ほど、隣が近い。
余計な説明ができない分、そこに何を置くかが見えてしまう。
わたしの言葉。
玲奈さんの言葉。
朝比奈さんの言葉。
それぞれ違うのに、どこかでつながっている。
「ましろ」
玲奈さんが小さく呼ぶ。
「何?」
「今日、一緒に来てよかった」
「うん」
わたしは少しだけ迷ってから、続けた。
「わたしも」
玲奈さんが驚いたようにこちらを見る。
「わたしも、一緒に来てよかった」
今度は、ちゃんと言えた。
玲奈さんは、少しだけ照れたように笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、帰りも一緒でいい?」
「……うん」
「よかった」
そのやり取りを、朝比奈さんが少し離れたところから見ていた。
彼女は何か言いたそうに口を開きかけて、でも少し考えて、結局にこっと笑うだけにした。
順番を考えている。
それがわかって、わたしは少しだけ笑ってしまった。
朝比奈さんも、たぶん少しずつ変わっている。
玲奈さんも。
わたしも。
短い言葉を選びながら、少しずつ。
言えなかったことの形を探すみたいに。




