第31話 後輩のカードは、まっすぐすぎて少し眩しい
朝比奈さんの紹介カードが掲示されたのは、その翌日の昼休みだった。
正確に言えば、わたしがそれを知ったのは昼休みだった、という方が近い。
朝の時点では、まだ掲示板の前を通らなかった。昨日あれだけ自分と玲奈さんのカードを意識してしまったせいで、少しだけ図書室前を避けていたのだと思う。
見たい。
けれど、見に行くのが恥ずかしい。
そういう、よくわからない気持ちだった。
自分の紹介カードが貼られているのを見るのも、玲奈さんのカードが隣に並んでいるのを見るのも、もう一度くらいなら平気だと思う。
でも、何度も見に行くと、自分で自分の言葉を気にしすぎているみたいで落ち着かない。
そんなふうに考えていたら、昼休みになった途端、教室の入口から元気な声が飛んできた。
「小日向先輩!」
もう、声だけでわかる。
朝比奈こはるだった。
わたしが顔を上げると、朝比奈さんは廊下から身を乗り出すようにして、両手を胸の前で握っていた。目がきらきらしている。
かなり、何か言いたそうな顔だ。
「朝比奈さん、どうしたの?」
「貼られました!」
「貼られた?」
「わたしの紹介カードです!」
その声は、抑えているつもりなのだろうけれど、十分に教室へ響いた。
近くの席の子が何人かこちらを見る。
わたしは思わず少しだけ背筋を伸ばした。
玲奈さんが斜め前の席から振り向く。
「こはるちゃんのカード、もう貼られたんだ」
「はい! 篠宮先輩が、昼休み前に貼ってくださいました!」
朝比奈さんは本当に嬉しそうだった。
自分の書いたものが掲示される。
それは恥ずかしいことでもあるはずなのに、朝比奈さんは怖さよりも嬉しさの方が大きいように見える。
少し羨ましい。
わたしなら、まず恥ずかしさで固まる。
実際、固まった。
「小日向先輩、見に来てくれますか?」
まっすぐ聞かれた。
断れるはずがない。
いや、用事があれば断ったかもしれない。でも今は昼休みで、お弁当を食べ終わったあとだった。玲奈さんといつものように話していただけだ。
それを“だけ”と言ってしまうのは、少し違う気もするけれど。
「うん。行くよ」
答えると、朝比奈さんの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「わたしも行っていい?」
玲奈さんが言う。
朝比奈さんは勢いよく頷いた。
「もちろんです! 一ノ瀬先輩にも見てほしいです!」
「じゃあ、行こっか」
玲奈さんが立ち上がる。
わたしも椅子を引いたところで、後ろから声がした。
「はい、わたしも行く」
みおだった。
当然のように鞄からスマホを机に置き、立ち上がる。
「みおも?」
「行くでしょ。こはるちゃんのカード、気になるし。あと、ましろと玲奈さんの反応も見たいし」
「後半が本音でしょ」
「両方本音」
みおは悪びれずに笑う。
朝比奈さんは少し驚いたあと、嬉しそうに頭を下げた。
「藤咲先輩も、ありがとうございます!」
「見に行くだけでそんなに感謝されると、逆にこっちが照れるなあ」
「でも、嬉しいので!」
「こはるちゃんは素直でいいね」
「はい!」
「今のは自分で頷くところなんだ」
みおが笑う。
そのやり取りを見ているだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
図書室前の掲示板には、昼休みらしく数人の生徒が集まっていた。
読書週間の見出しの下に、紹介カードが少しずつ増えている。色の違うカードが並ぶと、それだけで見た目が明るくなる。
そして、その中に朝比奈さんのカードがあった。
わたしと玲奈さんのカードの、少し下。
淡い桃色のカード。
朝比奈さんらしい、丸くて丁寧な文字。
タイトルと作者名の下に、好きな一文が書かれている。
――言葉は急がなくてもいい。けれど、届けたいと思った気持ちは、いつか形を探し始める。
紹介文は、昨日見せてもらった下書きより少しだけ整っていた。
好きな人に近づきたいけれど、言葉の順番がわからない人へ。焦らなくても、まっすぐな気持ちは、ちゃんと届く形を探せると教えてくれる本です。
読み終えたあと、わたしは少しだけ黙った。
朝比奈さんは隣で、息を詰めるようにしてこちらを見ている。
感想を待っている。
それがわかるから、わたしはすぐに軽い言葉を返せなかった。
ちゃんと読みたかった。
ちゃんと返したかった。
「……いいね」
まず、それだけ言った。
朝比奈さんの肩が少し動く。
「本当ですか?」
「うん。下書きより、もっと読みやすくなってる」
「はい。篠宮先輩にも少し見てもらって、言葉を減らしました」
「その方が、朝比奈さんの言いたいことがまっすぐ届くと思う」
わたしがそう言うと、朝比奈さんは本当にほっとしたように笑った。
玲奈さんもカードを見て、やわらかく頷く。
「こはるちゃんらしいね。でも、ちゃんと読む人のことも考えてる」
「一ノ瀬先輩……」
「好きな一文もいいと思う。言葉が形を探し始める、ってところ」
「そこ、すごく好きだったんです」
朝比奈さんは嬉しそうに言った。
「今までは、思ったことをそのまま言えば届くと思っていたんですけど、最近は、届く形を考えることも大事なんだなって」
そう言ってから、ちらりとわたしを見る。
「小日向先輩に教えてもらいました」
「わたしは、そんな大したこと言ってないよ」
「言いました」
即答だった。
朝比奈さんは、少しだけ声を落とす。
「順番が大事って」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しあたたかくなった。
わたしの言葉が、朝比奈さんの中に残っていた。
それが嬉しい。
でも、少し恥ずかしい。
わたしが何かを言う前に、みおが掲示板をじっと見ながら言った。
「三枚並んで見ると、なんかすごいね」
「三枚?」
「ましろ、玲奈さん、こはるちゃん。全部、距離の話してる」
言われて、わたしも改めて掲示板を見る。
わたしのカード。
玲奈さんのカード。
朝比奈さんのカード。
隣にいる理由。
近づく怖さ。
言葉の順番。
確かに、三枚とも違う本を紹介しているのに、どこか同じ方向を向いている。
人と人の距離。
近づきたい気持ち。
届く言葉。
偶然、なのだと思う。
でも、偶然にしては少しできすぎていた。
「……ほんとだ」
わたしが呟くと、玲奈さんが小さく笑った。
「わたしたち、考えてること似てるのかな」
「似てるというか、影響されてるんじゃない?」
みおがあっさり言う。
わたしは振り向いた。
「影響?」
「そりゃそうでしょ。毎日一緒にお弁当食べたり、図書室行ったり、感想言い合ったりしてるんだから。完全に別々のこと考えてる方が難しいって」
みおは、そういうことを何でもない顔で言う。
玲奈さんが、少しだけ考えるように掲示板を見た。
「影響、か」
「嫌?」
みおが聞く。
玲奈さんはすぐに首を横に振った。
「嫌じゃない」
その言い方に、わたしは少しだけ反応してしまった。
玲奈さんが、わたしの言葉を使った。
最近、みんなが使うようになっている気がする。
嫌じゃない。
便利な言葉。
けれど、便利なだけではない言葉。
はっきり好きとは言えないけれど、拒みたくはないとき。
怖いけれど、近づきたいとき。
そういう曖昧な気持ちを入れておける、小さな箱みたいな言葉。
「小日向先輩」
朝比奈さんが、少しだけ緊張した声で言った。
「わたし、小日向先輩に影響されるの、嫌じゃないです」
「……そう言われると、照れるんだけど」
「すみません。でも、本当です」
朝比奈さんは続けた。
「一ノ瀬先輩にも、藤咲先輩にも、篠宮先輩にも、影響されてると思います。でも、一番最初に言葉のことを考えたいと思ったのは、小日向先輩が原稿をちゃんと読んでくれたからです」
まっすぐだった。
掲示板に貼られた紹介カードみたいに。
飾りすぎず、でも届く形を探している言葉だった。
わたしは、すぐに返事ができなかった。
こういう時、前ならたぶん曖昧に笑ってごまかしていた。
そんなことないよ、と言って流していた。
でも、それだと朝比奈さんの言葉をちゃんと受け取っていない気がした。
「……ありがとう」
だから、そう言った。
「そう言ってもらえるのは、嬉しい」
朝比奈さんの顔が、一瞬で明るくなる。
「はい!」
隣で玲奈さんが、静かに笑っていた。
みおは少しだけ驚いた顔をして、それから満足そうに頷く。
「ましろ、最近ほんと逃げなくなったね」
「逃げてるときもあるよ」
「でも、今は逃げなかった」
「……たまには」
「いいね、たまには」
みおが笑う。
その軽さに、少し救われる。
昼休みが終わりに近づいて、わたしたちは教室へ戻ることにした。
朝比奈さんは自分のカードをもう一度だけ見てから、小さく頭を下げた。
掲示板に対して。
少しおかしくて、でも朝比奈さんらしかった。
「何してるの?」
わたしが聞くと、朝比奈さんは少し照れたように言った。
「ちゃんと届きますように、って」
「願掛け?」
「はい」
「朝比奈さんらしいね」
「ありがとうございます!」
褒めたつもりだったけれど、そこまで喜ばれると少し困る。
教室へ戻る廊下で、玲奈さんがわたしの隣に並んだ。
みおと朝比奈さんは少し前を歩いている。
朝比奈さんがみおに何か話しかけて、みおが笑っている。
その背中を見ながら、玲奈さんが小さく言った。
「こはるちゃん、ましろのこと本当に好きだね」
胸が少しだけ鳴った。
“好き”。
その言葉は、朝比奈さんの場合、とてもまっすぐで、尊敬や憧れが混じっているように思える。
でも、玲奈さんの口から聞くと、少しだけ別の響きになる。
「……そうなのかな」
「うん。見てたらわかる」
「玲奈さんは、よく見てるね」
「ましろに関係あることはね」
さらっと言う。
この人は本当に、油断するとすぐ近づいてくる。
「でも」
玲奈さんは少しだけ声を落とした。
「今日は、前より平気だった」
「何が?」
「ましろがこはるちゃんに感謝されてるところを見るの」
わたしは少しだけ驚いて、玲奈さんを見た。
「前は、平気じゃなかったの?」
「少しだけ。寂しいとか、羨ましいとか、そういうのがあった」
玲奈さんは素直に言った。
その言葉は、以前よりずっと自然に聞こえた。
「でも今日は、こはるちゃんのカードを一緒に見られてよかったなって思った。ましろがちゃんと受け取って、こはるちゃんが嬉しそうにしてて、それを隣で見られたのが、なんかよかった」
「……そっか」
「うん」
玲奈さんは笑った。
「たぶん、少し安心してる」
「安心?」
「ましろが誰かに優しくしてても、わたしの場所がなくなるわけじゃないって」
足が止まりそうになった。
玲奈さんの声は、静かだった。
でも、すごく大事なことを言っているのがわかった。
わたしは少しだけ言葉を探してから、答えた。
「なくならないよ」
玲奈さんがこちらを見る。
「玲奈さんの場所は、なくならないと思う」
言ったあと、顔が熱くなった。
これは、かなり近い言葉だ。
でも、言いたかった。
玲奈さんが安心したと言ったから。
その安心を、もう少し確かなものにしたかった。
玲奈さんはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり口元を緩める。
「ましろ、それはずるい」
「玲奈さんもよく言うから」
「うん。わたし、今かなり嬉しい」
「……そう」
「うん。かなり」
前を歩いていたみおが、ちらっと振り返った。
何か察した顔をしている。
わたしはすぐに視線を逸らした。
みおは何も言わず、ただにやっと笑って前を向いた。
それが逆に恥ずかしい。
教室へ戻ると、昼休み終了まであと数分だった。
朝比奈さんは一年生の教室へ戻るため、廊下で深く頭を下げた。
「今日は見に来てくれて、ありがとうございました!」
「こちらこそ、見せてくれてありがとう」
「また、何か書いたら読んでください」
「うん。無理しない範囲で」
「はい!」
朝比奈さんは元気よく去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、みおが隣で言った。
「こはるちゃん、いい後輩だね」
「うん」
「ましろ、後輩できたじゃん」
「そういう言い方されると、急に責任が重い」
「大丈夫。ましろは重く考えるくらいでちょうどいい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
みおは笑いながら、自分の席へ戻っていった。
玲奈さんも斜め前の席に座る。
予鈴が鳴る直前、玲奈さんがこちらを振り向いた。
声は出さずに、口だけが動く。
――なくならない?
さっきのことだ。
玲奈さんの場所は、なくならない。
それを確認するみたいな口パク。
わたしは一瞬迷って、それから小さく頷いた。
声には出さない。
でも、ちゃんと届いたらしい。
玲奈さんは、本当に嬉しそうに笑って前を向いた。
その笑顔を見て、午後の授業の最初の数分は、やっぱり少しだけ頭に入らなかった。
後輩のカードは、まっすぐすぎて少し眩しい。
でも、その眩しさのおかげで、わたしも少しだけ、自分の言葉をまっすぐに置けた気がした。




